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三島由紀夫という迷宮③ 「太宰さんの文学は嫌いです」 柴崎信三

〈英雄〉になりたかった人❸


 終戦の年に20歳の三島由紀夫が書いた短編小説『岬にての物語』では、11歳の彼が家族とともに避暑に出かけた外房の鵜原の海岸を舞台に選んで、白日夢のような奇譚が語られる。
 母と妹と書生とともに避暑で訪れた房総の海辺で、11歳の主人公の少年は散策の途中、別荘の廃屋から美しいオルガンの旋律が流れてくるのを聞く。誘われるように中へ入ると、ひとりの青年と美しい少女に出会い、かくれんぼをして遊ぶうちに、突然鳥の鳴き声のような悲鳴を聞いた。若い男女はそのまま姿を消してしまい、少年は夏花が咲き乱れる岬に一人残される。人が決して伝えることのできない一つの決定的な秘密をかかえて、夢想から目覚めたように彼は日常に戻ってゆく‥‥。

〈私は待っていなければならぬ義務を覚えた。海に向う窓をとおして、私の目には、不当に広い夏空と、黄なる花をつけた灌木林の微細な間隙を雲母で埋めている湾の一部とが映った。波濤は彼方で、海の巨大な象の群れが歌うかのように歌っていた。それは「運命」の歌声を思わせた〉(三島由紀夫『岬にての物語』)

 兄妹を思わせる若い男女が緩やかに情死へ導かれる気配と、そこに偶々立ち会った11歳の少年の物語は幻想とデカダンスに彩られる。そのモチーフから人物の設定や展開、そしてアラベスクに織り込まれた華麗な文体まで、多くをダンヌンツィオの『死の勝利』に導かれて書かれた作品といわれる。

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『岬にての物語』(1947年、桜井書店)の蕗谷虹児の挿画

 20歳だった作家は、日本が戦争に敗れて天皇の玉音放送が流れた1945年8月15日を挟んで、この全く時局とかけ離れた浪漫的な短編小説を書いた。そして、原稿の途中の欄外には「昭和20年8月15日戦ひ終わる」との注記をしたためた。「八紘一宇」も「玉砕」も、すべてかかわることのない反時代的な空間を設えて、20歳の三島はこれを造形したのである。
 前年の徴兵検査で第二乙種合格となった平岡公威ひらおかきみたけこと三島は、この年の2月に恐れていた赤紙、つまり軍隊への召集通知を受け取った。遺髪と遺爪、そして遺言状では父母、恩師と友人、弟妹に別れを告げ、末尾に「天皇陛下万歳」と認めた。しかし、本籍地の兵庫県富合村で入隊検査を受けたところ、担当軍医から右肺浸潤の診断があって即日帰郷きごうとなり、兵役を免れた。
この即日帰郷の経緯については、後年農務官僚だった父、梓が旧知の軍医に頼んで図った差配をほのめかしている。仮病によって徴兵忌避が認められたというのだ。 
 『私の遍歴時代』で三島はこう振り返っている。

〈そのころ私は大学へ進学しており、いつ赤紙が来るかわからない状態にあった。私一人の生死が占いがたいばかりか、日本の明日の運命が占いがたいその一時期は、自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に一致した、まれにみる時代であったといえる。私はスキーをやったことがないが、急滑降のふしぎな快感は、おそらくああいう感情に一等似ているのではあるまいか〉

 のちに三島は「一億玉砕は必至のような気がして、一作一作を遺作のつもりで書いていた」と記している。けれども、同世代の多くが徴兵や動員で大陸や南方の戦線に送られて死線をさまよい、国家の命運とともに歩んで8月15日を迎えたのと比べれば、勤労動員先である神奈川県高座の海軍工廠に寄宿しながら、幻想にあふれた耽美小説を書き続けることのできた20歳にとって〈終戦〉は、ほとんどかなたの蜃気楼を見るような経験であったろう。

