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bye-bye

 仄暗い、学校の教室のようにも見える、全てのテーブルが同じ方向を向いてならべてある室内。照明は点いていない。窓から入る光だけが自分の瞳の視界を補助している。俺はテーブルの上にいた。ずっとそこにいた。部屋の扉を開けるとそこはすぐ廊下になっていて、この部屋の隣もここと同じ構造の部屋になっているはずだった。俺はここに居たかったし、まだここから出る訳にはいかないと思っている。それに雷の音が聞こえてくる。雨が降っている訳ではなさそうだ。ときどき稲光が見える。俺はこの歳になっても雷が苦手だ。
 ときどき部屋の外の廊下を歩く足音が聞こえる。その足音が時計の秒針が動く音のように感じる。時限爆弾のタイマーが動いている。そんな緊張感が身体を襲う。誰かに見つかっては駄目だ。捕まっては駄目だ。そのときは命がないものと思え。そう言われた。俺はじっとしているのは得意だ。物音一つ立てずに歩くことだって出来る。
 しかし敵は俺より上手だったのか? いつのまにか部屋の中に誰かがいる! よく見たら窓が少しだけ開いたままになっている。まさかそこから入った? いったい何者だろう。まだ俺の存在には気がついていないようだ。俺に背を向けているこいつに話しかけてみることにした。
「おい!」出来るだけ小さな声で俺は叫び掛けた。
「はっ!」とこいつは背筋が伸びたが、まだこちらに振り向こうとはしなかった。
「女か?」
「はい」
「何をしている。名前は?」
「いえ、何も。名前はキティ」本当に何もしていないのだろうか。そしてキティという名前。コード・ネームだろうか。
「どこの組織だ?」
「たこち商店街」
「たこち商店街だと? ふざけてるのか」
「いえ、本当です」
「キティというのはコード・ネーム?」と聞いたところで雷の音が大きく聞こえた。爆発のように大きな音で驚いた。思わず目をつむる。瞼を開いたときにはキティの姿がなかった。しまった逃げられた。窓は少し開いたままのさっきと同じ状態だった。俺がここに潜んでいることを漏らされるかも知れない。そうなったら終わりだ。さっさとここから逃げ出さなくては。
 俺は今、バラードを聴いている。悲しい気持ちなわけじゃなく。浸ってるのだ。たまにはこういう時間も必要だろう。
 ん? テーブルの下に何かが見えた。生き物だ。俺はテーブルから降りた。その生き物はさっきのキティだった。
「雷の音にびっくりして」とキティは言う。
「臆病なんだな」と俺は自分のことを棚に上げて上から目線で言った。
 バラードは途中からテンポが速くなって、とてもバラードと呼べるような音楽ではなくなった。書類にはワインの染みがついていた。三枚の書類は無様に重なり合って、その三枚ともにワイングラスの輪が染みていた。
「なんだかまるで数学の答案用紙みたいだな」
「そうね」
「多くは喋らないんだな」
「そうね」
「もしかしておまえも逃げてるのか」
「そういう訳じゃないわ」
「どういうことだ」
「雨が酷くなってきたわね」
「俺の話をそらすんじゃねえ」
「ちゃんと聞いてるわよ。そのバラードも」
「おまえにバラードが聞こえるわけがないじゃないか」
「同じなのよ。まだ判ってないの? あなた」
「どういうことだ」
「世界よ」
「何を言っている」
「あなたとわたしは同じ世界に存在している」
 俺は頭を捻った。キティは敵というわけではなさそうだった。俺はバラードを聴いて浸ることにした。
 俺が産まれたのは山の上だった。それが頂上だったのか、そうではなかったのかは判らない。とにかく山の中だった。俺を産んだ母親は銃の流れ弾に当たって息絶えた。俺が産まれてすぐのことだった。まだ産まれたての俺はなぜだか覚えている。恐ろしいことだった。しかし野生の世界で俺は暮らした。といっても一人で生きられる訳がなかった。俺に食事を与えてくれる者がいた。自然と俺は言葉を覚え、生活をしていくための手段を身につけていった。不思議とそんなに難しいことではなかった。俺は身の回りの安全さえ気にしておけば生きてゆけた。学問など必要なかったが、それも必要最低限のところでなんとかなった。俺を世話してくれた者の家の中にワインがあった。少しだけ口に入れただけのつもりだった。アルコール依存になったきっかけだったのかも知れない。
「ここにワインがあるんだろうか」俺はワインの染みがついた用紙を見ながら言った。
「ここにはよく来るの?」
「おまえはどうなんだ?」
「あなた勘違いしてるわよ。何もかも」
「どういうことだ?」
「世界よ」
「何を言っている」
「あなたとわたしは同じ世界に存在している」とさっきと同じ会話を繰り返していることに気がついた。俺は改めてキティの身体を見た。じっくりと見つめた。キティは初めてこちらに振り向いた。細いが大きな目と大きな耳、ちょっと冷ややかな表情をこちらに向けた。身体の曲線が美しかった。俺は我慢が出来なくなった。
 俺はキティを抱いた。彼女はまったく抵抗しなかった。俺のペニスは鋭く堅く勃起し、キティの性器に突き刺すように入り込んだ。キティは俺を受け入れていた。とても気持ちよさそうな声を出すのだった。
「あぁ、気持ちいい! もっと奥まで入れて!」俺は挿入するだけではなく激しく愛撫を繰り返した。「あぁん、最高に気持ちいい!」キティは驚くほど激しく身体が反応し、全身が性感帯だった。そのときだった。廊下の扉が激しく強く開けられた。
「!!!!!」そいつは早口で何を言っているのかわからなかった。「!!!!!」何か叫んでいるのは理解出来たが意味が判らなかった。
「キティ! どうしよう? 俺たち殺されるのか」
「あなた、私たちは同じ世界にいるのよ!」
「だからどういうことなんだよ!」
「わたしたちは『猫』なの!」
「は?」
「あなたが見ている巨人は『人間』という生き物なの」
「は?」
 巨人は交わっている俺たちを引き離して窓から放り投げた。俺とキティは空中で身体を捻って回転させ、うまく地面に着地した。雨で地面がぬかるんでいた。その雨はバラードの音をかき消して、俺とキティの関係をも終わりにした。
 人間の存在は知っていた。そして猫の存在も知っていた。だが俺はずっと勘違いをしていた。俺はずっと自分のことを人間だと思っていた。そして人間には良い者と悪い者がいることも知っていた。それは猫も同じだった。
 俺がどっちの者なのか考えたこともなかった。良い側の者なのか、悪い側の者なのか。じっくり考えてみると判らないものだと思った。ずっと正義を貫いてきたと思い込んでいた。そう言えば俺が幼い頃、俺に食事を与えてくれていた者はTwitterをやっていた。俺もTwitterをしようとしたがうまくいかなかった。顔認証がうまく出来なかったからだ。だがTwitterの画面を覗いたことはある。誰だかわからない者どもが言いたい放題に誰かのことを批判している。こんなにたくさん「自分が正しい」と思っている者が存在するにも関わらず「この国はよくならない」とか書いている。正しい考えを持っている者がこんなに多いのに、世の中が良くならないというのは矛盾している、と思ったものだった。
 俺はTwitterを覗いている間、バラードを聴いていた。悲しい訳じゃなくって。浸っていたのだ。

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