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日本の文化でもあるテキヤのことを。

私の生まれ育った愛知県豊橋市には、毎年夏になると行われる「納涼まつり(夜店)」という一大イベントがあり、数多くの露店が豊橋公園周辺のエリアに軒を連ねて賑わうのが恒例だ。昨年は残念ながら中止だったようだが、大正時代から続く夏の風物詩に、豊橋の子ども達は誰もが心を躍らせてきたものだ。私も小学生の頃などは、この夜店にどうしても行きたくて、両親にいつも連れて行ってくれとお願いしていたのを、今でも懐かしく思い出す。

金魚すくいやバナナチョコ、ヨーヨーや射的といったお決まりの露店が並ぶ賑やかな通りを歩くだけでも楽しいのだけれど、当然ながら色々と欲しくなる。それで両親に「あれ、買って」と小さなお願いをすると、父親はよく言ったものだった。
「そのお金がどこに流れるか知ってるのか」と。

テキヤ稼業は今、非常に厳しい状況下にある。近年はコロナ対策の影響で重要な稼ぎ時だった全国の催事が軒並み中止に追い込まれ、活動の場そのものが減少していることもあるが、暴力団組織と見做されて公権力から排除の対象として取り扱われている昨今の風潮も見逃せない。本書では、テキヤ稼業に身を投じて以降、非合法な収益に一切手を出すことなく真摯に商売を続けてきた人間たちのエピソードが、ケーススタディとして紹介されているが、決して単純な話ではないことが良く分かるはずだ。

テキヤという存在が、日本社会において果たしてきた役割とは何か。どういった人間達がテキヤの世界に流れつき、組合組織と客商売、そして家族や自分自身の将来を見据えて何を想うのか。露天商が日本の街並みから消え去って行った時に、日本社会がもしかすると失っているかもしれないものは、テキヤという存在だけに留まらないのではないだろうか。

そういった多くのことを、本書は問いかけてくる。コインの表側だけでは見えてこない多くの示唆が、きっとあるはずだ。

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