〈二十歳の私は、何となくぼやぼやした心境で終戦を迎えたのであって、悲憤慷慨もしなければ、欣喜雀躍もしなかった。その点われながら、、まことにふがいなく思っている〉

 後年『八月二十一日のアリバイ』という文章の中で、三島は自らの〈敗戦〉の体験を振り返って、多くの同世代が祖国に抱いた巨大な価値の喪失や裏切りの感情とは無縁であったことを率直に吐露している。
   同世代の政治学者で、三島が深く信頼した橋川文三が指摘している。

〈戦争のことは、三島や私、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴オルギアの記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇跡的な放恣と純潔、アコスミックな美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の兇行との一体感が全地をおおっていた〉(橋川文三『日本浪曼派批判序説』)

 徴兵されて実際の戦闘にかかわり、死地をさまよった同世代とは異なり、〈戦争〉を観念として体験しながらかかわることなく敗戦を迎えた三島や橋川にとって、それがある種の「秘宴」であったとしても不思議はない。神奈川県高座の学徒動員先で迎えた敗戦は、三島を日常へ呼び戻し、「躍り上がって詞藻の再興に邁進する知的エリートへの軽蔑と嫌悪」を呼び起こす。つまり三島は「恩寵としての戦争」にあこがれ、遅れた世代だった。

〈わたしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待った、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに街並の
むかうからおしよせてくるのを〉

 日米開戦の前年、学習院中等科に通う15歳の三島が書いた「凶ごと」と題する詩である。「夕な夕な、窓に立って椿事を待った」という詞藻の通り、彼はかかえた戦時下の終末感という音楽に身を浸して、観念的な戦争の彼方の「死」に寄り添いながら、〈8月15日〉を迎えたのである。

   1970年11月25日、45歳の三島が陸上自衛隊市谷駐屯地で自決した日の午後、現場近くの市ケ谷の自宅で江藤淳が冷静に分析したように、三島由紀夫にとって〈戦後〉は当然、甚だ居心地の悪いものであった。
 しかし、『仮面の告白』(1949年)で自らの性的来歴の秘密を告白カミングアウト したのと平仄を合わせて、彼は〈戦後〉という新しい現実に身の丈を合わせるようにして自らの文学を着々と構築してゆくことになる。
 それはどんな時代であったのか。累々たる死者が眠る焦土と化したこの国には、占領軍とその頭目のダグラス・マッカーサーという新しい支配者が君臨し、かつての社会の仕組みはことごとく崩れてゆく。家産や係累を失った人々が、焼け跡に立った闇市にあふれる日本の戦後社会が、ニヒリズムとリアリズムに覆われていくのは必然であった。その空気をいち早く作品化して喝采を浴びたのが、〈無頼派〉と呼ばれた太宰治と坂口安吾であった。

〈半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみませじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ〉(坂口安吾『堕落論』)

 安吾がこう記したのは1946年、終戦の翌年である。

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太宰治(1909-1948)東京帝大仏文科中退、左翼運動や「日本浪曼派」を経て『晩年』『富嶽百景』『走れメロス』『斜陽』などの作品で流行作家に。愛人と入水自殺。(写真は林忠彦)


 一方、太宰は『トカトントン』で8月15日の玉音放送を聞いたあとの虚脱と放心を描いている。その日、小学校の校庭で天皇の終戦の詔勅を聞いて「徹底抗戦のあと自決する」という配属将校の言葉に落涙し、ともに死のうと思った地方の郵便局員の一青年が、突然校庭の背後から〈トカトントン〉というのどかな普請の音が響いてくるのを聞いて、すべてから解き放たれるという話である。

〈ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか。悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私にはいかなる感慨も、何も一つも有りませんでした〉(『トカトントン』)

