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【特集】1940年6月にエストニアで何が起きたのか(番外編) - 戦間期エストニア国防軍の能力(Part.2)

戦間期エストニア軍の国防戦略は、東部のソ連国境と接するナルヴァ(Narva)地域とイルボスカ(Irboska)地域において2個師団でソ連軍の侵攻を一時的に食い止め(残り1個師団はソ連軍強襲上陸時の遊撃用として国内で待機)、その間に国内で総動員を実施し、然るべき兵力が整った後に反撃に出てソ連軍を領外へ追い出すというものであった。この総動員には数週間から1ヵ月程度かかると見込まれていた。

また、ラクヴェレ(Rakvere)を司令部とするエストニア陸軍第1師団所属の装甲列車連隊は首都タリン郊外のタパ(Tapa)に駐屯し、2編成の装甲列車群(第1、第2砲兵集団)は平時には西部沿岸の街パルディスキ(Paldiski)において沖合の島を目掛けて射撃訓練を実施していた。装甲列車連隊はナルヴァ戦線を保持している間、ソ連軍の沿岸部への強襲上陸を防ぐための沿岸要塞補助の任務が与えられていた。

フィンランドのクイヴァサーリ(Kuivasaari)島に残る沿岸要塞。帝政ロシア時代に、日露戦争で弱体化したバルチック艦隊の泊地防衛を目的に建設された「ピョートル大帝要塞」の遺産で、独立後のフィンランドとエストニアはこれら沿岸要塞を活用し、エストニア側ではナイッサール(Naissar)島に同型の沿岸要塞があった。

しかし、この国防戦略には致命的な欠点があり、南部戦線においてソ連軍がラトビアへの同時侵攻に踏み切った場合、エストニア南部から防衛線を迂回され、領内への侵攻を許してしまうというものだった。(実際に1944年、独ソ戦の最中、ソ連軍は防御堅固なナルヴァ近郊のタンネンベルク線突破と同時にラトビア方面からの迂回作戦を成功させ、ドイツ軍をエストニア領内から撤退に追い込んでいる)この欠点に関しては考慮されたが、エストニアの少ない人口や平時における国防予算の限界から、ラトビア軍の努力に任されることとなった。

ナルヴァ地域における防御陣地構築については、1939年の段階でいくつか進んでいたが、川沿いに50のトーチカを建設するなどソ連軍の渡河を防ぐ水際防御的なものも多く、戦略としては間違っていた。

2023年現在のエストニア・ロシア国境にあたるナルヴァ川。戦前はコマロフカ(Komarovka)というよりロシア寄りの内陸の地点が国境であったが、有事の際の防衛線としてはナルヴァ川まで後退し、自然の要害としての川を利用するというものであった。

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