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創作「猫のタイム・マシーン」

2020年 7月 20日
 幻でも見えてくれれば良いのに。自分の目に映るものの過半数が幻であればそれを元に創作なんかが出来るのではないかと考えていた。自分だけにしか見えていない幻であれば、それは全てオリジナルであるし、誰かの盗作にはならないし、誰かのものを盗作したことにもならない。
 今日はM氏と一緒に仕事をする予定だった。待ち合わせは会社の近くのくら公園の桜の木の下にした。くら公園には桜の木が一本だけある。季節的に今は桜の花が咲いているわけではないが、木の幹とそこから伸びた枝の感じが好きだ。難波にあるグリコの看板のように大きく両腕を広げている。今目の前にあるそれはもちろん決して腕ではなくあくまで枝なのだけれど。春にはこのたった一本の桜の木の下で花見が行われる。あまり派手な花見ではなく、近所のおじさんおばさんが、空が真っ暗になる手前の時間までおしゃべりをしていたりする。
 ソメイヨシノという名前が好きだ。ソメイヨシノとカタカナで書いたときの字面がとてもいい。いったい何がいいと訊ねられてもうまく説明できる自信はないけども。ソメイヨシノは漢字で染井吉野と書くらしい。だからどうという訳でもないが、日本にはあらゆる物事が漢字で用意されている。戦争時分に英語が禁止されていたためだろうか。コレ読めますか、とか、コレ漢字でどう書くでしょう、といったクイズがあったりするが、そんなクイズを戦争体験した人が見たらどう思うだろうか。意外となんとも思っていなかったりして。
 染井吉野の枝先のひとつが妙に垂れてきた。気のせいか、ここに来たときよりだんだん垂れてきているように思う。気になるのでその枝をじっと見ていたらやっぱり垂れてきている。よく見ると枝の先端につぼみのような膨らみがあって、それが少しずつどんどん膨れているようだ。その重みによって枝が垂れてきている。しばらく見ているととうとう枝先が地面に到達した。つぼみのような膨らみは、直径三〇センチメートルくらいのいびつな球体になっていた。そういえばM氏はまだ来ない。M氏が来ないおかげでこの奇妙な球体をじっと見ていることが出来ている。
 じっと見ていると球体がちょうど半分に割れてきた。鳥のひなが卵からかえるときの映像を見ているようだ。枝にくっついたままの球体はもぞもぞと地面をこすりながら動いている。球体の割れ目から毛のようなものが見え隠れしている。やっぱり鳥が生まれてくるのだろうか。この大きさで雛だとしたら、成鳥になったらダチョウみたいに大きくなるんじゃないか、いや、ダチョウよりも大きくなるぞと思いながら見ていた。