 ラジオから玉音が流れる厳粛なその時であっても、兵舎の普請は予定通り行われて、日常という時間は何事もないようにすすんでゆく。夏の日盛りの校庭に天皇の肉声が流れて、時代が切り替わる厳粛な一瞬に、遠くから響いてくる〈トカトントン〉という調子はずれの擬音語オノマトペをあてて虚脱感を伝えた作家の才覚は、確かに見事である。
 しかし、世代的にこの「無頼派」の作家たちよりも一回り以上年下の三島が経験した「敗戦」が、虚脱や幻滅とも異なるある種の非現実感に包まれていたとしても、不思議ではない。戦争は彼方で燃え盛る「椿事」であった。
 敗戦から二年後の1947(昭和22)年に東大法学部を卒業、高等文官試験に合格して大蔵省銀行局に勤務する三島は前年の冬、太宰治と対面して言葉を交わしている。
 1946年12月14日、場所は東京・練馬豊玉の学生下宿の二階である。よく知られる挿話だが、若い三島と太宰とのただ一度の対面である。その場面がどんなものだったか。同席した野原一夫の『回想 太宰治』と三島の『私の遍歴時代』『会計日記』から再現する。
 府立五中時代の文学仲間が当時の人気作家の太宰に会いたいというので、旧知の野原が友人の出英利いでひでとしの下宿に場所を設けて三鷹の家から太宰を案内した。中野駅からバスで十数分、畑と雑木林に囲まれた家の二階のさほど広くない部屋に酒肴が準備され、7、8人の若い文学青年が集まっていた。矢代静一、中村稔、出英利らがいた。
 その一人であった三島が抱いた太宰の印象を、まず記しておこう。

〈私は多分、絣の着物に袴というような恰好で、ふだん和服など着たことのない私がそんな恰好をしたのは、十分太宰氏を意識してのことであり、大袈裟にいえば、懐に匕首をのんででかけるテロリスト的心境であった〉(『私の遍歴時代』)

 上座には太宰と亀井勝一郎、青年たちはそのまわりを取り囲んでいる。
太宰は機嫌よく軽口をたたきながら酒を飲み、紹介された三島はその前に招じ入れられて盃をもらった。「場内の空気は、私には、何かきわめて甘い雰囲気、信じあった司祭と信徒のような、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそとその感動をわかち合い、またすぐ次の啓示を待つという雰囲気のように感じられた」と三島は記している。
 その「甘ったれた空気」を裂くように、太宰の面前で三島は言った。
「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」
 一瞬座が白けて、少しの間沈黙があった。
「きらいなら、来なければいいじゃねえか」
 太宰は顔を隣の亀井のほうへ向けて、吐き捨てるようにいった。三島によれば、そのあと太宰はすこし体を崩して誰に言うともなく付け加えた。
 「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」

 この挿話は戦後文壇史のひとこまとして、すでに伝説となっている。しかし、ここでは「椿事」を待ち望みながら徴兵忌避者のように現実の戦争を潜り抜け、居心地の悪い〈戦後〉の混沌に置かれた三島由紀夫が年長の〈無頼派〉の作家にあてつけた、婉曲な同時代批判を読み取るべきではなかろうか。三島は戦後の青年たちを熱狂させたこの作家についてこう記している。

〈もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的に反発を感じさせた作家もめずらしいのは、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない〉

