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【渋谷の歴史 vol.4 レコードと恋文横丁~道玄坂下三角地帯 その②】


植草甚一氏の写真は
『スイングジャーナル』1962年11月号より

サブカルチャーの元祖”植草甚一”も恋文横丁に通っていた
恋文横丁~三角地帯周辺に占領軍として駐留していた米軍や英軍の住宅団地に住んでいる兵士やその家族、そして兵士と交際していた日本人女性などから買取した書籍を取り扱ったであろう古書店が、当時の住宅地図で確認できるだけで数軒あり、サブカルチャーの元祖とも言える植草甚一が足繁く渋谷のこのエリアの古書店や古物店に通っていた記述もある。
植草甚一は昭和に活躍した欧米文学、ジャズ、映画の評論家であり伝説のサブカルマガジン「ワンダーランド(宝島)」の初代編集長、サブカルチャーの元祖と言われている方である。遺品のレコードの一部4000枚はあのタモリが買い取ったそうだ。そんな方が実際に恋文横丁の古書店に足繁く通ったと1976年1月24日の日記にも記述がある。「渋谷の横町の石井さんのところへ古本を買いに行きたくなる。ここんところ洋書の古本は石 井さんのところが一番おもしろい」とある。横町というのは恋文横丁を指し、常連だったことが伺える。

出典: 植草甚一/植草甚一日記/平凡社


「ワンダーランド(宝島)」にも寄稿し植草と交流が深かった作家の片岡義男のエッセイ「きみを愛するトースト」の「渋谷の横町を、植草さんのとおりに歩く」の中にこんな記述がある。「女性用の化粧品・洋品店と喫茶店とのあいだの露地の入口から奥をのぞくと、男性の服を売っている店や飲み屋さんなどの店のつらなりのむこうに、「石井さんのところ」が、見える。露地の奥、右側だ。」
それで日記が1976年なので1977年の住宅地図で調べると石井さんの店らしき「古本屋」が見つかった。ここが「石井さんのところ」である事は間違いなさそうだ。

ゼンリン住宅地図渋谷区 昭和52年 1977年上側が東急本店通りで下側が道玄坂。道玄坂側に「喫茶ブラジル」と「たからや化粧品」間の路地の奥に「古本屋」と記載がある


さらに片岡義男/坊やはこうして作家になるの「植草さんの日記に注釈をつける」には「仕入れる商品は、ご用済みのもの、つまり米軍の基地や施設の人達が捨てたものだった。その処理を請け負う業者がいて、雑誌やペーパーバック、そして本などは仕分けされ一定のルートで石井さんのような小売商に卸されていた。」とある。都内に何ヶ所か存在した米軍基地や米軍兵士が住んだ住宅地から出た廃品を回収して振り分けていた業者が存在していたということだろう。その中にはレコードも含まれていた可能性が非常に高い。

参照: 片岡義雄/きみを愛するトースト/角川文庫
片岡義男/坊やはこうして作家になる/水魚書房

イラストレーター界の巨匠 和田誠も通っていた
2019年に亡くなられた、イラストレーター界の巨匠 和田誠も通っていたとの記述が植草甚一と交流が深かった高平哲朗のインタビュー記事にある。
「渋谷に「恋文横町」ってありましたよね。その中にアメリカの放出雑誌屋さんがあったの。ぼくは多摩美の学生だったんだけれども、いまみたいに洋書が気軽に買えるわけじゃなかったし、外国のイラストレーションを見るチャンスがあまりなかった。それで『エスクァイア』とか外国の雑誌を見に行くわけ。ぱらぱら見て、間に一枚、ベン・シャーンがあると、その一冊だけ買って帰るということをぼくはしてたのね。だからベン・シャーンとかスタインベルグとかを探すために、ずっと1ページずつ見ていて、結構長いこと、その本屋にいるわけ。そこで何度か植草さんと会いました。」この古書店も確実に「石井さん」だと思われる。これを読んでもわかるようにインターネット出現前はとにかく海外の情報に皆飢えていた。海外への渡航に制限がある時代であり、洋書や輸入盤のレコードは皆のどから手が出るほど欲しかったのである。当時のクリエーターにとっては、そんなワンダーランドでもあったわけだ。
参照: 植草甚一の時代 文・高平哲朗 第4回 ゲスト和田誠

日本のポップス史を変えたあの人もレコードを求めて三角地帯に通っていた
さらに当時の事を詳しく知る方から貴重なお話しを聞くことができた。ワシントンハイツ返還後の1969年から72年頃にかけてもこの一帯ではまだ米軍から流れてきた中古の洋服や家具、レコードなどを販売する古道具店や古着店が多く、実際にレコードが1枚500円均一などで段ボールに入れられて家具などと一緒に売られていたようだ。それを目掛けて都内からレコードコレクターやミュージシャンが集まり、実際に「日本のポップ史を変えた」と言われている某有名アーチストを何度も見かけた、というお話しを聞いた。当時からアメリカ盤のレコードは羨望の的だったのだ。そして現在と同じように「アマゾン」という喫茶店で戦利品を自慢し合ったそうだ。
渋谷でアメリカ盤の中古盤をいち早く販売していたのも、この恋文横丁周辺の古道具店や古書店であったことは間違いなさそうだ。

