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名胡桃城奪取事件

皆さんは小田原合戦の引き金となった名胡桃城奪取事件というものをご存じでしょうか?大河ドラマ「真田丸」で描かれていたので知っている方もいると思いますが名胡桃城奪取事件と猪俣邦憲について話していきたいと思います。

天正16年、徳川家康からの要請で北条家は豊臣秀吉に従属することを決定。
上洛の条件として以前から真田家と揉めていた沼田領の解決を秀吉に求めた。翌天正17年、沼田領問題の解決にあたり双方の事情を説明させるために秀吉は家老の上洛を求めてきたので、板部岡融成を派遣。その結果、沼田城を含む3分の2を北条領とし名胡桃城を含む3分の1を真田領とする裁定が下る。当主・氏直はこの裁定を受け容れ、12月上旬に氏政が上洛することを秀吉の使者 妙音院と一鴎軒に伝えた。氏政は上洛に向けて費用の調達などの指示を出していたがそんな中、事件が起こる。

沼田城に配置されていた猪俣邦憲が突如として名胡桃城を乗っ取った…というのが今までの通説。だが、この名胡桃城奪取事件は名胡桃城内で城主の鈴木重則と家臣の中山実光が対立して起きた内紛というのが最近(でもないけど以前から)言われている説。この2人は以前から仲が悪かったみたいで中山実光が鈴木重則を追放。中山の書状によると真田方の援軍として越後勢が途中まで進軍してきたため沼田城の猪俣邦憲に援軍を求めたという。邦憲はそれに応じて援軍を派遣してしまった。戦国時代ではこのような行動は普通によくあったこと。でも、秀吉の「惣無事令」では勝手に他家へ軍勢を動かすこと自体が違反行為だった。秀吉の許可を取らずにやったのがかなりまずかった。

この事件によって北条だけが悪いみたいな言い方されるけれど、真田家も北条家への嫌がらせで沼田の領民をごっそり移住させて空になってから沼田城を引き渡したり、真田家から北条家に割譲された中之条では領民を渡さなかったり中々なことをやってる。

そして、名胡桃城奪取事件が秀吉に伝わり、猪俣邦憲の処罰を要求された。処罰すれば秀吉は北条家を討伐する考えはなかったようである。しかし、北条家は猪俣邦憲を咎めることはなく彼を庇った。そして、猪俣邦憲に引き続き沼田城を任せている。そうしたことによって、名胡桃城奪取事件は小田原合戦のきっかけとなってしまうのであった。

この事件を起こした猪俣邦憲についてもちょっと紹介したいと思う。
猪俣邦憲は軍記物で「思慮が足りない田舎武士」などという酷い言われようをされてるけど元の名は富永助盛といい、れっきとした譜代の出身。田舎武士でも何でもない。富永家といえば北条五色備えの富永直勝が有名だが、どのような関係なのかは不明。同族?
邦憲は武蔵七党のひとつに数えられる名門 猪俣家へ養子に入った。その後、氏政の弟 氏邦に仕え小田原から武蔵に移って名を邦憲と改める。北条宗家からの信頼も厚く上野侵攻の先鋒として活躍し、当主・氏直から感状を与えられている。感状とは合戦などでの戦功を讃えて大将から贈られる文書。それから箕輪城代や沼田城代を務め天正17年、名胡桃城奪取事件が起きてしまう。だが邦憲が独断でこのようなことをやるとも思えないので当然、上からの指示によるものと考えられる。小田原開城後、邦憲は富永姓に戻って実弟の富永勘解由左衛門助重と共に前田家に仕えたという。

参考文献:
黒田基樹「戦国大名・北条氏直」角川選書,2020年12月,P121~126

名胡桃城奪取事件は戦国時代に書かれた資料が少なくこの事件についての多くが江戸時代に書かれた軍記物を元としているなど不明な点が多い。また、猪俣邦憲についての行動もよくわかっていない。なので、あくまで一説として受け止めていただければと思う。


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