嘘つきは泥棒の始まり

「わー、ケンちゃんの腕に毛虫がついてるよ」
「え、怖いよ。取って取って」
「へへへ。ケンちゃんはびびりだなぁ。嘘だよー」
「あー、うそつきは泥棒の始まりなんだぞ!」


こうして俺は泥棒になった。


あの日、ケンちゃんに泥棒の始まりだと言われた瞬間から俺の頭上には泥棒という文字と、一という数字が浮かんでいた。
最初はその存在に気づかずに、夕暮れ迫るいつもの公園で、いつも通り五時のチャイムがなるまで遊んで、帰宅した。

「帰ったらうがいと手洗いをしなさいよー。」
母のその声に対し、分かってるよと不満そうに小さく返事し、洗面所に行った。
スイッチをつけると、暗い四十ワットほどの裸電球に明かりが灯った。
そこで鏡に反射する自分を見て初めて気が付いた。

「なに、この文字と数字」
鏡には、自分の顔だけでなく、頭上に泥棒という二文字とその横に数字の一が映っていた。

幼い俺は泥棒という漢字を読めなかった。
そんな俺が母にこの文字をどう読むのか聞くことは、至極当然の行動と言えた。

台所に向かうと、洗面所より少し明るい程度の電球で照らされた、母の少し丸まった背中があった。
その背中はいつ見ても、どこか儚げだった。それはこの暗い電球のせいだったのだろうか。
「ねぇ母さん。この文字なんて読むの?この頭の上の文字」
 俺は頭上を指差しながら、母のエプロンの裾を引っ張り聞いた。
 母がこちらを向くと同時に、土鍋からパチパチと水分がなくなった音が聞こえ始めた。鍋にかけていた火を止めながら母は怪訝な顔で俺を見て答えた。
 「ん?どれのことかしら。頭の上に文字なんてないわよ」
 「あるよ!これだよこれ!」
 俺は必死になって伝えた。きっと急に現れた得体のしれないものが怖かったのだろう。
 「どこにも何もないわよ。ほら、そんなことよりあんたも夕飯の支度手伝って。食卓に食器を並べておいてね」
 「母さん、ちゃんと見てよ」
 「はいはい、後で見てあげるから」


 小さなちゃぶ台には、裏返しの茶碗がすでに並べられていた。
 ふと音がした方向に目をやると、食卓の上の電球の周りに小さな蛾が飛んでいた。
 俺はタンスの上にあった母のお気に入りの手鏡を持ってきて、自分の頭上を映した。やはりそこには泥棒という文字と数字がうかんでいた。
 とにかく母にこのことを伝えるために、その文字を見よう見まねで近くにあったチラシの裏に鉛筆で書き込んだ。

「はーい、できたわよ。さ、食べましょう。あら、どうしたの手鏡なんか持って」
 「母さん、これ何て読むの?」
 「あら、あんた漢字かけるの?すごいじゃない」
 母はそういいながら暗号のような俺の汚い字を解読した。
 「どろぼうね。これがどうしたのよ」
 泥棒。その言葉は幼い俺でも何となく知っていた。そう、それが良い意味の言葉じゃないってことを。
 「あ、いや。別になんでもないよ。そんなことより今日ケンちゃんさ…」
 俺はすぐに話をそらした。母に怒られたくなかったんだと思う。焦りを隠すように話し続けた。きっと母は何か勘づいてたのかもしれない。今となってはそれを知る由はないが…。

 「ほら、先に寝てなさい。母さんはまだやることがあるから」
 「うん、おやすみ…」
 いつもは怖いはずの蚊帳の中だが、今日だけはこれがあって良かったと思った。蚊帳の中で俺は母にばれないようにしくしくと泣いた。
 「ケンちゃんのせいだ。ケンちゃんなんて嫌いだ」
 俺は泥棒になっちまった。それがとても怖かった俺はただただ泣いていた。

 次の日から早速異変が起き始めた。
 何かを盗みたくて仕方ないのだ。
 駄菓子屋に入ると、いつもは美味しそうなお菓子によだれを垂らす俺だが、今日は少し違った。
 簡単にお菓子を盗めそうだなという感情が先にきていたのだ。こんなことは初めてだった。
 少しの葛藤の間、俺は初めての盗みを働いた。