2020年 7月 21日
 球体が完全に真っ二つに割れた。その卵のようなものの殻の側に毛が生えていたのだった。中身を守るためのクッションの役目をしていたのだろうか。毛は黄色く光って金色に見えた。殻は固い材質ではなさそうだった。真っ二つに割れた後、どんどんぺちゃんこになってゆく。毛が空気にのってこちらへ飛んできたので手で捕まえた。黄色くて細い毛質だった。
 ところで、球体の中から出てきたのは記憶だった。様々な記憶が方々へ散らばろうとするところをなんとか手で腕でかき集めて自分の鞄の中に封じ込めることが出来た。記憶なんて目に見えないものをどうやって鞄に詰め込むことが出来たのか自分でもわからないが、とにかくたった今、自分の鞄の中には様々な記憶が入っており、記憶を入れた分、鞄が膨らんでいた。そもそもそれらが記憶だということを認識したのはなぜだろう。球体が真っ二つに割れたと同時に、球体から出てきたのは記憶だと認識したのだ。
 記憶を取り出すにはわざわざ鞄の中に手を突っ込まなくても取り出せた。自分の意識のもと、記憶を呼び出すことができた。まず最初に呼び出した記憶はこんな内容だった。
 或る人気芸能人、テレビによく出演するタレント。元は二人組のお笑い芸人だったが、いつしか所謂、食レポをするようになったり、映画に詳しくて自分が観た映画の宣伝告知をやったり、高校野球に詳しくてその蘊蓄を語ったりして人気を博していった。本業のお笑いだけではそれほど人気者にはなれなかった。そんな彼は芸能界でも屈指の美女と結婚して話題になった。お笑い芸人と美女との結婚について、このころにはすでに珍しくはなかったが、それでも皆は祝福し、そして芸能界のおしどり夫婦として人気を継続した。彼ら夫婦には子どもが出来、さらに幸せ倍増、世間の嫉妬もなにも寄せ付けない完璧なおしどり夫婦に見えた。それがある時、ゴシップ雑誌にスクープされたのが夫の浮気だった。彼は女性を多目的トイレに呼び出してそこでセックスをした。終わると女性に一万円を渡していたという。このニュースは衝撃的であった。誰もが彼のことを汚らしい人間だと思った。
 これは自分が体験した記憶ではなかったが、どこかで見たことがあるような内容だった。わりと最近の記憶のような気がする。しかし誰のものともわからない記憶を見るというのは怖い気がした。記憶というからには過去のもの。いったいどれくらいの過去まで遡った記憶がここに詰め込まれているのだろうか。そしていったい誰々の記憶があるというのだろうか。億万長者になった人の記憶、人殺しをした人の記憶、一〇〇点をとったときの記憶、おしっこを漏らしたのを誰かに見られたときの記憶。そう考えてみると記憶というものは恐ろしい。記憶なんて要らないと思った。しかし記憶がないと大変に困ることも知っている。
 M氏が来た。
「おまたせ。もしかして記憶をひろったのかね」
「はい。どうしてそれを」
「あの毛はあたしの毛だよ」
「え、どういうことですか」そこまで話すとM氏は黙りこんだ。何やら考え込んでいるような、まったく何も考えていないようなよくわからない所作だった。M氏はいつもこんな感じだった。
「おなかが空きましたね。どこかの店で何か食べましょうか」と気を利かせたつもりで言ってみた。
「いや、それにはおよばん。腹が減ったのならきみひとりで食べてきたまえ」
「あぁ、そうですか。そういえばおなかが空いてきたと思ったのは気のせいでした」再び二人の間に沈黙が訪れた。銀杏並木の下で歩いていた。もうあの桜の木が見えないところまで歩いてきた。それにしてもどうやらM氏は記憶の球体のことを知っているようだ。今はそれを聞き出すために尽力するべきなのだろう。と思っていたら突然M氏は殴りかかってきた。三発連続パンチだ。人間技とは思えない速さの三連発だった。一発一発の強さはそれほどでもないが、繰り返すパンチの往復が素早くて、まるで猫パンチだった。
「ところできみ」
「はい。なんでしょうか」
「あたしは猫なのか」
「ど、どういうことでしょうか」
「実はとうとう謎が解けたのだ」
「え、何のですか」
「でもそれを持っていたのは猫だ」
「申し訳ありませんがまったく意味がわかりません」
「そりゃ当然だ。あたしはさっきから猫語をしゃべっているのだから」
「ま、ますますわかりません」
「猫語とはそういうものだ」そこまで話すとまた沈黙が訪れた。さっき殴られた自分の腕にひっかき傷がついていた。ひっかかれていたとは自分でも気づかなかった。そんなに威力のあるパンチじゃなかったからかもしれない。それにしても記憶の球体のことが気になるが、さっきからのM氏の言動からすると、まともな答えが得られるような気がしない。
「タイム・マシーンだ」
「え?」
「タイム・マシーンだよ」
「タイム・マシーン?過去や未来を行ったり来たりする?」
「そうだ」
「それがどうかしましたか」
「とうとう謎が解けた」
「おそれいりますが、いったいどういうことでしょう」半ばあきれ気味で聞いていた。M氏はきっと頭がおかしいのだ。
「猫が人間より寿命が短いのはなぜだと思う」
「猫よりも人間医学の方が発達しているからではないですか」
「ちがう。猫はタイム・マシーンを持っているからだ」とM氏は言い、さらに続けてしゃべり出す。「猫はタイム・マシーンを持っていて、過去や未来へ行き来することが出来る。しかし過去や未来へ行っている間も歳をとる。だから人間よりも寿命が短いように見えるだけで、実は人間も猫も平均寿命はさほど変わらない」
「ははぁ、なるほど」感心したようなふりをしておいた。M氏の真意がわからない。
「猫は次元のパラドックスを理解している。だから元居た人間と同じ時空に戻ってきて、最終的にはここで寿命を全うする」M氏の言っていることがまともなようにも思えてきたが、そんなわけはないと自分に言い聞かせた。
「うっぎゃーー!」突然M氏は顔をゆがめて叫んだと思ったらすぐに真顔に戻った。
「な、なんですか突然」
「猫のまね」
「あ、あんたバカか!びっくりするやないの!」と思わずバカなどという言葉をM氏に言ってしまったが、M氏は特に気にしていない様子だった。
「あ、あたしは猫だった。猫のまねをする必要なんてなかった」
「さっき記憶をひろったんですけど、これについて何かご存じのようですが」
「あぁ、それか。それは記憶だ」
「はい。記憶です。だからこれは何なんですか」
「だから記憶だ」予想通りのわけのわからない展開になりそうだった。「人間だったころの記憶。あたしは猫だと言っただろう。もう人間だったころの記憶などいらないのだ。そして記憶を消し去ってもタイム・マシーンがあるからどうにでもなるのだ。今日あたしがきみに会いにきたのは、きみも猫にならないかという誘いのためだった。そもそもきみの前世は猫だったのだ。記憶が入っていた球体は雄猫の睾丸の袋だ。猫の睾丸にはタイム・パラドックス筋というのがあり、そこに記憶を封じ込めておくことが出来る。きみも猫にならないか、という誘いを会ってすぐにでも話したかったが、あたしは気が弱いもんでなかなか言い出せなかったんだ。じらして済まなかった。猫パンチを喰らわせたのは特に意味はない」

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