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アンチ・エモーショナル(ネコロナ禍における)

2020年 7月 6日
 今ここに居なくて、眠る、ということ以外に何も興味がないかのように毎日を生きている猫が、今ここで、ここに居ない。今猫はどこにいるのだろうと思っている人がどこにいるのか探しに行ったら、今どこにもいなかった。だからといって、今猫はどこにいるのだろうと思っている人が死んでしまったわけではない。ネコロナ禍。
 アンチ・エモーショナル。書きにくい体勢や姿勢の方がいろんなことを書くことが出る。脳がひっくり返っているからだろうか。脳がひっくり返ると出るのか?誰がそんなことを決めたのだ、定義したのだ。脳がひっくり返っても脳に蓋があるわけでもないから何もこぼれて出てこない。多分。ひょっとしたら脳に蓋があるひとが居るかも知れない。その人の脳の蓋には普段鍵がかかっているが、今日はたまたま鍵がかかっていなかっただけなのかもしれない。脳の外側には頭蓋骨があるのでそもそも何もこぼれないだろう。いやいや違うのだ。脳は確かにひっくり返っても蓋が開いて何かがこぼれる訳ではない。漢字を使ったりつかわなかったりして統一感のないぶんしょうを書きたくなる。脳が感じたり発したりする意識や無意識がこぼれだすのだ。そしてそれはどういうわけか、おかしな、変な、奇妙な体勢や姿勢だったりするわけなのだ。
 夏にはプールに行ったりするの?
 はい、いきますよ
 どんな水着着るの?ビキニとか?
 いやだ!そんなこと聞かないでください。恥ずかしいですよ。
 この黒猫は魚をたべない。うまれてから一度も魚をたべたことがない。だからと言って猫じゃないわけじゃない。かつおぶしは食べる。匂いに敏感。かつおぶしの匂いをみつける。匂いが見えるわけはないから「見える」とは書かずに「みえる」と書く。外国語っぽく、ミェールと言うことにしようか。だから猫は「ミェール」と鳴くのだろう。すべての猫は外国から来たのかもしれない。ここでいうところの「外国」とは日本以外の国のことを言っている。ネコロナ禍。
 アンチ・エモーショナル。猫の話にうんざりした人は、豆腐の話を聞きたいかもしれない。いや、きっと豆腐の話を聞きたいと思っているに違いない。だから豆腐の話を始めようと思ったが、特に豆腐の話を持っているわけではないから何も書けない。話は持っているものなのだろうか。話を手に持つことはできない。そんなことはしたことがない。話に重さはある?さわり心地はどう?話を持っているというのは、某かのエピソードなり知識なりが頭のなかに、すなわち脳の中にあるのだろう。だからといって頭蓋骨を割って脳を取り出してみても、話が見えてくるわけじゃない。脳だと思ったら猫がまるくなって眠っているのだった。超現実主義。
 書いたものを読み返せばより良い書き物になるのかもしれない。でも今日は読み返す気力も体力もない。読み返したところで直すのは誤字脱字。
 今夜は風が強い。風の音に反応して、この黒猫は背をかがめてこそこそと足音をたてずに網戸へ近づく。網戸から吹いてくる風に、空気にあたって驚いて網戸から離れる。でもやっぱり気になるからまた網戸に近づく。眠るどころではない。それでも猫は足音をたてずに歩く。音はたったりたたなかったりするものだ。でも座ることはない。たぶん。きっと。ネコロナ禍。そしてアンチ・エモーショナル。ここにいる黒猫は魚をたべたことがない。きっとこれからもたべない。でもえびせんべいはたべる。

2020年 7月 7日
 七夕。なのに特に書くことがない。

2020年 7月 9日
 お茶を入れる。容れる。煎れる。淹れる。イレールがお茶を淹れてくれた。日本茶。このごろは何かを書くとなれば誰かの悪口しか思い浮かばない。まだ落ち着かない。落ちて着くことがない。先月からつづく繁忙。その分、稼ぎが多ければ良いのに。稼いだからといって楽しい暮らしがまっているかどうかわからない。自由な文の書き方が面白くなってきた。
 語尾を「です」「ます」もしくは「だ。」「である。」に統一しなさい。と教えられた。レポートの課題だった。この「統一」というのが世間一般では美しい形なのだろう。しかしオウム貝の巻き巻きや黄金比、写真の被写体が対照やまっすぐではない位置、それらのズレやアン・バランスが面白かったりする。だからひとつの書き物のなかで漢字を使ったりつかわなかったりするのも面白いのではないかと思えてきたりするのです。

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