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日本対ベトナム、私の痛恨事(3)/(5)

「行っていいんですか? いいんです!」

川平慈英さんが、のちに「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるW杯アジア予選(1997年)の時に言った言葉だ。

慈英さんは、私が大学生の頃に入っていたサッカーサークルの先輩にあたる。私は30年近く前に一度、東京・真田堀のグラウンドで一緒にプレーしたことがあるだけの薄いご縁だが、サークルのOB・OG名簿に一緒に名前が載っていることを勝手に誇りに思っている。

「ジョホールバルの歓喜」への歴史は、もちろんその4年前の「ドーハの悲劇」からつながっている。Jリーグ開幕と「ドーハの悲劇」から4年。ジョホールバルでの勝利で、日本が20世紀のうちに初めての出場権を得た。

「これでW杯に行けるんだよね。行っていいんだよね。もうロスタイム(*当時は「アディショナルタイム」とは言わなかった)にコーナーキックから失点して行けないとかないよね?」というサッカーファンの感情を表したのが、慈英さんの言葉だった。

あれから四半世紀が経った。ドーハもジョホールバルも、遠い歴史上の出来事になった。日本はW杯本大会に6大会連続で出場し、「出るのが当たり前」の状態で今回のアジア最終予選に臨んでいた。

その「当たり前」という感覚が、緊張感をなくさせる。しかし幸か不幸か、今になって思えば、今回のアジア最終予選はホームでの緒戦(オマーン戦)を落としたため、緊張感を高める効果があった。そして、3月24日のオーストラリア戦では、様々な悪条件、悪いジンクスなどが囁かれながらも、本大会出場を決めることができた。

私の緊張感は、そこで途切れてしまったのだろう。残る3月29日のベトナム戦、私はできる限りの準備をして臨んだわけではなかった。

選手でも代表スタッフでもJFAスタッフでもない私が、予選のゲームに「準備をして臨む」というのが、甚だおこがましいことは百も承知だ。それでも私は、「私が全力で臨んでいれば、あのベトナム戦は違う結果になっていた」と信じてやまない。サポーターは、選手たちとともに闘いに行くものだ。たとえそれが、テレビ観戦でも、ラジオやテキスト実況でも、私のように遠くハノイからベトナム国営放送で見る場合でもだ。

話はまた、昨年に遡る。

2021年11月、ハノイ・ミーディン国立競技場で、ベトナム対日本のゲームが行われた。伊東純也選手が先制点を挙げ、その後、幻の2点目(VARでノーゴールとなった)があったゲームだ。

それに先立って、10月中旬から、VFFはこのゲームを有観客でできるかどうか、有観客とする場合の条件などを文化スポーツ観光省、保健省、ハノイ市などと協議していた。ハノイでは9月下旬までロックダウンが続いていた。10月は、感染拡大がようやく小康状態になってロックダウンが解除されたばかり(飲食店の営業制限などは継続中)だったため、ベトナム政府は慎重な姿勢でいた。

最終的にVFFは、政府各機関から決定権を託されたハノイ市から、「人数制限あり(収容人数50%まで)、入場時に陰性証明とワクチン2回接種後2週間経過していることを示す接種証明書の提示が必要」という条件で、有観客での開催の承認を得た。実際のゲームがある日の3週間前のことだった。

当時、外国からベトナムに入国する人には、2週間の施設隔離が義務付けられていた。選手やスタッフはバブル方式で施設隔離を免除される(AFCによるホーム開催条件)。だが、日本からのサポーターは隔離を経なければ入国できず、また日本に帰国した際にも隔離があったため、事実上、スタジアムに駆けつけることは不可能だった。

私は、有観客と決まるや否や、PVFアカデミーを通してVFFのDeputy General Secretaryに、「ハノイ在住日本人のためのチケットの枠を取ってほしい」と要請した。
「500でも1,000でもいい。コロナ検査、専用ゲートまでの送迎、定められたエリアでの観戦をパッケージにして販売し、現地で混乱がないようにする」という提案だった。コロナ禍のもとで、感染防止策をとりながら双方のサポーターが混乱なく観戦できるようにするためだ。そして、日本からはサポーターが来られないのだから、できるだけ当地にいる日本人がまとまった形で、「12番目の選手」として観客席から声援を送ってほしいと考えたからだ。

VFFとしては、ホームで満員のベトナムサポーターを集めたい。しかし、収容人数の50%という制限がかかっている。日本サポーターは少ない方が良い。私からの要請に対して、「それなら、3月にある日本対ベトナム戦では、同じ数のベトナムサポーター向けのチケットの枠を設けてほしい」という極めてフェアな回答をしてきた。

ことはJFAマターになった。私は、JFA国際部、プロモーション部と連絡をとり、どうしても12人目の選手をミーディン国立競技場に送り込みたいこと、そのために私が企画していることを伝え、検討を打診した。同時に、ハノイ在住日本人コミュニティで、とりあえず150人程度、チケット購入希望をいただいた人の名簿を作成し、いつでも提出できるように準備した。

当時は連日奔走していたので、エピソードは山とあるが、端折っていうと、JFAプロモーション部はVFFと交渉しており、その後、VFFで日本サポーター向けのチケット販売窓口を設置することになった。つまり、私がパッケージ販売をする必要はなくなった(その頃にはコロナ感染者数が再び爆発的に増え始め、多くの当地在住日本人が外出を控えるようになったため、最終的にチケットは余ったと聞く)。

私にとって、何の利得もない行動だ。ただ、日本サポーターをスタジアムに送り込みたい。それが代表の力になるのだから。その一心で、PVFアカデミーからは「またMr. Shindoが何か言ってきた」と思われ、VFF、JFA、大使館からは「あんた、誰?」と思われながらも、私にできることを全力でやった。

私は、11月のベトナム戦で、12番目の選手として闘って、勝ちたかった。差し出がましいと思われても、何の得もなくても、自分ができることを精いっぱいやった。結果的に、私の行動は何の効果も生まなかった。それでも、自分なりにやれることをやったと思っている。そして、ゲームは1-0で日本が勝った。

3月29日の日本でのベトナム戦、ベトナムサポーターは一つのエリアにかたまっていたようだった。それが、JFAがVFFと協議して11月の時のお返しに設けた枠だったのかどうかは確認していない。その枠でチケットを購入した人であっても、そうでなくても、ベトナムサポーターに「声出し禁止」という観戦ルールを守ってもらえるように、私には事前にできることがあった。

もはや取返しのつかないことだ。

次の記事では、代表キャプテン・吉田麻也選手の思いについて記そう。