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私は議論がしたいだけなのに……

私は議論が好きだ。
なぜ好きかと言うと、自分の思考の弱点や限界や思い込みが露呈するからだ。

自分の中の価値観や思考に絶対性や正しさを信じることができない私は、自分の中の思考の歪みや穴を知りたいと思い続けている。

だから、私は議論をしたいと思う。
ただ、この議論には前提条件がある。
ちゃんと、人間の思考からくる結論は相対的、非普遍的であると理解している人と議論がしたいのだ。

自分の主義や主張は正しい、それ以外は正しくないと思いこんでいる方とは議論したくない。
なぜならば、そこにあるのは言語による殴り合いであって、議論の結果としての発展性がほとんど期待できないからである。

昨今のアメリカ大統領選での候補者討論会が、実際は議論になっていないのは周知の通りだが、あれはあくまでも選挙戦略としての遣り方であり、ひとつのショーである。

そのショー的な遣り方を、日常レベル、個人間レベルにまで平気で落とし込んでくる方が少なくない。
そこに辟易とするのである。

自分が選んだ主義や主張を基に論陣は張る時に、自分にとって心地良い部分、あくまでも感情的に心地良い部分、だけを拾ってきて、議論に割り込んできて欲しくない。

自分の主義や主張を進めて行った際に露呈してくる、デメリット、不都合、不具合といった、マイナスの部分、心地良くない部分まで吟味して、自身の内面に落とし込んでいる様な方と、私は議論がしたいのだ。

仏教の考え方の中に「正念」というものがある。詳細を述べると長くなるので割愛するが、一言で言うと航空機事故調査委員会の手法でもって、自身の内外の全事象について考えろという教えだ。

この正念ということが出来なくても、正念というやり方で考えたいと努めている様な方と議論をしたいのだ。

ちゃんと、心地良くない部分についても、客観的に理性的に(感情由来の結果に落とし込まれないように努力しつつ)検討したい、そう願っている方と議論したいのだ。

例えば、
今の私は「個々人の尊厳はこの宇宙の何ものよりも重い」という価値観で動きたいと感情的には願っている。
だが、私の中にある結論は「この宇宙にある全ての事象には一切の価値はない。ただ、偶然に存在が許されただけに過ぎない」というものだ。
この結論を私は苦々しく感じている。だが、これをひっくり返すだけの根拠を私は持たないのだ。

もしかしたら、この先の議論や経験、学習で、この結論をひっくり返すことになる瞬間があるかも知れないし、その瞬間が来るのを私は熱望してもいる。
やってくる新しい結論が、今以上に苦々しいものであってもだ。

それが、私の求める議論の形だ。
相手の言葉によって私が変えられて行く。私の言葉によって相手を変えて行く。
そういう相互作用の可能性がある議論がしたいのだ。

相手をやり込めて、相手の意思を一方的に否定し、蹂躙して、相手の内面を自分の色に染めあげて完成。その代わりに、自分の意思については、とことん甘やかす。
相手には、発言の責任を求めて、発言の根拠を求めて、感情的な物言いだとなじる。それなのに、自分の発言内容や物言いへの自省はなくて、自分の感情には甘い。
そういう方とは議論がしたくない。
そこには相互作用が発生する余地がないから。

相互の意見を認めあって、混ぜて、練り上げて、鍛えて行くことで、新しい見知に辿り着ける筈なのだから。
この作業を否定するような方と議論はしたくない。

それは本当に無駄な時間だから、と私は思っていた。

もう少し、踏み込んで話すと。
議論の結果として、お互いに起こった思考的化学反応が、次の瞬間には新しい化学反応のタネとなる。
そういう積み重ねが面白いのだ。

相手の意見を取り入れて、自分の中で思考的化学反応を起こすだけならば、その方の認めた文章を読めば良い。
文章の中で自分の成長・変化に有益と判断したものを抽出して、自分の中に取り込み、化学反応させればいい。
だが、それでは面白くないのだ。
相互作用的な化学反応が私は見たいのだ。
自分も変わる、変えられる。相手も変わる、変えられる。その先に新たな見知が芽生える。
それがしたいのだ。

だから、私は議論がしたいのだ。
自分と相手、両方の思考の限界が壊れるような風景が見たいのだ。

そのために、まずは、自分の内面、思考のマイナスの部分すらも愛しいと思っている様な方々と出会いたい。

だが、私はそういう方々と出会うための努力を怠ってきたのも事実だ。
そういう方1人と出会うためには、そうではない方と何度も何度もすれ違って行かなければならないと分かっているから、だから怠ってきた。

自分の望む結論へと落とし込むための思考や議論しか出来ない人とは、私は話したくない。
ある種の方と議論はしたい。だが、その対極に居る別種の方々と話もしたくない。
私の中のこのエゴイズムが邪魔をしてきた。

このエゴイズムに従って、私は怠けてきた。

だが、もう、そういうわけにはいかないのだろう。
起き上がり、立ち上がり、旅に出る必要がある時期なのだろう。

私の考え方への不寛容から、私の前に立ち止まり、私にちょっかいをかけてくる者たちを、必死に押しのけて前進して行く。
そして、その先に居る、私の求める方を見つけ、挨拶し、自己紹介し、そしてお願いしよう。
「私と議論してもらえませんか」と。

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