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千羽鶴と色

最近ある方と、色々と話していて、、。

ある話の流れからウクライナのことに。

最近話題になっている千羽鶴になった時、
その方が無意味ですよね(戦争している時にありがた迷惑みたいな)
そうなんやなぁって話していたのですが、なんか引っかかるものがあって、
それは多分、本当に相手にとって状況を考えると全くもって無意味だし文化の違いもあり解釈に困ることも察することもある。

僕は阪神淡路大震災を経験しているので、こう言った未曾有の有事の時の受身側の気持ちも若干把握している当時は若かったせいもあり、ボランティアの方々を人によっては自己満足じゃんて穿った捉え方だったりもした、でもそれに助けられた人も多かったのは確かだし、何が大切かって、やってもらえたことより、知ろうとしてくれたこと気に留めてくれたことが、何よりの明日の力になったこともある、ただの折った紙切れに過ぎないもの必要な武器にもならないかもしれないもの、、。

そうビックリするほどの自己満足、自己アイデンティティ(強めの存在意義)かも知れないが、モノクロの街をカラーに出来ることもある。

福祉業をしていても、そう言った場に出くわす、
とてもむつかしい天秤だけど、サッと無意味やんって言えるほどドライではない、ここが本当にむつかしいデザインとクリエイティブ性。

ただ千羽鶴を折るかと言われれば折らない。だから、なんか引っかかる会話だった程度だが、有事な時ほどその人のひととなりや行動が浮き彫りになるような。

震災当時避難所で寒い教室、布団のなか余震がおさまらない明日の恐怖を感じながら、隣の家族の子供さんが小学生になるので真っ赤なランドセルが教室に積まれていて、とっても嬉しそうに背負った姿をみて、明日から学校やねっ、おめでとうて言ったのを思い出す。
それは使われるランドセルが必要だったのではなく、色がある景色に救われたのだと思う。千羽鶴賛否両論あると思うけど、僕はその辺は幼いかも知れないけど、気に留めるお花畑がいっぱい拡がれば、なんかいいなぁって、ひともまんざら捨てたもんじゃないなぁって思う。一輪の花がひとを変える事もある。ドライと情の狭間で今日も考える。

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