日本のアメカジ、渋カジの原点?「メリケン横丁」という横丁があった
そのようにしてアメリカの中古品(洋服や靴、本、レコード、雑貨など)を売る店が多く存在した渋谷には道玄坂下~道玄坂小路の三角地帯(住宅地図でも確認できる)にはメリケン横丁(メリケンとはアメリカの俗称)と呼ばれていた小路も存在し(地図にも記載あり)、アメリカ文化を求めたくり若者が数多く集まり、そこではアメリカの最新の古着や米軍横流しの服を販売する店が立ち並んでいたそうだ。

その中の一軒が後に日本のセレクトショップ御三家であるSHIPSになる「さかえや」という古着店であり、現在の「麗郷 渋谷店」の裏に伝説的なアメカジの店「MIURA&SONS」を開店したのである。

「さかえや」はアメ横のミウラが経営する店であり玉木朗の超B級アーカイブ、その支店としてミウラ&サンズを開店した。それが大ブームになりアメカジブームを牽引した。1984年に残る唯一のメリケン横丁の写真を見ると「ミドリヤ」「サカエヤ」共に 渋谷道玄坂裏「メリケン横丁」1984⇔2023 1984年の写真にはまだ存在している。


現在はなくなってしまった三角地帯にあったメリケン横丁の写真。みどりやとさかえやの看板が見える。出典: 善本喜一郎  ブログ2023年2月8日   :善本さんの出版された「東京RETROタイムスリップ1984⇔2023 河出書房新社」が素晴らしい! 


当時の様々な方のインタビューなどを読むと、ワシントンハイツにあったCommissary PX(Commissary Post Exchange。アメリカ陸軍の売店、スーパーマーケット)で売られていた米国産の洋服、ジーンズやスニーカーが横流しされていたようだ。そしてもちろん、食料品や雑誌、そしてレコードも横流しされていたことは容易に想像できるし、少なくともその後の90年代のアメカジの源流はこのメリケン横丁にあったお店が、米軍からの払い下げ品や横流し品を販売していた・・・これが日本のアメカジ、渋カジのルーツだと思う。


出典: ポパイ1984/3/10号 マガジンハウス高倉健がバイトして(!)三國蓮太郎や岡田真澄が常連だったとの記述がある


その恋文横丁の先に「メリケン横丁」と呼ばれる小路があったのだ。現在は小路は閉鎖され建物が立っている。そこにはアメ横の洋品店「ミウラ」が経営していた洋品店「さかえや」が昭和23年から営業していた。ポパイにもあるように当時の映画スターの三國蓮太郎や岡田真澄が通うような店であったわけだから非常に繁盛していたのだろう。そして話題にもなっていたはずだ。
参照: 玉木朗の超B級アーカイブ
「さかえや」では米軍の払い下げやPXからの仕入れたものや古着などを販売していたようだが、1975年に渋谷に日本で初めてのセレクトショップといわれる“ミウラ&サンズ”をSHIPSの創業者 三浦義哲氏が立ち上げたのだ。やはりそこにはメリケン横丁のさかえや時代からの歴史があり、ワシントンハイツと三角地帯のヤミ市がルーツになるのである。SHIPS前進のMIURA&SONSは当初、このPXから仕入れていたそうだ。
参照:シップス代表取締役社長 三浦さんが語る「大切なのは服やモノに”夢”をもち続けること」
参照:The RAKE blog Tuesday, February 25th, 2020

80年代から活躍されている人気のコラムニスト泉麻人氏の「昭和50年代東京日記」に渋谷のこの一帯について詳しく書かれている。普段、大瀧詠一やシュガーベイブを聞いて、渋谷のこの近辺にアメカジの洋服を買いに来ていたというのが当時の若者のトレンドであったこともわかる。
「この「さかえや」や「ミドリヤ」 が並ぶ小路は俗に「メリケン横丁」と呼ばれていたらしい。これらの店にも、シブいメイ ドインUSAモノのシャツなんかがある・・・・・・」
参照: 泉麻人/昭和50年代東京日記 平凡社

