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ハワイ島留学日記#35 ハワイ島プランテーションと日系移民の歴史、プランテーション博物館と津波ミュージアムで学んできたこと。
こんにちは!
先日、パパイコウという街にあるハワイプランテーション博物館でプランテーションと移民についての勉強をしてきました。
元々にこの話題について興味を持っていたのですが、ハワイ島に来てあるお話しを聞いて以来、さらに日系移民の歴史に興味を持つようになりました。
今回のnoteでは博物館内で学んできたことをまとめていきたいと思います。また、この話に関連してつい先日行ってきたダウンタウンの津波ミュージアムで学んだことも書いていきたいと思います。
ノートをまとめるかのように書いてしまうかもしれないですが、ちゃんとまとめ切れていない場所は学び足りていない内容という事で今後さらに注目していきたいと思います!
プランテーションはいつ始まった?移民はどこから?いつ来たの?
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ハワイの最初のプランテーションが始まったのは1820年。このプランテーションは主に中国の人々がオーナーシップをとっていて、ミュージアムの方の説明によると、プランテーションというよりも小さなファームだったそう。
商業的な大きなプランテーションが始まったのは1835年、カウアイ島にあるカロア・プランテーションと言われているそうです。このプランテーションではアメリカ人がオーナーシップをとっており、働いていたのはハワイアンでした。
1875年のReciprocity Treatyでは関税無しで砂糖を輸出する権利が与えられ、サトウキビプランテーションがさらに大きくなりました。それに伴い労働者も必要となり、この契約以降多くの人々が海外からやってきました。
移民としてこの時代にハワイに来たグループで最も大きかったのは日本。続いてフィリピン、そして中国。
この博物館に行くと天井に旗が飾ってあるのですが、それらの旗が表しているのはプランテーションで海外からハワイへ来た人々の国です。
また、ハワイに移民としてくる場合には契約書を書いていましたが、この博物館にはその契約書の実際の例(Japanese, Chinese, Filipino)が置かれていました。
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内容として書かれているのは『プランテーションで3年間働くこと、月給、住居、ハワイに来る際の船』など。
このように国別(書かれている言語は全て英語)を見て、案内をしてくださった方に『国によって何か差はあったのか』を聞いてみると、月収に関して数字を見ると差はありますが、これは仕事内容によって変わってくる数字であったそうです。例えば中国の人々は日本の人々よりも早くからプランテーションにおり、経験があったため最初はより多くの月収があり、日本人たちは後程になって月収が上がったと説明をしてくださいました。
つまり月収は仕事内容、そしてその人の仕事がどのように変わっていくかによって月収は変わるようです。
サトウキビはどのように運んでいた?
さて、このように様々な国からの移民とともに大きくなっていったサトウキビプランテーションですが、どのようにサトウキビを運び、加工していたのでしょうか?
