「この人といると心地いいな」というふわっとした焼きたてのクリームパンを抱きしめるような感情
信頼して体を預けられる誰かの体温に触れたい気持ち。
激しいピストンをするようなAVで性欲を解消したい気持ち。
たぶん、だいぶ異なったタイミングで感じるものなのだと思う。
あたたかさとかやわらかさに触れたいとか、寂しさとかの感情に揺さぶれる夜がある。
「いま自分が感じているのは性欲だろう」と満たそうとするものの、動画へ画面越しに欲情する気持ちにはならなくて感情の輪郭が分からなくなる。
お腹が空いていて食欲を満たしたいときに、お茶漬けが食べたいときとステーキ定食が食べたい気分の時はまったく違うみたいに。
激しいAV的な性欲を満たせるものは、わりあい手軽に手に入る世の中だ。
スマホで検索してもいいし、(自分は行ったことがないからやや想像で書いてしまうけれど)夜のお店も存在する。
しかしスマホを片手に右手を動かしても、感情のモヤは晴れない。
性欲の突き動かされるような衝動はなくなり、わずかに気だるい倦怠感を感じながらも、「なんか違う」と思ってシーツにくるまって寝落ちる。
資本主義は、欲望を商品化した。
アメリカでは代わりに子供を身籠る代理母なんてサービスすら生まれてきた。
この倫理的な正しさについては、マイケル・サンデルが『それをお金で買えますか』で焦眉をひそめていたがここでは深く立ち入ることはしない。
いままで、眉を顰めたり「そんなのは売れない」と思っていたものまで、かなり広範な欲望は商品化された。正しいのかどうかはさておいて。
それでも残っている領域が親密圏なのだと思う。
その人と一緒にいるとあたたかな気持ちになれたり、優しい気持ちになれたりする。
吉本ばななが「私や、村上春樹さんは小説家というよりも、人の心を癒すようなシャーマンのようなものだと思うんです。たぶん少し前なら巫女とかがやっていたものを代替している」とエッセイで書いていた。
Diorの香水が欲しいとか一泊40万するようなアマン東京に泊まりたいとか、そういうブランドへの欲は弱い。ゼロじゃないし、流されやすいから、Instagramとかでそういう投稿を目にするといいなあと憧れてしまったりするのだけどさ。
それよりも「この人といると心地いいな」とか、そういうふわっとした焼きたてのクリームパンを抱きしめるような感情を大切に生きていきたいなと思うんです。
あと、そういう人と一緒にいると心地いいなと思ったりするんです。
たぶん、そういうのって周りの人にも影響されるし、心地いいなと思える人が周りにいてくれる人生だったのが嬉しいなと思ったりしています。
大学の図書館とか何かの折で出会った人でも、インターネットでリプを交わすうちにすれ違った人とも。
少し話が変わるとすると、欲望の形って周りの人から無意識に学ぶことがあるんだろうなって思っています。
中学生とか高校生のころはもうちょっと「バリバリ勉強して東大とかにいって、外資系の投資銀行とかで働きながらブランドものを買いたいんだ」みたいな広告に洗脳されたような欲望もあったのだけれど。
大学とか生きているうちに、優しくて温かい人の感情の側面を見せてもらえることがあったり、隣で日が暮れるまでゆっくり本を読んで一緒に手を繋いでパン屋さんに行くのが楽しいような休日の過ごし方を知ったりして。
川の上流から下流に流されるにつれて、ごつごつと不恰好な岩が、次第に丸く削られていくみたいに。
周りの人と話すうちに、学歴とか偏差値とか全国模試みたいな数字にかなりのウェイトを置いていた、嫌なやつだった小学生時代のある側面はすこし角が取れて丸みを帯びてきたのだろうなと思っています(だといいな)。
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