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特集:エストニア国防軍の再建と発展(Part 1)

この記事では、1991年の独立回復後のエストニア国防軍の再建と発展について取り上げます。

まず大前提として、1991年以降のエストニア共和国の国防を語る上で、具体的に3つの時期に分けられます。

1) 1991-1994年
エストニアの独立回復と駐留ロシア軍(旧ソ連軍)が同国から撤退するまで

2) 1994-2004年
エストニアがNATO(北大西洋条約機構)に加盟するまで

3) 2004年から現在まで

※ただし、第3の時期については私(筆者)は疑問に思っており、2008年の「ブロンズの夜」事件とエストニア政府中枢へのサイバー攻撃、または2014年の「クリミア事変」のいずれかを単元として区切り、もう2-3つの時期が定義出来るのではないかと思います。

エストニア国防軍の再建は1991年9月-10月頃と言われているのですが、前年の1990年にはエストニア人自身の意思によって民兵組織「エストニア防衛連盟」(Kaitseliit)と国境警備隊(Piirivalveamet)が創設されており、国防軍との法的な立ち位置や関係性が問題となりました。Kaitseliitの元次官であるカダク(Kadak)氏は、当時、この三者間でエストニアの国防における主導権争いや一部政治家による軍事組織の利用による権力掌握の試みがあったと述べています。

当時のエストニア政府としても、国内の軍事・治安機構に対するシビリアンコントロールの法的整備よりも、まずは国防軍や治安機関の再建を優先しており、1991年に制定された法律でも参謀本部(Peastaap)の創設や将兵の募集に関する事柄が述べられているのみでした。

エストニア警察・国境警備隊(Politsei ja Piirivalveamet)の巡視艇「メレルヴィ」(Merelõvi)。2020年代に国境警備隊所属の艦艇は海軍へ移管されることが決まっている。

エストニア政府が国防軍の再建を最優先とした一方、半世紀に及ぶソ連占領下からのそれは容易な事ではありませんでした。特に高いレベルの軍事教育を受けたプロフェッショナルの軍人としてはやはり旧ソ連軍の軍人を採用せざるを得ず、装備などもしばらくの間は旧ソ連軍が残置していたものの再利用となりました。一例を挙げると、エストニア政府によってエストニア人の血統を持ち、エストニア国籍を付与されるに値するとされた旧ソ連軍での将校経験者432名のうち、60名が新生エストニア軍に参加しました。

新生エストニア軍の国防戦略としては、1992年から2004年までの間、「全面防衛」(Total Defence)と呼ばれる軍事・民間を統合したものが採用されており、ありとあらゆる資源(人的・社会的)を注ぎ込み、国家防衛に充てるとされていました。

そして、新生エストニア軍独自の人材育成も始まり、1991年12月には3ヵ月間の将校養成コースが開設されます。ただし、これについては開設当初はほぼお題目に過ぎず、軍事教育というよりはむしろ警察など治安機関向けの人材育成を行っていました。本格的な将校教育については、1998年3月の「統合軍事教育機構」(Joint Military Educational Institution、現在の「バルト国防大学」)創設を以て始まったとされています。

1992年、新生エストニア軍の「クペルヤノヴ歩兵大隊」。旧エストニア軍のクぺルヤノヴ大隊は独立戦争時(1918-1920年)に活躍したゲリラ戦部隊で、エストニア南部の学術都市タルトゥの解放などに貢献した。

一方、1993年には、戦前(1937年)制定の憲法をベースに、独立回復後初のエストニア憲法が制定され、現役のエストニア軍人は政党の会員もしくは選挙で選ばれる代議士等にはなれないとされました。

エストニア憲法の制定を経て、新生エストニア軍の国内での立ち位置や法的整備も進んでいく事となります。(Part 2に続く)

【参考文献など】
1) Luik, J. (2002) Democratic Control of the Estonian Defense Forces. Connections, Vol.1., pp.5-16.

 ※ソース保護のため、一部のみ記載しております。





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