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蝶【短編小説】【純文学】

 家に一人の女が寄生していた。妻でもなく、恋人でもない。肉体関係を契ったことがただ一度だけあった。睫毛が妙に長く、胸元が開いた服を好んで着る乳の大きな女で、鎖骨が艶っぽく浮き出て、身丈は大方の女達よりも小さかった。


 女は出不精であった。私が外に仕事に出る時、帰る時には必ず私の家にいた。洗濯やら掃除やらを片手間でこなして、余った時間は私の書斎に入り浸って読み耽っているらしい。月に一度、私が無理やり外に散歩に連れ出す機会以外では、おそらく家を出ていないのではないかと思う。出たとしても、あの交差点を右に曲がった八百屋までであろう。あるいは、その向かいにある書店か。

 私は女をどうするでもなく家に匿っていた。生まれも育ちも知らぬ。家族構成すら訊ねた覚えがない。女は不明瞭であったものの、彼女の出不精が私に多大な信頼(男としての矜持を守るためのものである)を与えた。嫉妬やらの柵とは無縁の質であった。


 私は、いつものように朝から仕事をするために家を出た。それから、いくらか経って丁度路線バスが私の横を抜き去ったあと、いつもより人が少ないバスに違和感を抱いて、ああ、そうか、今日は祝日であることをようやく思い出した。女との二人の生活においては、それはもう土曜日曜以外はおしなべて同じ日であったため、久方ぶりの祝日をつい失念していたのである。


 私はせっかく家を出たのだからと、普段とは違う道を帰ることにした。雑草が生い茂った河原道を呑気に歩いていると、無造作に敷並べていた石たちの傍に女がいた。目を凝らさなければ女と分からないくらいの距離であった。女は特に目が悪く、おそらく私を視認していないであろう。私は持て余した隙を興味に注いだ。この女は一体全体何をしにきたのであろうか? 彼女らしくない行動に些かの好奇心を捨てることは能わなかった。

 私は、沿道を茂る草木の影に身を潜め、探偵の如き男になった。たまらない好奇心がさらに掻き立てられた。女は相変わらず一人呆けている。何をするでもなく、ただ佇む女の後ろ姿を窃視した。朝日がぐんぐん昇って女をより鮮明に色付けた。私は女をもっと近くで見たくなって、草陰を辿って、蜘蛛の巣を這って、ダンゴムシ、蟻の大名行列に並んで進み、いよいよ女の頬の赤み、鎖骨の彫り、華奢な体に似つかわしくない乳まで確認できた。女は一方的に凝視されていた。私は全身を隈なく眺め回した。女は初夏の照りつける日の光を浴びて、首筋には大きな汗の粒が吹いていた。襟元を潜って、背中から腰にかけて流れる汗の粒は容易に想像された。それが尻を手繰って太ももを駆け抜け、やがて目的を果たしたその汗の粒は、女の体を離れ、土に帰るのであろう。私は女の首筋に溜まる汗の粒を追い続けた。一方的な視姦、それは全身を愛撫するかのように丁寧な試みであった。この試みを女に悟らせてはならないという危険性がまた、私の情欲の滸を刺激した。否、私がここにいることがバレたとて、女は大して指摘しないであろう。しかし、盗人の如き、一方的な欲の満潮を望む私の浅ましき魂の顕現によって、女と私の匿う、匿われるの関係を歪に、そしてゆくゆくは破壊の一途を辿るのであろうと直感した。私の視姦は虚空のデカダンスであった。試みはやがて身を結び、実態を持った。私は汗と一体になったのである。久しく触れていなかった女を私は自然の赴くままに弄り濡らした。


「そこにいるのはどなたですか?」


女は気配を悟った。私は、恐ろしいほどの冷や汗をかいた。そして、この女に正体を見抜かれるわけにはいかなかった。幸いにも女の目は悪く、影になりを潜め。咄嗟に後ろを向いた私を、私だと認識できるほどの能力は持ち合わせていなかった。


「返事をしてくださいな」


女は詰め寄った。私は焦燥に駆られた。


「ゴホン、私は今体調が優れなくて、だからこうして、うん。多分この暑さにやられてしまったのだろう。中々に悪い……そう、だからこうしてだね、木陰にいて休んでいるのだ」