 「笈を負って上京した少年の田舎くさい野心」を底に温めながら、戦後という虚無の時代の空気に抗いつ戯れるごとく生きて、あげくに愛人の女性と心中する。そんな人気作家の甘えた自意識は、どこかで三島自身が隠し持つそれと底を通じているゆえに、許せないのである。
 『斜陽』で戦後没落した旧華族の未亡人の言葉遣いが、およそかけはなれていると批判し、「女と心中するような男はもっと厳粛な顔をしていなくてはならない」と、その風貌にも三島は嫌悪を隠さなかった。
 1948年の九月、9か月ほど勤務した大蔵省を退職して、作家として独立する。古典主義に寄り添い、太宰のように小説の中で直截に自己を語らうことを頑なに避けてきたこの作家は、皮肉であるがその翌年7月に刊行される『仮面の告白』で自らの〈ヰタ・セクスアリス〉を告白して、ベストセラーになった。これは河出書房の編集者の坂本一亀からの依頼で書き下した長編小説であり、その自伝的な自己暴露が話題性をひときわ高めたのだろう。
 そこでは「汚穢屋」と呼ばれる清掃労働者の青年の屈強な躰に強いあこがれを抱き、画集の『聖セバスチァンの殉教』の矢の刺さった裸体画に興奮を覚えて初めて自涜する少年期の経験を描いて、自らの同性愛への傾斜があからさまに語られる。初めての異性の恋人との交渉を成し遂げることができない主人公の不如意な青春が、戦争末期の忍び寄る「椿事」の幻影を背景に浮き彫りにされてゆくー。
 LBGTの広がりなどで同性愛への偏見が和らいだ今日と較べてみれば、当時のこの青年作家の〈告白〉はそれだけで十分にスキャンダラスであったに違いない。といっても、これは作者の生い立ちと性的履歴をただなぞった自伝的告白というのではない。それは芸術家がまとった〈仮面〉と〈素顔〉との間に横たわる逆説それ自体が主題として描かれるのであって、同じ戦時下から戦後への転換期を背景にして、太宰治が描いた私小説的なデカダンスや自己韜晦の世界とは彼我の落差がある。作中の主人公の「成長」を通して時代精神への飛躍を予感させる作品ということもできる。
 『仮面の告白』は三島にとっては居心地の悪い、仮住まいのような〈戦後〉という時代にあって、作家としての〈離陸〉をもたらした作品である。そして、その後の『青の時代』(1950年)『金閣寺』(1956年)『絹と明察』(1964年)などの主だった小説が、いずれも戦後の日本に起きた現実の事件に取材した作品であったことは、三島と「戦後」という自らの居場所のない時代との〈和解〉を意味した。 

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『青の時代』のモデルとなった東大生の経営する
闇金融会社「光クラブ」の広告塔

 近代日本文学の精粋と呼ぶべき『金閣寺』は1950(昭和25)年7月に起きた青年僧による金閣寺の放火炎上に主題にした。また『青の時代』は1949(昭和24)年に闇金融会社「光クラブ」が破綻して経営する東大生が自殺した事件を題材にしている。近江絹糸の労働争議をめぐって父性と日本型経営のかかわりを問いかけた『絹と明察』、さらに東京都知事選に立候補した政治家と著名な料亭の女主人の入り組んだ愛を描いて、日本初のプライバシー裁判に発展した『宴のあと』など、戦後の三島は現実に起きた同時代の社会的な事件に取材した作品で、次々に評価をおさめた。それはあの「居心地の悪い戦後」を反転させて、自らの文学的主題にした成功を意味する。
 戦前から戦中にかけて、浪漫的な幻想譚を書き続けてきた三島が、戦後一転してこうした現実の出来事に依った作品を次々に発表していったのは、〈椿事〉を待ち続ける現実から抜け出して戦後の混沌のなかに生身を浸してみる覚悟と自信が生まれたからである。それは三島の社会的な〈成長〉であるとともに、『仮面の告白』のいたいけな世界から脱皮して、肉体的にも社会的にも自らを新しい存在へ〈武装〉することを意味した。
 この間の三島の「自己改造」について、江藤淳は後年こう述べている。

〈氏がここでおこなったことは、精神や感情を肉体の比喩で語り、言語をあたかもものであるかのように外在化し、要するにすべての内面的なものを徹底的の外在させてしまうことである。物質的な飢餓の時代に、闇市の不潔な食物と並べて、かくも精神的な肉体、かくも雄弁な物質をさりげなく売るとは、またなんと悪意に満ちた挑戦ではないか。このことによって、三島氏は、数かぎりもない復員くずれの物騒な若者たちの旗手となった〉(江藤淳『三島由紀夫の家』)

