コジェーヴの日本論と政治的スノビズム―西洋の歴史を終わらせるということ―

 これは、その独特なヘーゲル解釈によって知られている、ロシアから革命を経てドイツに亡命し、その後フランスに移り戦後には官僚として働いた哲学者であるアレクサンドル・コジェーヴの主著『ヘーゲル読解入門』に註として掲載された文章の引用及びその解説である。

 コジェーヴは、日本の江戸時代を「歴史の終焉」が訪れた後に、アメリカ的動物化とは全く異なった倫理が支配するようになった文明と捉えていた。このコジェーヴの日本論について、坂井礼文氏の論文である「歴史の終わりと主体の問題について― フクヤマ,コジェーヴ ―」(『研究論叢』,2014)においては、豊臣秀吉が当時の日本の封建制度を崩壊させた事をプロレタリアートによるブルジョワジーの打倒に見立てた上で、その後に江戸幕府の体制が確立され、武士の戦士としての役割が形骸化していくプロセスが「歴史の終焉」であると解釈されている。コジェーヴの記したこの註記を額面通りに取れば、この解釈は極めて真っ当なものである。
 しかし、そもそも西洋社会以外に、ヘーゲル的な意味での<歴史>はあったのであろうか。坂井氏の上記論文においては、ヘーゲルが『歴史哲学講義』において語った、自らの歴史観とゲルマン人のそれとを同一視している発言に対して「大哲学者のこの偏見に驚きを隠せない」と、暗に非西洋社会にもヘーゲル的意味での<歴史>を見い出す事が出来ると主張しているともとれる記述がある。しかし、豊臣秀吉の闘争は、明らかに他の武士や民に自らが承認され、かつ自らが臣下や民を承認する為にのみ行われたものである。理性や自由といった観念を全く持たなかった東アジア儒教文明圏の歴史を、ヘーゲルは支配者のみが自由を持つアジア的停滞の状態として理解していたが、民や臣下に承認されていた当の支配者が「自由」なる観念を全く持っていなかったという意味で、そもそもヘーゲル的、即ち西洋的な<歴史>は如何なる意味においても始まっていなかった。つまり、江戸時代は「歴史の終焉」の後の世界などではなく、<歴史>以前なのである。

 コジェーヴは、江戸時代以降の日本文明の特徴をスノビズムが庶民に開放されている事に見た。そして、そのスノビズムこそが「歴史の終焉」の後に人間がアメリカ的動物化を免れる術であり、「歴史の終焉」を迎えた西洋人は日本との交流により日本化するであろうと述べた。上記論文においては、ここにおいてコジェーヴが従来語っていた、自然に対する<否定性>こそが人間であるというヘーゲルの独自解釈を用いた定義が転換されたとされている。
 恐らくこのスノビズムとは、ヘーゲルの承認概念から「自由」という観念を根こそぎ廃し、人間を単純に承認欲求を満たす存在と見なす為の言葉であった。コジェーヴが死去したその年に書かれたこの註記によって、恐らく彼は自らがヘーゲルからの思想的影響を部分的に脱している事を表明したのであろう。

 豊臣秀吉もまた、このようなスノビズムに突き動かされ足軽の身分から天下を取ろうとしたと考えられる。しかし、この政治的スノビズムは全く無際限のものであり、彼は実際に侵攻した朝鮮半島だけではなく、その先、明王朝の版図を超えて天竺に至るまでを支配しようとしていた。戦前日本の世界戦略も概ねこれを踏襲しており、それを支えていたのは豊臣秀吉の様に武勲を狙う凡百の軍人たちであった。

 社会が明示的な政治規範を持っていなかった場合、「野心」と言い換えることも出来るであろうこの政治的スノビズムの行く末は当然に暗いものである。現代においてもまた、そのような状況に対応しうる、単にシビリアンコントロールという観点に収まるものではない政治倫理思想の確立が求められるということに異論を唱える者は稀であろう。

 ヘーゲルの語ったところの、「自由」の承認を追い求め続けるプロセスという意味での歴史観に則った政治においては、その目的を成し遂げる為の事をするということがそれ自体で政治倫理となり得る。現代における諸々の社会運動もまた、それぞれがそれぞれの歴史を作り出しているのであって、その運動の文脈の内においては、その目的自体が政治倫理となり得るものである。しかし、少なくとも国家レベルにおいては、憲法において「自由」が記されたという事実において、このような歴史は法実証主義的に打ち止めが為される。なお、コジェーヴは「歴史の終焉」を国家における法の成立ではなく、ナポレオン戦争やソ連の成立といった歴史的事象に求めているが、これは国家論的ではなく、世界論的な見方を採ったものといえるだろう。

 ともあれ、法的にこのような歴史が終わりを迎えてしまっている以上、国家レベルにおいて、いかなる意味においてもヘーゲル的ではない政治倫理が求められるのであるが、その為に日本が参照するべきは、前提としてのどのような世界観を構築するよりも先にまず政治道徳が確立していることを以て「道」とした儒家の伝統と、政治的スノビズムの昇華という目的に於いて世界的に見ても最も卓越した制度であると思われる科挙制度であるはずだ。そして、それを説き続ける事こそが、国家的レベルにおいてのみならず、社会的にヘーゲル的進歩史観を葬り、「自由」という観念の奴隷としての人間を生み出し続ける西洋的な<歴史>を終わらせる何よりの道筋となることを、私は信じている。


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