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裏切者か忠臣か

皆さんは松田憲秀という戦国武将をご存じでしょうか?
小田原北条氏の家臣はあまり有名ではありませんがその中でも割と知られているのは松田憲秀だと思います。今日はそんな松田憲秀について紹介していきます。


備前松田氏と相模松田氏

松田憲秀の父 松田盛秀は室町幕府奉公衆 備前松田氏の一族。備前松田氏は堀越公方 足利政知に従い伊豆へ下向。北条氏に仕えるのは伊勢宗瑞が堀越公方を倒したあとからのこと。盛秀の盛は伊勢盛時からの偏諱と考えられ北条氏家臣としては2代目となる。仮名 弥次郎は相模松田氏にちなむもので備前松田氏から養子に入り相模松田氏の名跡を継承した。

家中第二位の知行高

松田憲秀は北条氏康義弟 綱成の妹を母にもつ。「堀尾古記」によれば北条氏政より3歳年上だったようだ。弘治元年から永禄元年までの間に家督を継いだとされる。年齢は20代前半くらい。
永禄2年、北条氏康が作成させた「北条氏所領役帳」には小田原衆筆頭として名前が見え知行高は本領の相模国苅野庄などにおよそ2800貫文。これは北条氏一門衆の北条宗哲に次ぐものだった。現代価格に換算すると2億円ぐらい?

松田氏系図(右から左へ)
玉縄北条氏と松田氏系図(右から左へ)

軍事や外交での活躍

松田憲秀の軍事面においての活躍はあまり記録がないが、北条氏の主要な合戦に参戦している。
永禄11年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が崩壊。北条氏としては以前から武田氏と今川氏の間を取り持ち同盟維持に尽力していたにも関わらず事前相談なしに武田氏が一方的に同盟を破棄したため今川氏の支援を決定。松田憲秀は翌永禄12年6月から元亀2年正月にかけて武田方の最前線基地 駿河深沢城に伯父 綱成と共に在城している。武田軍の猛攻により深沢城落城し、その後は駿東郡南部の平山城の城将を務めた。氏康が元亀2年に死去すると氏政は外交方針を転換。甲相同盟を復活させたため平山城は武田氏に引き渡され破却された。

外交面においては松山上田氏、下総原氏、下総相馬氏、府川豊島氏、土気酒井氏、万喜土岐氏、江戸崎土岐氏など多くの指南を務めさらに安房里見氏の取次を務めている。このことから憲秀は北条氏の外交に大きな役割を担っており、その外交手腕はずば抜けたものがあった。

小田原合戦と内応事件

天正17年5月までに家督を次男 直秀に譲って隠居している。
そして翌天正18年の小田原合戦では小田原城に籠城。しかし長期間包囲されて厭戦気分が広まりつつあった6月16日事件は起こる。長男 笠原政晴と共に豊臣方に内応しそれが露呈。松田直秀が当主・北条氏直に父と兄が豊臣方に内応したことを告発したため憲秀は監禁された。しかし、この内応はもともとは北条家存続のために独自ルートで開城交渉を行っていたと思われる。この時期、氏直は開城に向けて動き出していて織田信雄家臣 岡田利世と密談していたりするので氏直の指示で動いていた可能性がある。北条氏の筆頭家老といえど2か国の所領安堵を豊臣秀吉から得られるかは謎でしかない。だが、氏直の指示で開城交渉を行っていたというのなら納得できる。

小田原開城後

北条氏直は7月5日、滝川雄利の陣中へ行き自身の命と引き換えに城兵の命は助けてほしいとして秀吉に降伏した。秀吉はその姿勢に感じ入り神妙として家康の娘婿という立場だったこともあり助命され、氏政・氏照・大道寺政繁・松田憲秀は開戦の責任を問われ切腹を命じられる。7月17日、憲秀は切腹した。

参考文献:
黒田基樹「戦国北条家一族事典」戎光祥出版,2018年6月,P147~150 P196~198
志村平治「相模朝倉一族」戎光祥出版,2022年5月,P21~24

松田憲秀は裏切り者というイメージの方が一般的に有名ですが、自分的には北条家存続のために奔走した忠臣だと思ってます。皆さんは松田憲秀についてどんなイメージをお持ちでしょうか?この記事を通して「こんな武将がいたんだ〜」と知って頂けたら嬉しいです。

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