 快感だった。俺は幼くして性の快感を超える悦びを知ってしまったのだ。
 その日は一人で公園でお菓子を食べた。それが初めて自分の力で得た食料だった。

 帰り道、目の前をスーツを着た一人の男が歩いていた。後ろポケットには盗んでくださいと言わんばかりに、無防備に長い財布が入っていた。
 それを見るとまた無性に手が疼いた。そして、気が付けば小さな手に収まりきらないほど大きな財布を持っていたのだった。
 中にはお金が入っていた。高額の紙幣を見たことの無い俺でも、数字の桁を見るだけで、それが大金であろうことは容易に理解できた。
 その時、ふと幼い頭によぎった考えがあった。母にこれをあげれば喜ぶんじゃないか。
 俺は幼いながらに母が苦労していることを肌で感じていた。
 少しでも助けてあげたいと思った。
 俺は母の喜ぶ姿を想像するとワクワクを抑えきれなくなり、スキップしながら家に帰った。
 ボロアパートの扉を開けると、嗅ぎなれた味噌汁の匂いが俺を優しく包んだ。
 
「帰ったのー?帰ったらうがいと手洗いをしなさいよー」
 俺は洗面所には向かわず真っ先に母のもとへと向かった。

 「母さんこれ」

 「あら、なに。財布?あらー、誰か落としちゃったのね。やだ、けっこー入ってるじゃない。早く交番に届けにいくわよ、きっと落としている人も困っているわ」
 俺は少し困惑した。これは母さんのために取ってきたんだよ、誰にもバレないんだから貰っておこうよ。そんな言葉が喉から出ようとしてすぐに引っ込んだ。母は俺の手を取り、部屋の扉を開けた。


 「本当にありがとうございます。助かりました」

 「ね、いいことした後は気分がいいね。あんたが財布を拾ってくれたおかげよ」
 空には一番星が出ていた。沈みきった太陽は最後の足掻きのように地平線を紺色に染めていた。

 母は、電柱の線を引っ張って、電灯に灯りを灯した。
 「この電球もよく盗む人がいるみたいだけど、バカよね。家庭で使えっこないのに。さ、お腹減ったでしょう、家まで競争よ」
 「あ、待ってよ母さん」

 母は正義感溢れる人間だった。それゆえに、この世の中は少しばかり生きにくかったかもしれない。
 俺が中学生の時に母は死んだ。なぜ死んでしまったのか、いまだに分かっていない。覚えているのは、沈みゆく夕日に焼かれた夕焼け空が、やけに恐ろしくて、太陽が全てを見透かす黄昏時に、母は死んでしまったということくらいだ。
 俺はあの財布を盗んだ日から、一日も盗みを忘れた日などない。必ず毎日何かしらを盗んでいた。
 頭上の文字は、泥棒から盗賊、怪盗へと進化を遂げて、今では大怪盗になった。あの頃はよく分かっていなかった数字、今では盗みレベルと呼んでいるが、とうとう九百を超えた。比較対象がないのが残念だが、きっとかなりレベルは高い方だと思う。
 大怪盗になってからはあらゆるものが盗めるようになった。物だけじゃなく、その他にも色々と。美人の心を奪うのは一時期ハマってしまった。誰もが振り向くような美人が心奪われる瞬間がとても快感だったのさ。その快感と同時に、そんなことにハマるなんて、どうやら俺もまだ普通の男なんだと少し安心したことを覚えている。

 光化学スモッグや土地の異常な程の価格高騰。急激な文明の利器の発展に、核家族化の始まり。至る所にあった空き地に秘密基地。野良犬に野良猫。蚊帳の中のお化け。木の棒が剣や銃に早変わりして、ジャングルジムが一気に宇宙飛行船になっちまうあの不思議な時代。そして人々の笑顔、笑顔、笑顔。あんな時代だったから俺はこの不思議な力を手に入れたのかもしれない。

 だが、いくら大怪盗でもできないことはある。それは、盗むことはできても、取り戻すことはできないってことだ。そう、幼い頃母と過ごしたかけがえの無い時間は、いくら俺でも盗むことは不可能だったんだ。誰もが時間を取り戻すことはできない。

 だけど、俺はまだ諦めていない。盗みレベルは今も上がり続けている。レベルを上げ続けることでいつかまた母に会えるんじゃないか。そう信じてレベルを上げている。しかし、レベルは、高くなるにつれてそんじょそこらの物を盗んだだけじゃ上がらないようになっている。今じゃ、誰かの一番大切なものを奪い続けない限り上がらないんだ。全く困ったもんだよ。

 何はともあれ、今ではケンちゃんにも感謝している。
 影が伸び切ったあの夕暮れ時の公園で過ごしたかけがえのない時間も、忘れちゃあいない。

 なんて、まぁ、取り止めのない話が続いちまったが、今の所そんな感じで俺はなんとかこの世を生きている。
 おっと、こうしている間にも盗みレベルが上がったようだ。大怪盗の次はとうとう神にでもなるんじゃないだろうか。

 さて、と…。





 

 ん?あれ、まだここにいるのかい?
 君だよ君。この取り止めのない物語を読んでいる君。
 まだ気づかないのかい?










 

 君の人生で一番大切な君の時間は、今も俺に奪われ続けているぞ?
 
 

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