見出し画像

愛している、という言葉で心が伝わると思う甘え。

愛している、という言葉で心が伝わると思う甘え。

告白で「愛している」と伝えたって、それまでの会話で自分のことを一方的に話すだけだったり、歩くスピードも合わせずにスタスタ歩いていったりしたら、その言葉は響かない。

どこかに涙ぐむほど素晴らしいスピーチの技法がある、と思いたくなる。
しかし、実際は言葉よりも行動が100万倍大切だ。
「愛してる」のLINEに、「俺も、早く会いたいな」と、浮気相手のベッドで相手のシャワーを待ちながら真顔で返信していた知人のイケメンがいた。

優しい言葉を掛けられる人は、心が優しい人なんじゃなくて、人が喜ぶ言葉のストックが多い人たらしなだけなんですよ。

人は関心がある情報を集める。
車に関心がない女子高生が、町の車の車種を見分けられないのと同様に、関心がない情報は頭に入ってこない。
ならば、優しい言葉を掛けられる人は、優しい言葉に関心を持って、たくさん自分のものにしていった優しい人だ、という慈愛派な考え方も分かるけどさ。

***

お金も同じだ。
誰かを愛しているという。
LINEで伝えるなら3秒だ。

会いに行って、抱きしめるなら1日かかる。
ご飯を奢って、女の子の家の最寄り駅まで送るな、ランチのお金を稼ぐための別の日に働いた時間も、その子のために捧げられていることになるから、2日か。

ならば、誰かを愛すると言いながら、お金がないのは罪だ。
エスコートする知識がないことも、罪だ。

無知は罪だ、とは人口に膾炙した言葉だが、人は知らないことはできないし、その分のストレスを人に与えることになる。

お洒落なランチを知らなかったら、クリスマスのデートを予約しても松屋で牛丼につれていくかもしれない。
お金の稼ぎ方を知らなかったら、ゴムが破れて避妊に失敗した時に、アフターピルの1万円も大金に感じてどっちが払うかで喧嘩になってしまうかもしれない。

繰り返そう。
無知は罪だ。

愛してるからって1日中だらだらとLINEを続けたりすることだけが愛ではないと思うんです。
会いたい、という言葉を繰り返すだけが愛ではないと思うんです。

どっちも大好きになると、やりたくなるけれど。

誰かのことを愛するのなら、
その愛を伝える真剣さと同じだけの真摯さと密度で、その子が喜ぶご飯のお店を探す時間を使うべきだ。
仕事で出世するように真剣に仕事に取り組むべきだ。

それを愛と呼ぶのは重いだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?