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特集:エストニア国防軍の再建と発展(Part 4)

エストニア国防軍(EDF)の再建と発展を追うシリーズ、第四回は1990年代後半から2000年までを取り上げます。

軍の直接指揮という越権行為を行いがちのエストニア大統領、同国内における軍事組織の不明瞭な法的立場と指揮権、軍事組織間の権限を巡る対立の中、NATO加盟を願うエストニア政府とエストニア国防軍は独立回復から約10年という節目に向けて、どのような変遷を辿って行ったのでしょうか。

1997年9月11日、エストニア西部において、「バルティック平和維持大隊」(Baltic Peacekeeping Battallion - BALTBAT, バルト三国が共同で創設した国連平和維持軍への兵力拠出を目指す国際部隊)の24名の訓練生がエストニア軍の指揮下で、パクリ(Pakri)諸島からエストニア本土との間にある、3kmほどの短い「クルクセ海峡」(Kurkse Strait)を徒歩で渡る訓練を実施していました。しかし、突然の天候悪化と低い海温により、訓練生らは目的地の対岸を見失って次々に溺れ、14名が命を落としました。後に「クルクセの悲劇」と呼ばれるこの事件の後、エストニアのレンナルト=メリ(Lennart Meri)大統領(当時)とマルト=シーマン(Mart Siimann)首相(当時)、そして国防省と軍参謀本部の間で軍の指揮権とそれに付随する事件の責任を巡る激しい対立が巻き起こります。

また、被害者となったバルティック平和維持大隊の将兵には外国であるラトビアやリトアニア出身者も含まれており、「軍に関する明確な指揮系統の不在」というエストニア国内の政治問題が対外関係にも厳しい影響を及ぼしました。結局、クルクセの悲劇の責任を取らされたのはBALTBATの訓練生らを指揮していた、エストニア軍出身のヤーヌス=カルム(Jaanus Karm)という若い中尉で懲役刑(のちにメリ大統領により恩赦)に処せられました。

「クルクセの悲劇」はエストニア国内でも責任問題を問う声が大きく、また同国の対外関係に悪影響を及ぼしたにも関わらず、「明確な指揮系統」が確立されないまま政治問題として残置され、エストニア政府は集団防衛への期待からNATO加盟に向けて前のめりになっていきました。

1998年3月、メリ大統領は、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)を訪問し、翌99年に開催されるワシントンでのNATO首脳会議においてエストニアを含むバルト三国のNATO加盟問題が重要な議題になる事を望み、エストニアのNATO加盟希望は冷戦終結後も環大西洋全域を守る集団防衛の枠組みに残りたいと望む既加盟国のそれと同じであると発言しました。

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エストニア政府はすでに1996年にNATO加盟の意思を示し、同年1月にはティート=ヴァヒ(Tiit Vähi)首相(当時)とソラナNATO事務総長(当時)のブリュッセルにおける会談、4月にはソラナ事務総長によるエストニア訪問が実現し、5月にはエストニア国会においてNATO加盟申請案が可決されました。1997年のNATOマドリード首脳会議では、旧共産圏であるポーランドやチェコのNATO加盟に向けての話し合いが開始され、バルト三国との関係強化の方針も再確認されました。

しかし、エストニアがNATOへの加盟申請を行う上でネックとなったのが、やはり国防計画の未策定や国防軍に関する法的整備といった問題でした。1999年には、エストニアの国防計画や実施プロセスの策定といった「国防改革」を進めるにあたって、エストニア国防省と在エストニア米国大使館内に所在する「アメリカ国防協力部」(U.S. Office of Defence Cooperation)との間で、エストニアの国防計画に関する意思決定機構立ち上げに関する対外軍事基金(FMF)協定が結ばれます。アメリカ政府がエストニアの国防改革の旗手として選んだのは、米海軍大学院の「民軍関係センター」(Center for Civil-Military Relations, CCMR)でした。

CCMRを中心とした国防改革を計画するにあたって問題となったのは、やはりエストニアの国防を担う機関同士の法的関係の不透明さとエストニア国防省自身に国内の全軍事組織を指揮する権限が無い事でした。1990年に純軍事組織として創設された「国境警備隊」、同年に再建された民兵組織「エストニア防衛連盟」(驚くべきことに当時の法的解釈は”エストニア国防省と軍参謀本部の指揮・監督下にある”民間組織だった)、1991年に再建されたエストニア国防軍、そして1992年に創設されたエストニア国防省と、それぞれの組織が別個の権限で動いているこの「四つ巴」の構造はエストニアの国防における指揮命令系統を不明瞭かつ不安定化させていました。

これら問題点を踏まえた上で、CCMRはエストニア国防省と軍参謀本部に対し、まず同国の国防計画策定の上で重要となる「国家軍事戦略」(National Military Strategy, NMR)文書を作成するよう促しました。NMR文書の原案は2000年後半に完成し、エストニア政府による精査の後、2001年2月に完全版が公表されました。

また、常に国防軍を自分の指揮下に置きたがり、ともすれば軍の指揮系統に関する越権を行いがちだったレンナルト=メリ大統領に代わり、2001年に就任が予定されていたアルノルド=ルーテル(Arnold Rüütel)新大統領の下で、軍の指揮権が明確化され、シビリアンコントロールが徹底されることが期待されていました。

しかし、エストニアの国防を巡る権限確立にはまだまだ時間が必要でした。

(続く)

(出典)

・Herd, G., P. & Moroney, J., D., P. (eds.). (2003). Security Dynamics in the Former Soviet Bloc. RoutledgeCurzon.

・Luik, J. (2002) Democratic Control of the Estonian Defense Forces. Connections, Vol.1, pp.5-16.

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