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美の来歴㊳ ある〈悲劇〉のモデルとその遍歴   柴崎信三

「チェンチ事件」とフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」をめぐって

  16世紀末のローマで、非道と残忍の限りを尽くした貴族のフランチェスコ・チェンチが殺された事件の犯人として、その娘と妻が世論の同情を集めながら公開処刑された悲劇は、《チェンチ事件》として後世の多くの作家たちに書き継がれて今日に至っている。
 例えばスタンダールは『チェンチ一族』で、この悲劇の主人公として断頭台に送られたベアトリーチェ・チェンチという22歳の美しい娘の肖像画を前にして、こう書き留めた。

〈巨匠グイードは、ベアトリーチェの首につまらぬ布をちょっとばかりからませ、頭にターバンをかぶせているが、これはベアトリーチェが断頭台に臨むためにつくらせた衣装や、絶望の淵に沈んでいる16歳(実際は22歳*引用者註)のかわいそうな少女の乱れ髪を、正確に模写したら、あまりに真にせまってすごい印象与えることになりはしまいかとおそれたからだろう。顔は優しくて、美しい。まなざしはきわめて優しく、目はひどく大きい。さめざめと泣いているところを不意に見られたような、驚きの目をしている。髪の毛は金髪で、誠に見事だ〉(小林正訳)

スタンダール(1783-1842) フランスの作家。ロマン主義、写実主義に立って小説『赤と黒』『パルムの僧院』 や『恋愛論』などで知られる。

 

   ここでスタンダールがこの肖像画の作者としているグイド・レーニは『聖セバスチァンの殉教』で知られるバロック絵画の巨匠で、ながらくこの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』の作者とされてきた。ところが近年の調査では、その弟子筋にあたる17世紀の女性画家、エリザベッタ・シラーニの作とする見方が有力らしい。このことはひとまず措こう。
 スタンダールが『チェンチ一族』を書いたのは事件から200年以上を経た1834年3月、ローマを旅して実地に見たこの肖像画にひきつけられ、合わせて事件当時の訴訟記録やそのころ書かれた事件の報告を読んだことによっている。二人の女性の処刑を当時の人々がどのように受け止めたのかをめぐり、ベアトリーチェが処刑された1599年9月11日のわずか4日後に書かれた記録に基づいて小説化したのが、スタンダールのこの作品である。

〈クレメンテ八世アルドブランディーニ法王猊下の御世、去る1599年9月11日土曜、親殺しのため処刑された、ジャコモ・チェンチ、ベアトリーチェ・チェンチ、およびこれら兄妹の義母ルクレツィア・ペトローニ・チェンチの死に関する真相〉

   

グイド・レーニ(1575-1642)バロック時代のイタリアの巨匠。ラファエロ風の古典的な作風を特徴とし、『聖セバスチアンの殉教』で知られる。

この長いタイトルの記録をたどりながら、事件の概要と処刑直後に巨匠グイド・レーニが描くことを決めたとされる『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』の謎を探ってみよう。
   父親のフランチェスコ・チェンチは出納官を務めた有力貴族の御曹司であったが、巨額の財産を背景にした暴力と破廉恥な色恋沙汰でたびたび投獄されては恩赦を繰り返すという、極道ぶりは次第に妻や家族にも及んだ。ふるまいは猟奇的な色彩を強めていく。

〈フランシスコ・チェンチの噂が高くなったのは、主としてグレゴリオ十三世の時代である。あるきわめて富裕な、彼のような信望ある殿さまには似合いの婦人と結婚したが、この夫人は七人の子供をもうけて死んだ。その死後まもなく、彼はルクレッツィア・ペトローニと再婚した。フランシスコ・チェンチについて非難すべき悪癖のなかでも、破廉恥な愛欲に対する好みはとるにたらないもので、神を信じないことがいちばんいけなかった。彼が生存中教会にはいる姿を目にしたものはだれもいない〉

