黒、そこに蠢く

 「何でまだおるん?」

 台所の光を付けると、奴はまだそこにいた。
 おかしい。
 季節はすでにその存在を許さない時を迎えていた。

 木枯らしで発生したつむじ風は枯れ葉に夢を見させるように木の葉を舞い上がらせて、晩秋の空気に、誰もがふと感情的になる。
 洗濯物がしっかり乾いているのか判別がつきにくくなるし、昼と朝の気温差が約十度あって、服装に困る季節だけれど、僕はこの季節が大好きだ。もちろん、その理由の中の一つに君が姿を現わさないこともある。

 しかし、君は僕の目の前に現れた。僕は我が目を疑った。たまに視界に現れる何かよく分からないミミズみたいなモヤモヤっとした物体かと思った。単純に目にゴミが入ったのかとも。

 しかし、僕の楽観的予測はいとも簡単に裏切られた。確かに目の前にいるのは、憎き存在だった。

 「いやいや、おかしいやん」

 僕は目の前の光景をまだ信じられずにいた。もう師走の序章は始まっているはずだ。僕は壁にかけた世界遺産カレンダーに目を向ける。十二月の景色は逢魔時のモスタル旧市街にある古い橋だった。人生で一度は行ってみたい。そして一度行ったら必ずまたそこへ足を運びたくなるだろう、そう思わせられる程、僕はその景色が大好きだった。
 そんな素晴らしい景色が飾られてるせいで、僕はあいつのことを一瞬忘れて、それに見入ってしまった。気付いたときにはもう遅かった。
 ハッとなり、首を勢いよく後ろに向けても、もう奴はいなかった。
 「あー、やってもた…」

 一度見失うと、奴を見つけるのは困難だ。僕は今までの人生で嫌というほどこれを思いしらされた。全く、習うより慣れよとはこのことじゃあ無いのか?僕はそんな的外れなことを考えながら視界全体に神経を行き渡らせた。
 奴を倒さない限り、この家に安息の時は訪れない。自分にそう言い聞かせながら、台所を見つめ続けた。

 一分程経過しただろうか。奴は一向に姿を見せない。全く、願ってもない時には飛んで現れるくせして、いざ探すとどこにも姿を表さない。探し物はいつの時代もそういう摂理なのだろうか。僕は小さくため息をつきながら、探すのをやめた。まるであいつに笑われているような気がしたからだ。

 「まぁ、そのうち現れるだろう」

 僕は諦めたように見せかけて、リビングへと向かった。もう一度カレンダーに目を向ける。やはり今は十二月。そして来週は僕の誕生日だ。大人になると、どうも自分の生まれた日付に疎くなるらしい。多分、昔はその日を待ち遠しくしていた筈だけれど…。僕は大人になってしまった自分を少し悲しく感じて、カレンダーの景色をもう一度見た。
 大人になっても、行きたい所に未だに行っていないなんて、おかしいことだ。
 僕はフッと笑いながら、カレンダーから目を逸らし、ソファへと向かう。もう奴のことは忘れていた。

 「あっ」

 そう言えば。
 声にならない声を口から出す。コーヒーを淹れていたことをすっかり忘れていたのだ。全く、あいつは人の記憶を奪う能力でもあるのか?またあいつのことを思い出して、周りを見渡す。しかし、依然として奴は何処にも現れなかった。

 コーヒーを淹れたタンブラーを手に取り、淹れ終えたばかりで湯気のたつ豆の匂いを嗅ぐ。

 「ほんまこれ合法麻薬やで」

 そう言いながら、漂う香りを余すことなく鼻に注ぎ込む。それは脳を直接刺激して、僕をキマらせた。
 タンブラーを手に持ち、もう一度ソファへ向かう。今度こそ忘れ物はないなと自分に問いながら。

 土曜日。
 会社員にとって日頃の疲れを癒すために用意された一時の安息日。僕は惰性を貪ろうと、目の前に用意されたコーヒー、チョコ、よく分からないエッセイ本を用意して、本を手に取った。

 少し本を読み進める。しかし、何故か今はこれを読む時間ではないような気がして、すぐに本を閉じようとする。栞が近くに無いことに気付き、少しため息をつきながらそのまま本を閉じる。もうすでに、そのページを見ていたかなんて忘れてしまったけれど、未来の僕なら思い出すだろう。そう信じて、睡魔に誘われるままに夢の世界へと堕ちていった。

 「おい、こら。よくも俺の仲間たちを大勢殺してくれたな。え?聞いとんか」

 ん、誰だよ。静かに寝かせてくれよ。

 「お前な、そんだけ殺生してようそんな幸せそうに涎垂らしてねれるな。なんや、猟奇殺人犯か」

 うるさいな…。一体何なんだ。もう!

