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携帯を握りしめても思い出はできない。

携帯を握りしめてもどこにも行けない。
とは、Fさんのエッセイの一文だ(ったはず)。

ナイフは腕の延長だから、目に入り腕が伸びる範囲でしか振り回せない。

同様に、携帯はいろいろなアプリがあっても、究極的には、その個人を拡張することしかできない。

例えば、マッチングアプリが好例だ。
その人のことを認知する人が増える。
課金してブーストしても、写真に映るブサイクがイケメンになることもなければ、会う前にする電話の会話が面白くなることもない。

その点、広告と似ている。
広告も、その商品が届く範囲が広がるだけだ。

届いて「ゴミだな」と思われれば、いくらたくさんの人に届いてもインパクトは発生しない。

永遠に意味のない広告費を垂れ流すだけだ。

2020年代初頭に、佐藤可士和さんをはじめとする優秀なデザイナーたちが電通や博報堂など大手広告代理店から独立することが相次いだ。

その時期の彼らのインタビューやエッセイを攫ってみると、結局のところ彼らが口を揃えて述べているのは、「ゴミを広告を打つ段階でなんとかしてくれと言われても、できることはほとんどない」。という身も蓋もない本音だ。

だから、彼らは広告代理店から独立して、商品のコンセプトワークから携われるように、個人でクリエイティブ事務所を立ち上がる流れができた。

「ゴミ」になる前に、商品設計という最初期から携わって売れるものを作りたいから。

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携帯の話に戻ろう。

携帯を握りしめても、思い出はできない。
自分を拡張するだけだからだ。

学習が「新しい概念を身につけること」だと定義すれば、俺はこの仕事を20年やっていると豪語する人たちの6割くらいが陥りがちな陥穽は、1年新しいスキルを学習して、残りの19年間はそれを繰り返した、というキャリアだ。

この場合、彼らが「学習」した期間は1年間となる。

携帯が似ているのは、
自分の知っている言葉しか調べられず、
自分と魅力度の同じくらいの人しか会ってくれないということが。

だからこそ、携帯を使っている時間は新しい方に出会わない。いや、出会えないのだ。
知っていることしか調べられないという、原理的に。

深夜に寂しくなった夜に、発光する画面が暗転する。
暗い画面に反射した自分の死んだ目に、見つめられて死にたくなるのは、そんな時間を浪費している感覚からだろう。



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