   破廉恥で変態的な色恋沙汰で三度にわたって投獄された彼は、法王に籠遇されている関係者にそのたびに裏金を与えて、恩赦で釈放された。
   フランチェスコはローマのユダヤ人居住区にあるチェンチ宮で後妻のルクレッツィアや息子のジャコモとベルナルドを虐待し、実の娘のベアトリーチェに対しては性的虐待を繰り返すようになった。妻子の自由を奪ったうえで、悪行は下男や下女にまで及び、ベアトリーチェは義母のルクレッツィアとともに、ナポリ王国にあるペトレッラの城に隔離された。ベアトリーチェは人を介して窮状を法王クレメンテ八世にあてて訴えた「請願書」を送っているが、これも途中で握りつぶされている。

〈すくなくとも、ベアトリーチェが投獄されてから、弁護人はこの書類がぜひとも必要だと思ったが、「請願書」調査課では、これを発見することができなかった。これがあれば、ベトレッラ邸でおこなわれた前代未聞の暴行を、いわば証明することができただろう。そうすれば、ベアトリーチェ・チェンチが正当防衛の立場に置かれたことは、万人のひとしく認めるところとなったではなかろうか〉

  母と謀って父親殺害の計画が立ち上がるのは、必然であったのかもしれない。やはり虐待を受けていた義兄のジャコモ・チェンチらを巻き込んで、ベアトリーチェは義母のルクレッツィアとともに、この暴虐な父フランチェスコの殺害を計画し、やはり迫害を受けていたチェンチ家の下男のマルツィオとペトレッラの城から追い出されていたオリンピオに実行を持ち掛けて、犯行を具体化していったのである。
   この殺害計画のいわば後見人として、ベアトリーチェが懇意にしていた修道士グエルラが二人の実行犯に謝金を支払うことも、事前に約束されていた。
 1598年9月9日の夜、避暑先のペトレッラの城が惨劇の舞台である。
 母親のルクレッツィアが、寝室に休んでいるフランチェスコに阿片を混ぜた飲み物を巧みに飲ませてぐっすり寝沈込んだ真夜中、示し合わせたマルツィオとオリンピオが城の中に導かれ、熟睡しているフランチェスコの寝室へ案内されたが、ほどなく戻ってきて訴えた。
 「眠っている老人を情け容赦なく殺せません」
 これを聞いたベアトリーチェは激怒した。
 「そう!あなたがたは腰抜けなのだから、わたくしが自分で父を殺します。けれどあなたがたのほうも、長く生かしておけませんよ!」
  22歳の美しい娘のおそろしい剣幕に二人の男は意を決し、寝室へ戻って犯行に及んだ。
 ひとりが手にした大釘を寝台の老人の目玉の上にあてて、もう一人がそれを金槌で打ち込んだ。もう一本の大釘はのど元に打ち込まれた。もがく老人から夥しい血が流れた。
  約束の金を与えてオリンピオとマルツィオをその場から立ち去らせると、母娘は血まみれの死体をシーツにくるんで庭に運び出し、大きなスイカズラの木の根元に投げ込んだ。
   ペトレッラ城で起きた残忍な父親殺し事件は、実行犯のマルツィオが逃亡先で逮捕されて一切を自白したことから、ローマにもどった母娘と二人の息子は捕まり、裁判所は監獄に拘束した。吊るし刑による拷問が繰り返されたが、それに耐えながら美貌をたたえて堂々と正当防衛を申し立てるベアトリーチェの姿が、取り調べの判事らの判断を迷わせ、世論を大きく揺るがしたことを、スタンダールはこの小説のなかで書き留めている。

〈これほどやさしい、同情に値すべき、しかもすでにこれほど薄幸の女性の合対すべきしかもすでにこれほど薄幸の女性の不運を倍加するような人間の裁きがあってよいものか。十六歳(実際は22歳)になるまでに、ありとあらゆる不幸に責めさいなまれ、これほど悲惨な境遇をこうむった以上、今度こそは、もうすこしましな日々を送ってしかるべきではないか。ローマでは、だれもがベアトリーチェの弁護に立っていたようだった〉