 「う…、ここは」

 目を細めにして開けると、そこは、古い石畳に石でできた建物が連なっている街だった。

 「やっと気ぃついたか。お前な、ほんま一言物申させてもらうで」

 「誰やねん、お前…」

 「誰やねんて…、君ほんまよー言うたな!心外やわ、さっきまで俺見て何でまだおんねん言うたがな」

 目の前に急に現れた、どこかキュートな目をしている黒い羽のある生き物は、なぜか怒っている様子だったが、僕には何の心当たりもなかった。

 「そんなん言うたっけ。そんなことより僕も空飛ぼかな」

 「こらこらこら、何夢を堪能しようとしてんねん、人の話聞かんかい。…、いや、わて人ちゃうわ、そんな恐ろしい生物と一緒にせんといて。…あと、何か言うて」

 「いや、何か一人でボケツッコミしよるから、邪魔したら悪いかなって」

 「君がそうさせてんねんで」

 「あー、あかん、空からまた太陽が落ちてきよる…」

 空を見上げると、いつもと同じように黒い太陽が地上へ何とか降りてこようと必死にもがいていた。
 空は虹色のステンドガラスでできているから、太陽はどうしてもそのガラスを割ることができないで右往左往していた。
 それを見かねた月が…。

 「ちょ、ほんまええ加減にして。あかんて、夢でナレーション流れ出したらやばいて、これ太陽落ちてきて、ハッて目覚めて『夢か』ってなるやつやん。頼む、まだ起きようとせんといて。多分ソファで寝転んだ時の体勢が悪かったから、体がすぐ起きようとしとんねん」

 「さっきから何ゆーとん?」

 「あ、あかんわ…」

 目の前のキュートな黒い生き物は、羽を羽ばたかせながら、小さく呟いた。
 それにしても美しい景色だ。街に囲まれるように流れる決して大きくもない碧黒い川が見事にこの景色に溶け込んでいる。川が山の頂上に登ろうとする様は、まるで天に帰って行く龍のようだ。

 山の後ろから差し込む太陽が、この街を橙と黄の間の色に染め上げる。街の方を振り返ると、窓ガラスの付いてない窓が並んだ石の建物が所狭しと並んでいる。その間に一本だけ掛けられたアーチ状の橋は、今にも崩れそうなほど朽ちているけれど、それがまた美しい。そうだ、これは映像に残しておくべきだ。そう思い僕は両手の親指と人差し指をカメラの様な形に見立てた。

 「カシャ」

 「何しとんねん」

 「いや、写真撮っとかなと思って」

 「あぁ、なるほどな。って君、僕の話聞いてないやろ」

 その瞬間、街全体を覆うほどの影が街の奥の方からニュッと現れた。
 そこには、富士山程の背丈のある、超巨大な毛だらけの巨人がいた。

 「うお、何やあれ」

 「石人神様や」

 「しゃくじんじん?変な名前やな」

 「いつもこの街を守ってくれてるねん」

 「いや、自分この街の住人やないやん」

 「さて、行くよ」

 「ちょっと…」

 目の前のパタクロの背中に乗ろうとすると、パタクロが驚いた顔で体を仰反った。

 「何してんの」

 「パタクロ、もう行かないと」

 「待って、勝手にナレーションで名前付けんといて」

 「パタクロ、ほら、あそこであいつが覗いてる」

 建物の影から、こちらをじっと見てくるチェックのスーツを着た紳士がいる。ひょこっと顔だけ見せている紳士は杖を地面にコンコンと突き、この街の地面にある石畳の石をくるくると回し始めた。そして、それらは呼応する様に周りに広がり、一気に街全体の地面の石が一つ一つ不規則に、ランダムに回りはじめた。