ここでは私が話を聞いていて面白いなと感じたサトウキビの運び方をいくつかピックアップして、私のイラストを通じてご紹介したいと思います。
①『Flumes』
まずはFlumeと呼ばれる水路です。
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この水路に興味を持った理由は、この水路を建設したほとんどが日本人の移民の人々だったという事を知ったから。水路があったことも、日本人が作っていたという事も何も知らなかった。
分かりづらいですが写真の通り、高い位置に作っていたので、建設中に落下をしてしまう事故もあったそうです。
Flumeの使い方は、まずサトウキビをプランテーションの方でカット。そしてこの水路に水を流し、ミルまで流して運んでいたそうです。
私はこの水路を想像して、流しそうめんを思い出しました。きっと説明するにはちょうど良い例かなと勝手に思ってる。
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水路の脇を通った方が近道だったため通っていた人いたらしい。
その当時の子供たちにとってはウォーターライド(水の流れているアトラクション)のようで遊び場ともなっていました。この水路の先にはサトウキビを砕くローラーがあったので、水路から出られず巻き込まれてしまうケースもあったようです、、。
この水路は牛舎に変わって1860年代にはじまり、1930年ごろからなくなりました。
➁『Cane Truck』
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二つ目にご紹介したいのはCane truck。こちらは後ろの部分が大きなボックスになっているタイプのトラックです。
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このボックスの部分にサトウキビを入れ、この中身を出す際は片側の紐のようにつながっている部分を持ちあげました。
博物館には1992年の9月2日にあったヒロ・コースト・プロセッシング・カンパニー(HCPC)による最後のサトウキビの積み上げがあった際の写真が残っています。
1960年にはこのトラックによるサトウキビの輸送は無くなりました。
以上のハワイプランテーション博物館での内容を動画を通してみられたい方はぜひこちらのYouTubeもご覧ください!動画の後半にあります。
ダウンタウンの津波博物館に展示されていたサトウキビの線路と津波。
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サトウキビを運ぶための線路もハワイ島内には多く通っていました。
この線路によってサトウキビをミルからヒロの港へ送っていましたが、サトウキビだけではなく人々も利用していたそうです。ちなみにこれらの線路はヒロからバスに乗って出かける際に通る道や南のカウという場所のビーチ付近にまだ残っていたりします。
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線路が撤去された理由は1946年4月1日に起きた津波です。(ここで数日前に行ってきた津波ミュージアムでの記憶に繋がります、少し話の内容が日系の歴史にずれていきます、、、ごめんなさい!)
サトウキビの線路が以前通っており、現在もお店が立ち並び、栄えているヒロのダウンタウンですが、1946年の津波により大きな被害を受けました。
エイプリルフールの日に起こったこの津波はアラスカで起こった地震によるもので、当時は津波が来ることを測るシステムなどのなかったハワイ諸島に約5時間ほどで到達しました。死者も出たそうです。
この津波によりダウンタウンのエリアやその横を通っていたサトウキビプランテーションの線路も被害を受けました。
新町 (New Town)
ベイフロントとワイロア川の近くにあった『新町』と呼ばれていた日本人街も被害を受けました。この新町は海からの津波というよりも海に繋がっていたワイロア川からの被害だったそうです。
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私はこの新町に関するパネルを津波ミュージアムで読んでいた際に初めて『新町』と呼ばれる日本からの移民によるコミュニティーがあったことを知り、さらにハワイ島、そしてヒロの日系移民の歴史に興味を持ちました。
人にこの歴史を伝えられるぐらいの知識力をつけたいな。実際にこの時代に生きていた人間でもないし、同じ経験をしたわけではないけれど、同じ日本という場所で生まれハワイにわたってきた人々がここに多く暮らしていたのだと考えるととても興味がわくし、もっと学んでみたいなって思う。
それを誰かに伝えられるぐらいになったときに知識力がついて、自分が満足できるような気がする。
以上、今回はハワイプランテーション博物館と津波ミュージアムで私が学んだことをまとめてみました。レポのようになりつつも、自分の考えたことが間に入ってくるという不思議な文章になってしまいましたが、いつもと違うハワイ島留学日記をお届けできたのではないでしょうか。
日本からの移民に関する内容は、今ちょうど友人から借りている本で勉強していて、ここで共有したい部分も沢山あるのですがもっと勉強をしてから書いていきたいなと思います!
今後、日本に帰っても大学のゼミで移民に関するゼミに入ることができたので、卒業論文もハワイと日系移民に関連する内容を研究して、卒論を書きたいなと思っています(ここでは触れなかったピクチャーブライドの話も)。
そうなるとまた今度はフィードワークでハワイ島に帰ってきたいな。
今回のハワイ島留学日記は以上となります。詳しい内容を知りたいと思った方はぜひハワイ島に来られた際にこの博物館やミュージアムで話を直接聞きに行ってみてくださいね!
今回も最後までお読みいただきありがとうございました:)
Lino
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