   しかし、法王クレメンテ8世の決断は過酷であった。ローマ市民に広がったベアトリーチェと家族に対する同情と強い共感を退けて、母娘と兄のジャコモに死刑の宣告を下したのは、「ローマで最も美しい農園」といわれた広大な領地を含めたチェンチ家の財産を没収できることへの思惑があったからだと、今日には伝えられている。

 1599年9月11日の未明、ローマのサンタンジェロ橋前の広場には大きな断頭台が設けられ、ギロチンが組まれた。修道女が監獄の門前にキリスト像を建てて礼拝堂を作った。
 最初に牢から出された兄のジャコモはまず戸口に膝間づいて敬虔な祈りを捧げ、十字架の聖痕に接吻した。赦免されることになった弟のベルナルドが手錠をほどかれた。
   死刑の宣告を受けたベアトリーチェは悲嘆に泣き崩れたが、落ち着いた母の言葉を聞くうちに冷静な落ち着きを取り戻した。まず遺書を認めるために公証人を呼んで、自らの墓所を指定し、聖痕派の修道女たちに多額の財産を遺贈することなどを命じた。

◆ベアトリーチェの処刑の場となったサンタンジェロ城前の広場と橋。「五賢帝」のひとりハドリアヌスが霊廟として建設。円形の霊廟には太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像がある。


 「お母さま、そろそろ受難の時がまいります。準備をいたしましょう」
   22歳の娘は義母のルクレツィアにそう呼びかけて、ミサのためにしつらえた服に着替えた。青のタフタ織で、同じ色のヴェールで頭部を覆い、銀糸のラシャのスカートに太い帯を巡らせた装いは、修道女の服装に似ていた。聖旗を先頭に行列がサヴェッラ監獄の獄門にさしかかると、捕らわれの身で十字架像を手にしたこの母娘が末尾についた。サンタンジェロ橋の前の広場は群衆と夥しい馬車で埋め尽くされており、運命の母娘の姿を一目見ようという人々のまなざしがこの行列に集まっていた。
   後ろ手に縛られた母のルクレッツィアが断頭台に上って処刑された。
   この時、見物で広場に集まった群衆が乗った物見台が重さに耐えきれずに崩れ落ちた。多くの死傷者が出て、広場の興奮と混乱に拍車をかけた。
  「お母さまはたしかに亡くなられましたか」
   十字架像の前で祈りをささげたベアトリーチェが、そう問いかける。
   聖旗を持った付添司祭が近づくとベアトリーチェの祈りの声はさらに高まった。

「この身体は罰せられることになるのですから、しばってください。しかし、この魂は天国に行って、永遠の光栄に浴することになるのですからしばらないでください」

   行列の末尾についてから断頭台に向かうべアトリーチェの姿には「異様な美しさがあった」とスタンダールは書いている。もちろん作家は二百年以上の時間を隔てて、この猟奇的で理不尽な事件を当時の記録から再現してそう記しているにすぎないのだが、そのようにしか表しようのない〈霊気アウラ〉の磁場が、このサンタンジェロの広場に生まれていた。
    直前、ベアトリーチェはまとっていた青いタフタ織のヴェールで自らに覆って、声高にイエス・キリストと聖母マリアの名を呼び続けたといわれる。見物人を含めてほとんどのローマの人々の世論は、この幼気いたいけ健気けなげな美しい少女の非業の死を深く悲しみ、法王クレメンテ8世が下した無慈悲な決断に憤り、世の無常をはかなんだのである。