「あら本当ですか。やだ、大変だわ。それなら貴方の邸宅まで送り届けて差し上げましょう。どうでしょう?」


「いや。かまわん。私の家はこの道をまっすぐ抜けて、佐藤院長の次男坊の家を曲がってすぐにあるから。ああ、近いから大丈夫だ」


「あら、そうですか。ええ、お身体には気をつけて。そういえば、ここには何をしにいらしたんです?」


「ああ、散歩だ、そう散歩だよ。家内の目が最近やたらと厳しくて。子供がおってからには、それはもう。夜は酒、朝は散歩だ。ところでおたくは何故こんなところに?」


「実はうちには、元々旦那がありまして。これがまた大変暴力を振るう男でした。私は子も孕んでなかったので、命からがらこの地まで逃げて参ったのです。恐ろしいことでした。こっちにきてからは、なんやかんやあって、今の男のところに転がり込みました。大変優しい男です。うちとは一回あったきり、それっきりですからね。ええ。そしたら、今朝男が家を出た後に、前の旦那がどうやって調べたのか、訪ねてきたのですよ。正直話すと、前の旦那は所謂そういう人でした。全身に墨を撒き散らして、向こうを向いててもこっちを向いてるような形をしていましたから。そんな人ですから、そういう伝があったのでしょう。私もう捕まったら東京の湾やらに捨てられるか、鉛でも繋がれて監禁されると思ったのです。どうせ死ぬなら、ランペドゥーザ、あるいはサンブラスの島で人魚の姫のように泡になって死にたかったのですけど……。とにかく、バレないように勝手口からコソコソと落ち延びて、今に至る訳です」


私は女の正体を垣間見た。かつておくびにも出さなかった、元の旦那の匂い。それはきな臭い、危険な匂いであった。女はどうにか生きて逃げてきたらしい。私はひとまずここに女がいる意味を理解した。


「それはそれは、大変だね。でも今の男の家に戻ることもできないのだろう。一体どうするつもりだね」


「ええ、そうなんです。男には世話になりましたから、迷惑かけずに出るつもりでした。どうしましょう私ったら。何も考えずに出てしまいました。ああ、貴方。奥様とうまくいっていないのでしょう。これも運命の地平です。私と駆け落ちみたく、どこか遠くへ行ってしまいましょう。私元々旦那がありましたが、まだまだ綺麗な身です。存分に使ってくださいな。だめでしょうか、だめでしょうか?」


女は正体不明の私を説得していた。女は幾つかの会話を経て、ついに爆弾に成り代わった。元々爆弾であったが、着火されてなかっただけかもしれない。戦いの火蓋は切って落とされた。この女は既にそれを自覚していた。故にここまで焦って功を狙うのであろう。自分の身がもうすでに誰かによって、それは元旦那かそれ以外の男かは分からないが、陥落してしまう未来からは逃れられないことを悟ったのであろう。それでも世話になった私に迷惑をかけずに出ようとする心意気は殊勝と言わざるを得なかった。

 私はこの女の心行きには大変感心した。貴族や、国を守る公安でもいざ人のために死ねるのは大変勇気がいる。それを一人で決行するというのだから、中々見事な女であった。

 普通に考えるならば、この誘いは断るべきであろう。なにせ私は何も知らない私を貫けるだけの口実が存在するのだから……。


「あんた、目を瞑りなさい」


「突然どうしたのです? ええ、いや、嫌ではなくて、疑問に思ったのです。はい。瞑ります、瞑ります」


私は振り返って、女に近づいた。頭からは髪を洗った後の良い香りが残っていた。これは私のと同じであった。私はそのまま、顎を引いた。胸元が開いた女は艶があったが、カタカタ震えていた。首元には、先ほどまでの汗が残っていた。


「私、正直に言います。ええ。今の男も知らないのですが。実は、背中に一匹の蝶がおります。それ以外は何もありませんが、離れていても、元の旦那の気配がそこにあるのです。私、毎日毎日怖くて、外に出られませんでした。座敷童みたいな女です。家蛇かもしれません。それでも洗濯だって、掃除だってやります。貴方のために尽くしますから、何卒ご一考を……」


女は命令に従順なまま、願いを告げた。私は、その危険を孕んだ蝶をどうしても見たくなった。女の震える肩を抱きよせた。開いた胸元に手を突っ込み、ひん剥いた。女は命令を遵守した。上の衣が在らぬ状態になって、私は、たわわな乳、浮き出た鎖骨を眺めて、背中に回った。そこには一匹の蝶がいた。首から垂れた汗の粒が蝶の翅を煌びやかに濡らしていた。私は少し屈んで、女の肩をおさえて、その蝶の翅、雅な鱗粉をそっと舐めた……。

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