 日本人は敗戦の焼け跡の痛みと虚脱からようやく立ち上がり、崩壊と混沌のなかから新しい秩序を探りはじめていた。。
 朝鮮戦争特需によって奇跡的な経済復興の軌道にのった日本は、GHQの占領体制から解かれて独立を回復すると自立の手がかりをつかみ、〈戦後〉の経済成長への坂道を上りはじめる。1956(昭和31)年の経済白書が「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズを掲げて復興経済からの離陸を宣言したのを、三島はどのように受けとめていたのだろうか。
 彼にとって、それまで親しんできた祖国とは全く異なった未知の〈日本〉が、目の前に広がり始めていた。美の基準の喪失、倫理のない欲望の追求と破綻、伝統的な権威の崩壊など、それぞれの作品に描かれた風景は、三島自身の肉体と精神に、大きな「自己改造」を促してゆくことになる。       

 居心地の悪い〈戦後〉の泥濘のなかから三島が抜け出て、新しい精神と肉体へ「自己改造」を遂げてゆくきっかけの一つが、1951(昭和26)年暮れから約半年近くにわたって米国やブラジルなど南米、そしてフランスからギリシャ、イタリアなど、世界各地を巡る初めての海外への旅であった。
 それは彼が温めてきた西洋文明へのあこがれを実地に確かめる初めての美的体験であるとともに、外から〈日本〉という「祖国」パトリを見つめ直す初めての経験であり、それは自意識で武装してきた三島自身を社会的に解き放つことにもつながっていったに違いない。

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プレジデント・ウィルソン号の甲板の三島(1952年)

 12月25日に横浜を出港したプレジデント・ウィルソン号は、ハワイへ向かっている。船客となった26歳の三島は、時化が明けてようやく青空が広がった太平洋上で甲板のデッキに身を横たえ、裸の上半身に陽光を浴びた。

〈太陽!太陽!完全な太陽!
私たちは夜中に仕事をする習慣を持っているので、太陽に対してほとんど飢渇と云っていい欲望を持っている。終日、日光を浴びていることの自由、仕事や来客に煩わされずに一日を日光の中にいる自由、自分のくっきりした影を終日わが傍らに侍らせる自由、この一日サン・デッキにいて、たちまち私の顔は日灼けした〉(『アポロの杯』)

 ホノルルからサンフランシスコへ向かう船上で彼がまず出会うのは、米国という巨大な影の下でいくさに窶れた「祖国」の遣る瀬無い面影である。
40年前に仙台からカリフォルニアに移民した60近い日本人女性は、ロサンゼルスでホテルを経営する成功者である。「これが最後になる」と思しい4度目の祖国への旅で四国や九州、故郷の東北を巡って帰途にある。
日米開戦時に即日抑留された折、監房の誰もが米本土まで攻め上ってこない日本軍に無念を抱き。「その時は喜んで日本軍の砲弾の犠牲になったのに」と、彼女は若い三島に吐露した。
 サンフランシスコでは、日系人の経営する粗末な日本旅館に泊まった。

〈身をかがめて不味い味噌汁を啜っていると、私は身をかがめて日本のうす汚れた陋習を犬のように啜っている自分を感じた〉(同)

 あらゆる民族がその土地に彼らの民族的風習を持ち込むのだが、戦にやぶれた日本人は戦勝国の都市の片隅で「陋習」という存在に復讐され、刑罰をかされている、と三島はいうのである。
 ニューヨークでは「サロメ」や「ジャンニ・スキッキ」などのオペラを見物し、「欲望という名の電車」や「羅生門」などの映画と「南太平洋」などのミュージカルを次々に見た。エンパイアステートビルを観光し、米国人の編集者や演出家と会って意見を交わし、ハーレムの黒人酒場にも足を運んだ。その印象を「五百年後の東京のようなもの」と記している。
 美術作品ではスペイン内戦時代に描かれて、20世紀最大の「政治的絵画」となったピカソの『ゲルニカ』についての言及がある。戦時下に反戦と平和の祈り図像として、フランコ独裁体制のスペインから鳴り物入りでMoMA(ニューヨーク近代美術館)に移管されて展示されていた作品である。

