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味覚について

五感の中で味覚と嗅覚は他の三つに比べて平均値を採用することが多いような気がしていて、美味しいもの(とされるもの)いい香り(とされるもの)
が耳、目、肌などから入る情報よりもなんとなく一般具現化されているような印象。例えば音や音楽、目で見るアートなどはもっと個人差を優先する印象。
そして、味覚は習慣による影響が大きくて、小さい頃にから存在してて食べ慣れている物の中で判断してきた結果、ステーキならこんな味、ピーマンならこんなと、一方的に受け入れて来たんじゃないのかなと考えはじめた。

こう考える理由は、僕が最近完全な菜食生活にシフトしたのも大きな要因で、植物由来の食品で且つ肉食を模したプラントベースミート系を沢山知るにつれその考えが強まってきた。
ヴイーガン唐揚げにヴィーガンソーセージ、焼き肉、最近ではエビフライなど魚介系の置き換えも始まっていて、味はもはや元が何なのかどうでもいいくらい美味なものもある。で、ほとんど場合オリジナルの味を知っていてそれに近ければ近いほど優秀ということになるんだろうけど、ここで僕が持った疑問は、はたしてこの模倣された食品の味を先に知っていればどうなんだろ?ということ。
習慣により調教された味覚なのであれば最初に食べ始めて、かつ長く慣れ親しんだものが正解になるような気がしてならない。
もちろん本物の肉でも質に大きな差があってそれらは個人の味覚での判断が大きいけど、一般的な価格帯のソーセージの味を例にするなら上記の習慣による影響が実はとても大きいとは考えられないだろうか?
と仮定した場合、今後この代替ミートや魚介をたべ続ければ、これが基準になり、まれに本物を食した場合にむしろ違和感を感じることになるような気がする。
この仮説をさらに乱暴に展開するならば、食品業界のドラスティックな変革をもって、世界的に問題になってる畜産による気候変動への影響を大幅に減らすことに貢献できるのではないかと考えている。
全世界の肉食(特に牛)を大胆に半分減らし(安いが劣悪な環境で作られる食肉をメインに)グラスフェッドの牧畜を即すようなイメージ。

以前の「食について」の中での繰り返しになるけど、お肉を食す人を非難するつもりは毛頭ない。言いたいのは僕らの生活大部分は「習慣」で構成されていて、じつは変えてみれば大したことでもない、なんてことが多いような気がするということ。まだ全体的には過渡期ではあるものの、個人的にはレジ袋はもはや今まで何故もらい続けていたのか理解できないほど不要になった。

習慣を変えることよって世界を少しでも良い方向にシフトできるのなら、やはりそっちに向いたいと個人的には思っている。何にせよ当たり前に今までのことを受け入れつづけるのではなく「考え」はじめるにはいい機会かもしれない。

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