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自己肯定感と根拠なき自信

あくまでも個人の主観でありますが、前々からこの「自己肯定感を高める」とか「自信を持て」という風潮に違和感を覚えておりました。

なかなかパンチの効いた母親に色々と「それ、子供に言っちゃ駄目なヤツ〜」を散々言われて育ちましたので、自己肯定感なんぞあるはずも無く過ごしてきた結果、まあ無くてよかったかな、と思っております。

「あんたは生まれた時、爺ちゃん婆ちゃんからお腹に返してくれ」って言われたんだよとか、「生まれつき鈍い」とか、それ、本当に子供に言っちゃダメなやつ笑。

そもそも自己肯定って何?って話なんだけど「ありのままの自分を肯定すること」って事らしいが、これってある意味、持っていたらやばくね?って思うのは僕だけですかね?

自分が超とんでもないサイコパス野郎だったり、自己評価が高いだけの勘違い野郎だったとしたら、ただの迷惑野郎か、ただの残念君じゃない?

よく居ません?そんな大したことない人が環境だけが恵まれているだけなのにヤケに自信満々な人。

で、思った訳です。自己肯定感は低くてもいい。低いからこそ、努力できる。低いからこそ成りたい自分を目指して頑張ることができる訳です。

そして、一歩一歩着実に努力を積み重ね、頑張った先に自信がつき、「自分軸」という軸がしっかりしてきて何ものにも惑わされない豊かな生き方ができると思う。

人は幾つになっても成長できるし、成長を望まないと、あっという間に、ただ年をとっただけの残念な人になってしまう。せっかく持って生まれた素晴らしい才能や環境があったとしても全部、無駄になってしまう。

ぼくも本当に子供の頃は何にもできないやつでした。勉強もできないし運動もできないし何をやらせても鈍臭かった。

そんな自分が信頼できる仲間に恵まれ、リーダー的な立場で人を引っ張っていく様になるとは、その当時は思いもよらなかった事です。

それもこれも、自己肯定感が低かったおかげと思っております。そして「自己肯定感」や「自信」といったものは、ある場面では高くもなり、ある場面では低くくもなるものと思ってます。これは死ぬまで繰り返すものなんだとも思っております。

何の努力もなく自分軸も何もない状態での自己肯定感が高いのは、ちょっと違う気がする。

そして、多くの人は、「ありのままの自分」って意外とわかってない様な気がする。それに気づく為には自己との対話を沢山して、ありのままの自分を磨くことでしか知る事はできない。

「自己肯定感が高い」ってのは自分に嘘をついて、努力しない自分を肯定することじゃないし、逆に低いからって卑屈になって「どうせ自分なんて努力しても無駄」って努力しない自分を肯定する事でもない。

高かろうが、低かろうが、シンプルに努力を積み重ねて、ほんのちょっぴりでも昨日の自分よりも成長できたら、きっと、そのうち成りたい自分に近づく事ができると信じている。

一旦、「自己肯定感」は置いといて、自分にできる事をちょっとづつ続けていく事が何より大切だと思う。








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