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美の来歴⑮「ぼくには勇気がない」   柴崎信三

戦時下の名画「斉唱」の謎と〈貴公子〉小磯良平の屈託


  1960年代の後半、大学紛争が全国を覆っていたころの話である。東京・上野の東京芸大もその例外ではなかった。
  校舎の一角をヘルメット姿の学生たちが占拠し、大衆団交と称して教授陣の吊し上げが続いた。中心で学生の罵声に耐えていたのが小磯良平である。  在学中に帝展で特選、首席で卒業してフランスへ留学し、戦後華々しく迎えられた母校で、まさかこんな屈辱を味わおうとは。「もう終電がなくなるから」と檀上から立とうとする主任教授を、学生たちは力づくで阻んだ。
   ようやく紛争が下火になったころ、同僚だった野見山暁治は小磯に辞表を出した。教授会に顔を出さず、「石膏デッサンなどやめてしまえ」と公言する画家を大学は持て余した。争いごとが嫌いな小磯は慰留したが、本人の翻意はかなわなかった。
 「ぼくは勇気がないのです」と、辞めてゆく野見山に小磯は言った。

〈米国のリンドナーのような絵を、ぼくもやってみたい。だけど怖い。勇気がない〉                         

 「世間になにひとつ揉まれることのなかった生涯だから、この歯ぎしりも底抜けの優しさも当然といえるかもしれない」と野見山は回想している。
 旧三田(さんだ)藩の旧家に生まれた小磯は、藤島武二門下の俊秀として、若い日から人物画や群像画に抜きんでた力量を示した。
 モダニズムが漂う神戸のクリスチャンの家庭に育ち、自身も敬虔な信仰を持ち続けた。端正で優雅な筆触の原点は、留学中にルーブル美術館でヴェロネーゼの『カナの婚礼』から受けた群像画の感動にあったという。
 ほとんど順風に包まれた画業と人生に敢えて瑕瑾(かきん)を探れば、それは戦時下に描いた少なくない戦争画の存在である。
 藤田嗣治や宮本三郎らとともに、陸軍省の委嘱で中国大陸やジャワなどの戦地へ派遣され、従軍画家として描いた戦争記録画である。なかでも1941(昭和16)年の『娘子関(じょうしかん)を征(ゆ)く』は同年の聖戦美術展に出品され、翌年初の日本芸術院賞を受けた。
 戦闘の現実や前線の緊迫した場面を描いた作品ではない。中国大陸へ侵攻した日本の兵士たちが、荒れた山野を背景に粛々と任務についている。志気や戦意の高揚といった戦争宣伝絵画(プロパガンダ)の気配はほとんどない。
それでも、この作品は戦争を描いた群像画として戦時下の高い評価を得たがために、戦後の画家としての小磯の桎梏となった。

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図版◆小磯良平『娘子関を征く』(1941年、油彩、カンバス、東京国立近代美術館・無期限貸与作品) 

 自らの画集を編むにあたって「戦意高揚のために戦争画を描いたことは心が痛む」という理由から、小磯はこの作品を含めた戦争記録画の収録を拒んだ。作品自体も藤田嗣治の『アッツ島玉砕』などとともにGHQに没収され、長らく米国の地に置かれた。『娘子関を征く』が 「無期限貸与作品」という奇妙な名目で日本に返還され、東京国立近代美術館が所蔵するようになるのは戦後も30年を経た1970年代である。
 『娘子関を征く』と同じ1941年に、小磯は境涯を代表するもう一つの作品を発表している。楽譜を手にした制服姿の女生徒たちが裸足で合唱する姿を描いた『斉唱』である。
 画面の9人は2人のモデルを使ってさまざまなポーズをとらせ、それをもとに再構成している。清楚な制服姿の女性が、同じ顔を異なった方向へ向けているのは、そうした創作上の作為による。それにしても、裸足のままというのは何故なのだろう。
 小磯は欧州留学中にフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で見た15世紀の彫刻家、ルカ・デッラ・ロッビアの『カントリア』からこの作品の発想を得たという。
 西欧の宗教画の尺度(カノン)に照らせば、裸足の人間は神の前に捧げる無私の祈りの寓意(アレゴリー)である。それならば、裸足の女性たちが顔をそれぞれに向けて歌っているこの作品のモチーフに、画家が胸底に温めた時代に対する「祈り」を読み解くことができるのかもしれない。
 『斉唱』は当時小磯が絵画の指導で講師を務めていた神戸市の松陰高等女学校の生徒をモデルに起用した。同じ年に同校では校歌の発表会を行っており、女生徒たちを描いた校歌の譜面の表紙も小磯が担当している。
 偶然とはいえ、その校歌の作曲者は戦時期に「音楽挺身隊長」として戦意高揚の旗を振った作曲家の山田耕筰であった。小磯がこの作品に託したのは、祖国の運命への祈りであったのか、あるいは密かな時代への抵抗の意思表示であったのか。
 戦争画に対する戦後の「懺悔(ざんげ)」が示すように、戦時中の小磯の内面が戦争に引き裂かれていたことは、没後に見つかった友人への手紙にもうかがえる。

「戦争画も純粋芸術と称する絵も同じく多少とも病気にかかっている」  

「戦争美術のタイコをヂャンヂャンたたいても何もならない」

 敗戦の前年の12月末に画家の内田巖にあてた手紙では、戦争が破局へ向かう緊迫した時局への気遣いとも読める慎重な言い回しながら、戦争画への懐疑をのぞかせている。
 戦後の小磯は1971年に東京芸大教授を退官したのち、70歳の時に赤坂迎賓館の大ホール「朝日の間」を飾る大作の依頼を受け、『絵画』と『音楽』という一対の群像画を描いた。
 カンバスや楽器に囲まれた教室の若者たちをモデルにして、美神に祝福された青春の喜びを讃えるような、華やかな気品を伝える作品である。ここにはおそらく、画家自身が歩んだ芸術家としての豊饒な人生の記憶が映されているに違いない。
 芸大を去るころ、小磯はこんな回想を残している。

〈私が画家である事と教師である事とが中途半端な状態であるところに持って来て、私の生来の気の弱さと年齢の条件がかさなって当時の私を最低の自己嫌悪におとしいれていた毎日が憂鬱であった〉

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図版◆小磯良平『T嬢の像』(油彩、カンバス、1926年、兵庫県立美術館蔵) 

  戦時期にかかわった戦争画をめぐる自分の内なる「良心」との葛藤も、大学紛争で向き合った学生に対する管理者としての優柔不断も、すべては「ぼくは勇気がないのです」と告白したこの画壇の貴公子の「弱い心」がもたらしたものだったのか。
 23歳の時、帝展で特選となった『T嬢の像』という作品がある。幼馴染の遠縁の女性で、心を寄せながらついに結ばれることのなかったこの女性をモデルにした肖像の美しさは、見る者を陶然とさせる。
 芸術的な創造が社会的行為である以上、才能と機会に恵まれた芸術家でさえ、初心を貫くのはたやすくない。『斉唱』は芸術家にとって幸福とは何か、を問いかけているようでもある。

◆表題図版 小磯良平「斉唱」(1941年、カンバス、油彩、兵庫県立美術館蔵) 


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