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人生がぱっとする人と、ぱっとしない人を分けるものは情報の質だ。

人生がぱっとする人と、ぱっとしない人を分けるものは情報の質だ。

大学時代に、大学院の教員が酔って話していた。
高田馬場の安居酒屋で聞いた時はよく分からなかった。しかし、最近腑に落ちた気がしたから文字に起したい。

村上春樹が述べるように、「ある種のストーリーは、数年経ってから急に腑に落ちる事がある」。
それは人生経験の積み重ねや、ライフステージが変わったことに起因する。
あるとき、ふと急に腑に落ちるのだ。

ちなみに、こんな書き出しから始めるが、筆者はエリートではない。
高校を中退しているし、2浪の年齢で大学に入った。
そんな非エリートの視点から、エリートを見た際に思った事という視点で書いている。

まるで、ジョナサン・スウィフトが大航海時代に東アジアを旅して、西洋の視点で『ガリバー旅行記』を著したように。

僕にあるのは、エリートを路端から眺める"他者"の視点だ。

前置きが長くなった。
さあ、始めよう。

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論点を再掲する。
人生がぱっとする人と、ぱっとしない人を分けるものは情報の質だ。

厳密な論文ではないので、人生がぱっとする人と、ぱっとしない人の定義は割愛する。

各々でなんとなく当てはまりそうな人を想像して読み進めて欲しい。

情報論の観点から話題を切って進めよう。
「年収1,000万の人と、200万の人で1日に摂取する情報の"量"はそんなに変わらない」という指摘がある。

差があるのは、情報の量ではなく、"質"なのだと。

例えば、朝に年収1,000万円の人が日経新聞を読む一方で、年収200万円の人は2ちゃんまとめ記事を読む。

ここで重要なのは、差が生まれるのは情報の量ではないことだ。

だから、2ちゃんを読む人が、「もっと賢くなるため1日1時間の2ちゃんねる監視を、10時間にしよう」としたところで、10倍に摂取量が増えても、10倍賢くなる訳ではない。

そうでなく、「2ちゃんにかけていた1時間で、日経新聞を読もう」となると、賢くなる。

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コンサルタントの山口周は、努力を「筋のいい努力と、筋の悪い努力がある」と述べる。

ここにあるのも似た視点だ。

1日何時間がんばったのか、という「量」に着目される事が多い。
しかし、重要なのは量ではなく質なのだというのが、ここでの主張だ。

例えば、たくさんお金を稼ぎたいという目的があったとする。

高校生の時から睡眠時間を削ってコンビニのアルバイトを1日10時間したとしよう。
これは筋が悪い努力だ。

同じ時間を勉強に投下して医学部に入ると、家庭教師の時給は都内の平均は5,000円ほどだ。

2時間働くだけで、1万円が稼げる。
これが筋がいい努力だ。

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マーケティングでは、多くのマーケターが口を揃えて言うことがある。
それは圧倒的に重要なのは「ポジショニング」である、と言う事実だ。

先の例に当てはめるなら、
自分の努力の投入箇所を、コンビニのアルバイトにするか、医学部生になるかという「ポジションを決める」ことが最も重要だ。

ほぼ、それで90%勝負はついてしまう。
残りのマーケティング理論は、「じゃあ、開業医でも潰れる病院があるから、潰れないような集客の仕方を4P起点で考えよう」のように、ポジショニングをした後のことだ。

少し荒く言ってしまうと、残りの10%の枝葉末節にすぎない。

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「そんなスジのいい努力をしよう」という主張が、最近そこかしこで唱えられるのを聞く。

ただ、ここで不可視化されるのが、スジがいい努力を選ぶことができない人が一定数存在するということだ。

例えば、僕の転校した通信制の高校では、高校の学費を稼ぐためにアルバイトをしている同級生が複数名いた。

そうなると、そもそもその時間を勉強に投下するという選択肢は「余裕のある貴族ができること」になってしまう。
目の前の1日を生きるのに必死だから。

しかし、「スジがいい努力をしろ」というビジネスサイドの主張は、安易にスジが悪い努力をしていた人に対して自己責任論と結びつける。

「今そこにいるのは、自分が選んだ結果だから、その報いも自分で受けよ」ということだ。

アメリカで進行する個人主義的な資本主義と、自己責任論は表裏一体となってべったりとくっついている。

そもそも、選べる選択肢が違うことは見落とされる。
見落とす人が社会の過半数を超えると生きづらくなる。

『ケーキの切れない非行少年たち』では、
表紙イラストで、「少年院に入るような子たちはケーキを綺麗に三分割できないほど、認知能力が低い」という事実を浮き彫りにした。

それまでの「犯罪をするのも個人の選択の結果だから、個人の責任だ」という論調に対して批判をした。

冷静な選択の結果ではなく、全体の認知能力が大きく異なっているのに、個人の責任として一概に責められるのかという批判だ。

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これを裏返してしまうと、
「個人の責任にできないなら、犯罪を起こす可能性が高いような、認知能力が低い人には生まれつきつける職業を制限したり、監視できる地域にまとめて生活させよう」という家畜を扱うような監視社会を提案するリベラル派の主張が生まれる。

宮台真司が『経営リーダーのための社会システム論』などで、取り扱っている観点だ。

これらは顔つきによって犯罪率を予測する米国の「フェイセプション」や、参加した遺伝子検査キットによって、実現可能性が高まった時にリベラル派によって唱えられた視点だ。

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もう少し穏やかな、
いましんどい人とそうでない人がストレスをできるだけ少なく共生できる社会を構築する思想が、国家福祉政策である。

若い頃に計量経済学が専門でバリバリのやり手官僚だった経済学部の学部長が、哲学と結びつけた福祉思想を大学で研究する第一人者となっていた。

彼のような穏やかなランディングポイントを見つける思想家に惹かれて、大学時代は国家財政と社会福祉について勉強をしていた。

でも、誰しも自分のお金は税金の形でも誰かに使われるのはストレスだし、少なければ少ないほどいいと思ってしまうのは自然なことだ。

分配の方法と哲学は、なかなか成り立たない。
思考実験ベースではトマ・ピケティ『21世紀の資本論』など、複数の再分配政策が提言されつつ、いまだそれを実現できている国家が皆無に近いのがそのハードルの高さを物語る。

(北欧諸国がそれをある程度実現しているという人もいるが、財政や法システムを見てみると一概には諾うこともできない点もある)

幸せに生きやすい世の中に生きていきたい。
さもなくば猫になりたい。
にゃーん。

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