〈ベアトリーチェ・チェンチは、のちの世までも長く惜しまれることになったが、このときはちょうど16歳(引用註:実際は22歳)だった。小柄で、太っていることが可憐で、頬の真んなかに笑窪(えくぼ)があり、死んでからも花に飾られると、眠っているといいたいばかりか、生存中もよく見られたように、笑っているかとさえ思われた。口もとが小さく、金髪で生来巻毛だった。死に臨んだ際、この巻毛の金髪が目もとにたれ下がっていて、それが一種の風情をなし、憐憫の情をそそった〉

   後世の作家たちが競うように「ベアトリーチェ・チェンチの死」を描いたのは、必然であったのだろう。19世紀にスタンダールがこの小説を書き、アレクサンドル・デュマ(父)やナサニエル・ホーソンが論じた。劇作家のアントナン・アルトーやアルベルト・モラヴィアが演劇化した。日本でも戦後に久生十蘭が舞台を平安末期の日本に移して、藤原家の暴君の藤原泰文殺害劇としてこの史実を使った『無月物語』を描いている。

   さて、ここではこの悲劇の主人公のベアトリーチェをモデルにしたという一点の肖像画の由来と、今日あまりにもよく知られたフェルメールの名作で『真珠の耳飾りの少女』という作品との不思議な照応について、ひとつの仮説を投じてこの中世ローマの残酷な物語を締めくくろう。
   ローマのバルベリーニ宮殿国立古典絵画館が所蔵する『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』は、死刑台へ向かうベアトリーチェの最期の姿をバロック絵画の巨匠のグイド・レーニが再現した作品と伝えられてきた。ヴェールで頭部を覆い、ゆったりとした着衣で振り返ったその表情にはまだ少女の初々しさが漂っている。つよさと果敢はかなさがまじりあったまなざしは、短い人生への未練を伝えるように切ない。
    同時代の図像としての〈尚似性〉という一点で、これまでしばしばこの作品と比較して論じられてきたのが、ヨハネス・フェルメールの名作『真珠の耳飾りの少女』である。

グイド・レーニ『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』 (国立古典絵画館蔵、1640年頃?
フェルメール『真珠の耳飾りの少女』(1655-66ごろ、油彩・カンバス、ハーグ・マウリッツハイス美術館蔵)

    オランダの17世紀を代表する画家、フェルメールの生涯は謎に包まれていて、作品として確認されているのも現在、世界で30数点しかない。その希少なフェルメールの作品のなかでも、この『真珠の耳飾りの少女』は制作年やモデルの同定など、作品としての多くの〈要素ピース〉を欠いた名画ということになる。
   フェルメールの作品は、多くが豊かな社会へ向かう当時のオランダの人々の生活の断面をとらえた〈風俗画〉と呼ばれるジャンルに属しており、この少女像はそうした画家の主題からも孤立している。黒だけの背景で人物を浮かび上がらせていることから、トローニーとよばれる人間の頭部を描いた習作の一種とする見方もある。
   それならば、歴史のはざまの悲劇として欧州社会に知られていたベアトリーチェ・チェンチの肖像を、画家が当時の印刷物などで見たイメージでそこに移し替えてみたとしても、いささかの不思議はない。振り向いた少女の涙に潤んだようなまなざし、そして「青いタフタ織のヴェール」という処刑の前の装いそのままに描かれた異国風の鮮やかなブルーのターバンは、あの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』の前へ見る者を導くのである。
   近年のこの作品への調査研究で、制作年代が従来の17世紀初頭から下がり、作者もレーニの弟子筋にあたる17世紀の女性画家、エリザベッタ・シラーニとする説などが浮かび上がっている。この画家とはほぼ同世代のフェルメールは、ベアトリーチェをめぐる伝説をどう受け止めていたのか。振り返った少女の眼に点じられた白い光が放つ輝きは、謎の多いオランダの画家の心のうちをひっそりと伝えているようである。

◆標題図版 グイド・レーニ作とされてきた『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』(バルベリーニ宮殿古典絵画館蔵)


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