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パブロ・ピカソ『ゲルニカ』
(1937年、油彩・カンバス、マドリード・ソフィア王妃芸術センター)

〈「ゲルニカ」は苦痛の詩というよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出している。一定量以上の苦痛が表現不可能なものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴えも、どんな涙も、どんな狂的な笑いも、その苦痛を表現するに足りないこと……〉

 ファシズムや独裁に対する抵抗と平和と人道の象徴として、20世紀の国際政治の争点イシューになっていたこの作品に対して、三島の視線がもっぱらゲルニカ空爆に逃げ惑う母子の生理的な〈苦痛〉に向かっているのが、特異な印象をもたらす。戦争や人道といった絵画の抽象的主題を超えて、人間の生死が伴う〈苦痛〉をもっぱら画面から読み解く三島の心理はどこから来るのか。ついでに触れるなら、広島・長崎の原爆投下の惨禍について彼が生涯にわたってほとんど論じていないのも、どこか腑に落ちない謎である。
とはいえ、敗戦の傷跡があちこちに広がる祖国を後にして初めて訪れた戦勝国の米国は、冷戦期の世界を主導する大国へ歩んでいる。その光彩陸離とした活気を27歳の三島はのびのびと楽しんだ。
 米国のあとに訪れたブラジルのリオジャネイロでは、荘子の〈胡蝶の夢〉のような不思議な変身譚を経験した。日曜の朝、ホテルから一人散歩に出たリオの街を歩くうちに、人通りの少ない住宅街で突然「一度たしかに自分はここを見たことがある」という、夢の中の記憶のようなものに襲われるのである。そこで語られる荘子の胡蝶への変身、邯鄲の夢と輪廻の感覚は三島が最後の長編小説『豊饒の海』の骨格を形作る主題となってゆくのを考えると興味深い経験だが、いまここでそれには触れまい。


 この旅で三島が得たもっとも大きな経験は、やはりそのあとの欧州、とりわけローマとギリシャで巡りあてた美術作品との出会いであろう。
 ローマのホテルに近くボルゲーゼ美術館ではティツィアーノの名作『聖愛と俗愛』についての言及がある。「肉体と精神、誘惑と拒否、このワグネル的な永遠の主題が、いかに明朗に、いかに翳りなく描かれていることか」という解説は、華やかな画面をとらえて知的で的確である。しかし、背景の入り江や城館、足元の花々についての細やかな指摘に比べて、幼子を挟んだモデルの着衣と裸体の女性については全く触れていない。


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ティツィアーノ『聖愛と俗愛』
(1514年、油彩・カンバス、ローマ・ボルゲーゼ美術館)


 これに対し、パルテノン神殿などのギリシャの古代建築やアンティノウスなどの青年像については、ほとんど熱を帯びた記述が躍っている。

〈今日も私はつきざる酩酊の中にいる。私はディオニューソスの誘いを受ぼけているいるのであるらしい。午前の二時間をディオニューソス劇場の大理石の空席にすごし、午後の一時間を、私は草の上に足を投げ出して、ゼウス神殿の円柱群に見入ってすごした〉

 三島がもっとも深く美的関心を注いだのはパルテノンやアポロ神殿などギリシャの古代建築の廃墟と、ローマのヴァチカン美術館にあるアンティノウスの胸像などの古代美術であった。システィーナ礼拝堂のレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』などルネサンス美術は一通り見ただけで、これらの古代建築と美術をもっぱら目的に選んで通い詰めている。
 ゼウスの宮居の15本の石柱が13基と2基という不均衡の配置で碧空の下に屹立している眺めを、三島は「非左右相称の美の限りを尽くしいる」と手放しで賛美し「龍安寺の石庭の配置」を重ねてみる。キリスト教の秩序が形成される以前にあった汎神論的世界に三島が寄せる、精神と肉体の未分化な古代的人間へのあこがれが、そこに投影されている。

