各時代の価値観比べてみた

齋藤孝、福沢諭吉著『13歳からの学問のすすめ』(ちくまプリマー新書)を読んで、明治の価値観を知ったので、各時代の価値観を比べてみた。


●明治の価値観として、これからは日本が西洋と渡り合うには学ばなければならない、ということがあった。

明治は他国と渡り合うために、一人一人が学問をし、政府や国を良くしようという、目標を持っていた。

●そして次に、高度経済成長期の日本の価値観としては、頑張れば頑張った分だけ国民の生活が良くなる、であった。

高度経済成長期には、働けば働いただけ国全体が富んだ。そしてその結果、国全体の生活が豊かになるという、全体の目標のようなものがあった。また国民一人一人が国全体の生活の豊かさのために努力した。

●現在の成熟社会の価値観としては、生活の豊かさは達成され、精神的な豊かさ、幸せを模索し始めた、ということである。

以前は物質的な豊かさ(生活する上での不自由のなさなど)を求めていたが、それが達成され、現在の成熟社会では、生活は豊かになり、精神的な豊かさ、幸せとは何かについて、それぞれが模索し始めた。



ここで、改めて明治、昭和の価値観と現在の価値観とを照らし合わせてみる。明治は他国と渡り合うために一人一人が学問をしようということであった。昭和は一人一人が国全体の生活の豊かさのために努力した。現在の成熟社会で模索している精神的な豊かさ、幸せとは何か?

高度経済成長期には、働けば働いただけ国が富む。そしてその結果、生活が豊かになるという、国全体の目標のようなものがあった。

●現在の成熟社会の価値観としては、幸せの形は人それぞれで多様性がある、である。


このようなことからわかることは、現在の成熟社会では、仕事を頑張ることはもちろん幸せのためだが、以前のように日本の経済が成長し、国民の生活が物質的に豊かになること=人々の幸せであるという価値観が薄らいできた、ということだ。物質的な豊かさは人々の共通認識の豊かさだが、精神的な豊かさはそれぞれ違って多様性があるから、ということだ。その結果、今までのような「国のため」、や「全体の豊かさのため」にという価値観がなくなっていっているのではないかと思う。つまり、成熟社会では、その人の幸せは他の人にとっての幸せと違った形になっている、ということだ。

その結果、幸せの形は人それぞれ、という価値観があり、結果として連帯感というものが薄らいできているのではないか。そしてそのために今までにあった「全体のために」という目標のようなものが、見えなくなっているのではないか。

汐見稔幸著『「天才」は学校で育たない』(ポプラ新書)によると、人は個人の幸せと同時に自分の所属するコミュニティの幸せも考えなければならない、と書かれている。

国全体を一つのコミュニティとすると、人はコミュニティのために何かをしたいという思いを持っていると思うので、コミュニティが意識できなければ、そのような連帯感も生まれない。


結果として、日本の国力や経済が成長すること=幸せ、とはならなくなった。事実、自分も日本だけを良くしたいというような考えはあまりないように思える。ただ今までのような日本のため、というような価値観が薄らいだのなら世界を一つのコミュニティと捉えてみることや、国を超えてコミュニティを作る、捉える、としてもてもいいのかもしれない。

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