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水槽

 青い水槽に鰯の大群が頭を揃えて泳いでいた。彼らの泳ぎは寸分違わずに調律のとれたもので、遠目に覗けば大魚が悠々自適に泳いでいるようにすら見えた。

「こっちみて!サメがいる!」

鈴香は大きな声で水槽を指刺しながら私を呼んだ。どれどれ。私も彼女の声に従って水槽を覗くと、チョウザメがゆっくりと不適な笑みを浮かべているように見えた。

「チョウザメか。サメはサメでもチョウザメはチョウザメ科だから、種類は違うんだよ」

私は浅い知識の一つをひけらかしてみせた。彼女はそうなんだ、と一言返事を放っているが、こちらを見ようとはしない。彼女は私の扱いが上手いのである。

 私はすっかり不貞腐れて、もう一度鰯の群れを見た。必死の形相、先程のチョウザメの後だと余計に、その抵抗、焦燥、息遣い、荒々しい、それでいて弱々しい、儚い、様々な色を私に見せる。彼らはこの狭い水槽でどこへ向かっているのだろうか。捕食されないように逃げているのだろうか。私には想像つかない話である。

 それから、私と鈴香はぐるりと淡水魚もクラゲもそれからエイもカレイも見てまわった。観覧も最終局面になって、いよいよイルカのショーが始まるというアナウンスが館内に響き渡った。

「はやく行こう!」

鈴香は言うや否や、半ば強引に私の手を取って、スタスタと歩き出した。私は彼女に抵抗する術をあいにく持ち合わせていなかった。引っ張られるようにして外のステージに目をやると、多くの客が今か今かと待ち侘びているように見えた。ステージ中央にいる女性が大きな声で挨拶をして、皆が彼女に釘付けとなった。彼女はステージを右へ左へ動きながら、あるいは他の飼育員に指示しながら、5頭いたイルカの名前をそれぞれ順に紹介していた。いずれも可愛い名前がそのキュートな表情に似つかわしかった。

 彼らのうちの一頭が、最初に圧巻のジャンプを見せた。それはそれは大きな水飛沫をあげて、太陽の光を背に受けながら輝いていた。私はそのイルカに目を奪われていた。彼はきっとイルカたちの中でも1番聞き分けがよく、実力も備わっているのだろうと直感した。なによりその身体が他のイルカたちよりも随分と逞しく凛々しい。私は他のイルカが変わった泳法を見せようとしている最中、彼の姿を追っていた。

 小さな切り身だった。彼は餌を欲していた。私の頭が金槌で叩かれたような気がした。それは鰯だった。あの群れをもう一度思い出した。それが無粋だと分かっていても彼らの必死の形相を放置することはできなかった。

 飼育員の女性もイルカも無論鰯だって悪い訳ではない。しかし私はこのどうしようもない歯痒さが耐えられなかった。最大の罪は私にあって、私はこの些細な疑問を抱いてはならなかった。鈴香は口を開けてイルカのボールを使ったショーを眺めている。私は両手の握り拳を強く作って硬直していた。
 
 イルカが一頭鳴き声をあげた。高く可愛らしく鳴いた。観客は皆表情筋を緩めてしまっている。私は瞬間にイルカの歯の鋭利を悟った。そして固く閉ざした握り拳を隠すようにポケットにしまったのである。

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