希臘ギリシャ人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きていたのである。希臘人の考えた内面はいつも外面と左右対称を保っていた。希臘劇にはキリスト教が考えるような精神的なものは何一つない。それはいわば過剰な内面性が必ず復讐をうけるという教訓の反復に尽きている〉

 近代人がまとった過剰な精神性を遠ざけて、健康な肉体を持った古代的人間が営む劇的な空間こそ、三島が思い描くユートピアだった。それを目の当たりにした感動が、『アポロの盃』にはほとんど手放しで綴られていく。それは場所をローマに移したのちも変わらない。そして、ローマのパラッツォ・コンセルヴァトーリでは彼が少年時に出会ったあの運命的な一点、グイド・レーニの『聖セバスチァンの殉教』に対面するのである。

〈パラッツォ・コンセルヴァトーリでは、グイド・レニの「聖セバスチャン」を遂に眼前にした幸のほかにルウベンスやヴェロネーゼや、仏蘭西のプッサンの作品が私を感動させた。グイドオの「聖セバスチャン」の一つ隣にとなりに折衷派の師なるCarracciの「聖セバスチャン」があるので、門弟グイドオの耽美的個性がいっそうはっきりする〉

 ローマの三島がこのレーニの『聖セバスチァンの殉教』に加えて熱いまなざしを寄せたのは、ヴァチカン美術館で見たアンティノウスの彫像である。ローマ皇帝ハドリアヌスに仕えてエジプトを旅行中に謎の死を遂げたという、皇帝寵愛の美少年の立像と胸像に惹かれて、三島は滞在中に繰り返しその作品を見に訪れたばかりか、未完に終わったが、帰国早々にアンティノウスを主人公にした小戯曲「鷲ノ座」を書いた。
 「今日も恍惚としながら私の思うことは、希臘と羅馬とのこの二週間、これほど絶え間のない恍惚の連続感が、一生のうちに二度と訪れるであろうかということである」と記したこの日々が、27歳の三島由紀夫のその後の世界におそらく決定的な影響をもたらしていったのであろう。

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『アンティノウスの肖像』(部分、2世紀中ごろ、大理石、ローマ・ヴァチカン美術館)

 グイド・レーニの『聖セバスチァンの殉教』と『アンティノウス』の彫像との対面は、この旅で三島が自身のアイデンティティーを確かめたうえで作家としての歩みを進めるための根源的な経験であったようである。
 それは作品の造形に由来する芸術的な経験という以上に、その主題の来歴にさかのぼって自身の精神と肉体を対峙させた生命的な〈対話〉であった。
 ローマのディオクレティアヌス帝の下で密かにキリスト教を信仰していたがゆえに弓矢による死刑に処せられ、からくも永らえてのちにさらにむち打ちで殉教した「聖セバスチァン」。
 ローマ皇帝ハドリアヌスの寵愛を受けながら、随行先のエジプトのナイル川で謎の溺死を遂げたアンティノウス。
 いずれも情けを受けた主君に背くことによって、自らの命を犠牲にしてゆく若者の物語である。「エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚である」というフランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユの言葉をここに重ねてみれば、自ら「犠牲」サクリファイスの道を選んだ古代ローマの若者の運命の先には、割腹自殺という「自己犠牲」によって滾らせたエロティシズムの極みを達成したいと願い、そして果てた三島自身の最期が、ゆくりなく投影されているようにも読める。
 1952年5月7日、旅の終わりに再びヴァチカンのアンティノウスの胸像の前に立った彼は、こう記した。

〈私は今日、日本へかえる。さようなら、アンティノウスよ。われらの姿は精神に蝕まれ、すでに年老いて、君の絶美の姿に似るべくもないが、ねがわくばアンティノウスよ、わが作品をして、些かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを〉

かくして三島は、居心地の悪い〈戦後〉の泥濘から抜け出した。
                          =この項続く

◆標題図版 アテネの「ゼウスの宮殿」、オリュンピエイオンの柱頭 


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