「ミドリヤ」に関しては説明がややこしいが、渋谷には「緑屋」というマルイの様な月賦販売のデパートが現在ユニクロの入るPRIMEビルにあった。私も看板はうろ覚えながら記憶にある。しかしこの緑屋とは無関係だったそうだ。そしてこのメリケン横丁にあったミドリヤは原宿の某老舗アメカジ洋服店の母体の大井町にある「みどりや」ではないか、と思い支店の店長Yさんにお聞きすると「無関係」とのことだった。しかしYさんも当時、メリケン横丁やその周辺にあった「サカエヤ」「ミドリヤ」以外にも何件か存在した「アメリカ製の洋服や靴を販売するお店」で買い物していたそうだ。その「ミドリヤ」もなかなか良い品揃えだったそうで、それらの店ではワシントンハイツの住人の古着、もしくはアメリカから輸入した洋服や、それに加え「PX(ワシントンハイツや他の地域にあった米軍基地内の売店)から横流しで新品の商品を仕入れていたかもしれない。(Yさん談)」とのことで点と点がつながった。輸入品や舶来品はアメ横がメッカだったが、アメリカ製の洋服に関してはメリケン横丁に集まり(メリケン=アメリカンが訛った俗称)それがメリケン横丁の名前の由来なのだろう。
そして「みどりやという洋服屋の屋号は都内に多かった(Yさん談)」との事で調べてみるとみどりやという屋号の洋服屋さんは10軒近くあった。「惣」という漢字が入る屋号がつく果物屋が多かった、というような業種による独特の屋号の命名方法なのかもしれない。


出典: ポパイ1985/2/25号から マガジンハウス: ミウラ&サンズは道玄坂小路の麗郷の横の「円山花街の入口」の階段沿いにあった


1984年の頃の道玄坂小路の東急本店通り側の写真を見ると現在のクロサワ楽器の向かいの現在の現在の女性下着店の場所にリーバイスの看板があるお店が映っていたので、この道玄坂小路の一帯にアメカジの店が多かったのではないかと推測される。ミウラ&サンズは1985年2月25日号のポパイでは東京の洋服屋さん独自チャートで4位になっている。それほど人気の店であった。まさに「門前市をなす」ということだろう。1990年代の渋谷レコ屋街と同じである。宇田川町にレコ屋街が形成されたのはマンハッタンレコードが宇田川町に移転したのがきっかけである。

戦後の昔から渋谷は、クリエイターや高感度な若者が洋服や本、そしてレコードなどの「最先端な情報」を求めて吸い寄せられる場所だったのだ。

戦後から1970年代までのサブカル的な渋谷での重要事項の年表を作ってみた。

1945年8月15日太平洋戦争終戦。
1947年ワシントンハイツ完成。ワシントンハイツは家族向け住宅であったため米兵の900世帯、約4000人の家族の移住が始まる。
1953年12月13日 映画「恋文」公開。
1964年に東京オリンピック開催、同年にワシントン・ハイツ返還。
1965年9月 旧ワシントンハイツ敷地内にNHK放送センター東館が竣工。
1966年11月12日 輸入盤も扱っていたヤマハ渋谷店が開店。
1968年4月19日 渋谷西武が開店。
1969年7月27日 渋谷ジャンジャンが公園通りの東京山手協会の地下に開店。
1969年百軒店に「BYG」開業。
1969年4月1日 桜ヶ丘でニューミュージックマガジン社がニューミュージックマガジン誌(現ミュージック・マガジン)を創刊。
1970年頃に渋谷西武B館地下にあった当時の最先端エリア「Be-in」内にCISCO RECORDSが開店。
1971年4月28日 BYG 開店。
1973年6月14日に渋谷パルコがに開店。
1975年11月15日 骨董通りにパイドパイパーハウス開店。

このように戦後の渋谷のレコード、ファッション文化の歴史を追ってみると、渋谷が日本のユースカルチャーとサブカルチャーの中心地としてどのように発展してきたかが見えてきた。特に1960年代から1970年代にかけて、渋谷は新しい音楽のジャンルやファッションスタイルを生み出す実験場となった。
ただし、歴史は突然に生まれるものではなく、連続している。明治大正から続く長い歴史があったからこそ、このような文化が育まれ、街が形成されたのだと思う。渋谷のもうひとつのルーツと言える「百軒店」は今年100周年だそうだ。(百軒店については今後また詳しく解説予定)多様な人々が集い、共に街を築いてきたのだ。

道玄坂三角地帯はアメカジ、そしてアメリカの古本とアメリカ盤のレコードの発信地
植草甚一は洋書を求めて恋文横丁の「石井さんのところ」に足繁く通っていた。日本のポップ史を変えたあの方も恋文横丁周辺の「古道具屋」にアメリカのレコードを求めて通っていた。歌手や俳優など感度の高い人はメリケン横丁に米国の服を探しに来ていた・・・ワシントンハイツに住む人達が、「恋文横丁」の古書店に本を売ったり、「メリケン横丁」の古着屋に服を売ったりしていた事がきっかけで文化の発信地になった。当時、最先端のアメリカ製の服や、米国の最新の雑誌や書籍などが手に入る都内で唯一の場所だったことは間違いない。レコードも然りだ。

もう昭和の時代でさえ知る方もかなり減っている。渋谷のサブカルの歴史も資料を探すのが非常に大変で調査も限界に近い。早急に資料として残さなければ、記憶や記録も失われてしまう。できるだけ早く保存して若い世代に伝えて行きたい。

敬称略

参考サイト
東京些末観光 
参照:東京些末観光 50年代の三角地帯

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