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「お天道様が見ている」ここで、お天道様は、いったい何を見ているのか?

かつて、両親や身近な親に頻繁に浴びせられたワード「お天道様が見ているぞ!」
現代の子育てでは、このような教えはご法度、死語なのか?

現代社会の秩序維持のために人を縛るもの

現代社会の秩序維持のために人を縛るもの
「法治国家」と定義づけられるように、社会秩序維持のために人を縛るものは明言するまでもなく法、「法律」です。法律は立法府である国会で作られ施行される。また近年では、地方自治体など、より狭い面でその土地特有の文化慣習に照らし合わせて必要と判断されれば都道府県などの自治体単位で条例なるものがやはり議会で制定され施行される。
それら人を縛るものは、お天道様が見ている訳では無く、警察や周囲の大衆が見ている。
それ以外に人を縛るものとしては倫理道徳などがある。それらは周囲の大衆が見ている。
法にしても倫理道徳にしても違反すれば、その裁定は最終的に司法に委ねられ下される。
そして有形無形のペナルティーが下される。
法や倫理道徳が及ぶ社会やコミュニティーで生きていくためには不可避な縛りである。

極端な法整備が招く「秩序維持の為の共通認識」の崩壊

この数十年の極端な法整備条例整備が、秩序維持のための阿吽とも言える共通認識を
数多く崩壊させ更に現在進行中の只中にある。
「決められた法や条例さえ守っていればあとは何をしても良い」という風潮が蔓延してしまった。
あまりにも細かく数多く法律や条例があり過ぎ、そしてそれを遵守させることに生きがいや存在意義を見出す人々が増えてしまい、秩序維持というより、そのような方々の自尊心を満足させるために必要以上に法律や条例に神がかり的な力が与えられてしまった。
そんなマイクロマネージメントな社会に皆疲弊してしまったので、ちゃんと法律や条例さえ守れば、あとは何やったっていいでしょ! というロジックに至る。
よもや性善説が成立する領域は限りなく狭まり「正直者は馬鹿を見る」な社会に成り下がる

なぜ法や規則による秩序維持が人を劣化させるのか?

法や規則により人を縛る最大の罪は「考えることを止めさせる」点にある。法や規則そのものに罪があるというのはさすがに言い過ぎ、語弊があるかもしれない。
大切なのは、なぜその法律や規則があるのか? Whyの共有である。
恐らくは物心ついて厄介な規則に初めてガチに向き合うのは「校則」ではなかろうか?
生徒手帳とかに超絶小さい文字でぎっしりと規則が埋め尽くされている。
前髪の長さだのズボンのタックの数や、スカート丈とか無数の規則。毎週ある校則チェックに備えては見るものの、数mm前髪長いだけで問答無用でバリカンで坊主にさせられたり(かなり昔のお話)意義を唱えようものなら公務執行妨害宜しく的な更なる罰が上乗せ。
やんわり、「この校則は、なぜこのように決まったのですか?」と質問しても「決まりは決まりだ!」で終わり。
そう、法や規則の罪は、ここにある。
Whyやその背景が軽視される、そして忘れ去られる。結果としての法や規則だけが残る。
更に管理する側が腐敗すれば、被管理者にWhyや背景は知られてはならないモノになる。
この法や規則の強要は人に考えることを止めさせ共通認識、常識、阿吽を蒸発させる。
本来はある一定のバランス、グレーゾーンを設けて、そこで常に繰り返し繰り返し、みんなで考えることが必要なのだ。そのグレーゾーンをどんどん狭め、白か黒かしかない、そんな世界、社会に成り下がってしまった。結果、見た目の秩序は保たれたように見えるが時折、驚愕してしまうような事件や犯罪が起こってしまう

そもそも秩序とは何か?

