見出し画像

特集:エストニア国防軍の再建と発展(Part 2)

今回の記事では、1991年の独立回復後のエストニア国防軍の再建と発展について、中でも1994年のロシア連邦軍のエストニアからの撤退までの話を取り上げます。

1991年8月、エストニア最高会議はエストニアの独立回復を決議し独立国家としての主権を回復した後、最大の問題となったのはエストニア国内に駐留を続ける旧ソ連軍(ロシア連邦軍)でした。

1991年12月のソ連崩壊直後、エストニアを含めたバルト三国に駐留していた旧ソ連軍の総数は10万とも13万ともいわれています。

1991年8月、エストニア独立回復運動を鎮圧すべく、タリン市内に侵攻したソ連軍プスコフ部隊の装甲車輛群。

独立回復直後から、エストニア共和国政府とロシア連邦政府の関係はエストニア国内のロシア系住民に対する処遇、旧ソ連駐留軍の将来、エストニア・ロシア国境線画定問題などを巡り、急速に悪化していきます。ソ連という枠組みを失い経済的に混乱し弱体化したとはいえ、ロシアは大国であり、小国エストニアにとってロシアと単独で対立するのは無謀とも言えました。

特に国内のロシア系住民に関する問題を巡っては、1993年に欧州安全保障協力機構(OSCE)の少数民族高等弁務官(HCNM)の事務所がエストニアとラトビアに創設されました。HCNM事務所の目的は、エストニアやラトビア政府に対し国内のロシア系住民の取り扱いに関する適確なアドバイスを行い、ロシア政府に対する交渉役として機能するというものでした。また、OSCE本体やEU、欧州議会などもロシア系住民問題に対して、エストニアやラトビア政府への支援を行いました。1993年5月にはエストニアとリトアニアが欧州評議会(Council of Europe)への加盟を果たし、エストニアは「欧州」の一員として確固たる足場を築いていきます。

この間、エストニア政府とロシア政府の間で、旧ソ連駐留軍の撤退に関する交渉が続きましたが、ロシア政府側は住宅や年金支払い、更にエストニア国内に残る退役ソ連軍将校らの扱いを持ち出し、交渉はなかなか進みませんでした。独立を回復したばかりのエストニアにとって、ロシア政府の指揮下にありながら国内に残る強力な旧ソ連駐留軍は政権転覆や再占領の危険性を秘めており、一刻も早い全軍撤退を実現したかったのです。

旧ソ連空軍の戦闘攻撃機部隊が駐留していたアマリ空軍基地(エストニア)に現在も残る、殉職者の墓標。(2014年撮影)

当時のNew York Timesの報道によれば、この状況に風穴を開けたのはアメリカ議会でした。「1994年8月31日までの旧ソ連駐留軍完全撤退」―この条件をロシア政府が吞まなければ、ロシアへの財政支援法案は通らなくなり、

アメリカ政府もまた、旧ソ連駐留軍のエストニアからの撤退遅延は1994年9月に予定されていた米露首脳会談をキャンセルするとロシア政府に対して圧力を掛けました。

結果として、1994年8月31日、最後の旧ソ連駐留軍がラトビアを出発し、50年にも及んだソ連によるバルト三国支配は完全に幕を下ろしました。しかし、1994年夏の段階でもエストニアとロシアの国家間対立は続いており、エストニアにとって集団安全保障の枠組みに入るという至上命題はいまだ達成されていませんでした。

(続く)

出典:

Herd, G., P. & Moroney, J., D., P. (eds.). (2003). Security Dynamics in the Former Soviet Bloc. RoutledgeCurzon. 

Russia Agrees to Full Withdrawal Of Troops in Estonia by Aug. 31, 27th July 1994. New York Times.
https://www.nytimes.com/1994/07/27/world/russia-agrees-to-full-withdrawal-of-troops-in-estonia-by-aug-31.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?