Wikipediaでは、秩序=社会秩序で
「社会秩序(しゃかいちつじょ、英: social order)とは、混乱がなく統制された社会の状態、また、そのような状態を維持するための制度や仕組みをいう。社会学、歴史学、その他の社会科学において用いられる概念である。」とされている。
人は、寄り添って集まり、持続的にそのコミュニティーを維持するためには、なにか規範が必要、必須なのか?と思わざるを得ない。
ここでいきなり余談として科学の世界に思考を向けると熱力学の法則、エントロピー増大。
「一旦、社会秩序を形成したとしても、そこからカオス=無秩序に向かう」
だから、普遍で持続的な社会などは存在しえない?
・・・余談終わり・・・
そんな秩序だからこそ、その維持を願うならば、やはり人に与えられた”智慧”をお互いにぶつけ合って模索し続けるのが正解ではなかろうか?

お天道様が見ているモノ/コトは何か?

社会で、人が見ている見張っているものはわかったとして、お天道様は一体何を見ている、
見守っているのだろうか?
これも正解探しは、とても大変。
色々探してたどり着いたのは、
「ヤマ・ニヤマ」
所謂、ヨガ哲学、アシュタンガ=八支である。
太古の昔から現代まで受け継がれている。
少なくとも歴史の短い法治国家の原則の憲法、法律、倫理、道徳よりは普遍的と言って良いのでは?と思う。

ヤマ・ニヤマとは?

ヨガ哲学で定義付けらている戒律(? 的なもの?)である。
4つのヤマ(禁戒)と4つのニヤマ(勧戒)から成る。

・ヤマ(禁戒)
 非暴力:他を傷つけぬこと、無駄な殺生をせぬこと
 正直:偽らぬこと、嘘をつかぬこと
 不盗:盗まぬこと、他人のものを欲しがらないこと
 禁欲:不摂生をせぬこと、自然の理にかなった生活をすること
 不貪:どん欲をおこさぬこと、必要以上のものを所有しないこと

・ニヤマ(勧戒)
 清浄:心身の清浄を保つこと
 知足:満足を知ること
 苦行:あらゆる環境で心を乱さぬこと
 読誦:心を高めてくれる書物を読むこと
 最高神への信仰:真理の導きに従うこと

ヤマ・ニヤマの10の戒律を守ることすら本当に難しい。
それなのに、無数の法律、条令、倫理、道徳、本当に守れる?
ならばせめて、ヤマ・ニヤマくらいに留めるのが健全ではなかろうか?

忘れてはならない自然への畏怖

現代科学が人を増長させ、自身が神に限りなく近づいたと勘違いを起こさせる。
現代科学など所詮、この世界宇宙の真理のほんのほんの一部しか解明していない。
それなのにこの百年、百数十年で自然への畏怖を捨て去ってきている。
ついこの前までは、人々はしっかり自然への畏怖の想いを持っていたし、日常に常にそれはあった。

庚申講 ~自然への畏怖の1つの風習~

自分自身は山形に拠点を移して初めて知った「庚申講」
町を散歩しているとアチコチにある庚申様の碑。
身近な方々に尋ねてもほとんど知らないという。
わずかに七十代より上の方々の幼き日の記憶に残っている?
そんな感じ。
おなかの中に「三尸(さんし)の虫」がいて、それが干支が「庚申」の日の夜に人々が寝静まると体から抜けだし、その人が行った悪事を天に告げにいく、そんな言い伝えを信じ、ならばその日は寝ずに夜を明かそうと徹夜で吞みまくって三尸がカラダから出ていくのを防ぐ。そしてそれが終わったら、庚申の碑を建てる。
だから、こんなにたくさんの碑があるのね?という。

お天道様、自然への畏怖を忘れてはいけな

科学を否定するつもりは無い。ただ宇宙の真理からすれば現代科学はしょせんお飯事に毛が生えた程度であるという認識・自覚は持った方が良いと思う。
偶像崇拝はしてはいけないと思う。宇宙の真理、なにか偉大なる存在、
Something Great
そんな存在が、誰も見ていないところでも見ているよ!という。
「お天道様が見てるぞ!」

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