 「ほら、パタクロ!」

 「あかん、この子自分まで見失ってる」

 僕はパタクロの背中に乗る。しかし、もう遅かった。
 地面の奥底に秘められていた、秘境の森林から、突如蔓が伸びてきてパタクロの足を引っ張ったのだ。

 「ダメだ、このままだとパタクロの足が」

 「まぁ、一本くらいかまへんよ」

 パタクロはそう言いながら構わず空の方向へ向かった。
 ブチっ…。
 嫌な音が響いた。ふと下を見るとパタクロの足が千切れていたのだ。

 「なんでそっち行くの?」

 空に広がる森林に向かっている意味が分からなかった。

 「ちょっと、夢自由すぎひん?」

 パタクロは疲れたような呆れたような目をして言った。

 「このままレム睡眠に入られても困る。もう、このまま話させてもらうで」

 空と大地から、一気に蔓が伸びてくる。それらは僕達を捕らえようと必死に追いかけてくる。

 「あんな…」

 「まずはここで生き抜いてから話そう!」

 「あー…ほんまやな。多分これ、死んだら目覚めるやつやもんな…、疲れた」

 パタクロは、羽を今まで以上にバタつかせて、蔓の合間と合間を縫うようにして飛んだ。

 「くそ、あかん、どこまでも付いてくるやん…」

 蔓も負けじとスピードを上げて追ってくる。パタクロのスタミナが限界なのか、スピードがみるみる落ちていった。

 「あかん、捕まる…!」

 その時、目の前から急に巨大な両腕が視界の両端にスライドする様に現れた。

 「え?」

 「え?」

 目の前を見ると、石人神様が腕を伸ばし、空と大地から迫り来る蔓を一気に払ったのだ。

 「石人神様…」

 「しゃくじんじん、やるやん」

 みるみる内に蔓は消えていき、やがてさっきまでの危機的状況は嵐のように去って、僕達の周りには静寂が訪れた。
 僕達は元いた高原に建つ、六角形でできた教会に降り立った。天井のステンドガラスをすり抜ける。中に入った瞬間、空にかけられた、大きなベルが、僕達を迎え入れるようにガラーン…と鳴り響いた。

 「メリークリスマス!」

 「そっか、今日クリスマスか」

 「いや、ちゃうで」

 「いや、サンタおるやん」

 教会の中は大きな街の広場のようになっていて、その中心にこれ以上ない程飾り付けされた大きなモミの木があった。

 「何でもええけど、急に自分取り戻す感じやめてくれへん?」

 「何がやねん」

 「まぁ、ええわ…。ちなみに僕のこの話し方も君がきめてんねんで」

 「そーなん?」

 「うん」

 「さあ、こっちへおいで、君の好きなクリスマスの街はここにあるよ」

 「クリスマスの街ってここにあったんやな。ずっと探しとってん」

 「こんだけ街のイルミネーションすごいのに、夜空にも満点の星空て…」

 クロは一息置いて言った。
 「めっちゃ綺麗やな…」

 「ほんまな…、俺らに羽があったら良かったのにな。もし羽があったら空高く飛んで、この街の美しさを遠目で感じれるのにな。やっぱ中におるだけやったら見えへんもんがあると思うねん」

 「それはそーやな。遠くから見な分からへんもんってあるもんな…」

 周りで子供達が、サンタの格好をしてはしゃいでいる。手には大きなステッキや靴下を持っている。中に沢山のお菓子を詰めて。
 モミの木を中心として四方に伸びる道と光のアーチが少し続き、その奥は店が立ち並ぶ細い路地で入り乱れていた。しかし、何処もイルミネーションで彩られて、今日だけは、この街の何処に行っても温かな光が僕達を包み込んでくれる。そんな確信があった。

 「あ!」

 足元にいた子供が空を見て叫ぶ。ダイヤが散りばめられたような真っ暗な空の彼方からシャシャンシャンという音と共に、とても大きな角を生やした獣がソリを引いて現れた。
 それはみるみる内にこっちに近づいてきて、やがてモミの木の天辺の上空で浮遊したまま停止した。

 「メリークリスマス!すまないが、今日は君達に構っている暇はないんだ。その偽物を捕まえないとね」

 四匹いたトナカイのうちの一匹が急に地上にいたサンタに飛びかかり頭ごと噛みついてソリに合った大きな白い袋にプッと吐き出した。

 「サンタは地上に降り立ったら死ぬのさ、はははは。では、ハッピーメリークリスマァァァァァァス」

 トナカイが空を蹴る度にシャンシャンと音がなる。一行はまたみるみる内に小さくなり、やがて真っ暗な空に浮かぶ星の一つとなった。

 「あかん、あぶな!」

 クロが急に叫び出した。その瞬間、クロの背中から羽が生えてきた。

 「僕も自分のこと忘れよったわ」

 「クロも羽もっとったんやな」

 僕の背中からも 青と黒のコンストラクトが美しい羽が生える。

 「ほな、いこか」

 「いや、何処にやねん。もーええわ」

 「ありがとうございましたー」

 「話聞いて、もー時間ないわ。あんな、もー僕らを殺すのやめてほしいねん」

 「…?」

 「そらそーなるわ、そーなると思う、何のことゆーてんのか分からんやろ」

 「ほんまに何ゆーてんの?」

 「とにかく僕らを殺さんといてほしい。起きたら分かる。もー僕も辛いねん。これ以上仲間とか家族が無慈悲な洗礼を受けて死んでいくのが。だってなんも悪いことしてへんもん」

 クロは必死に僕に語りかける。これは只事じゃないことがわかり、クロの目を見た。

 「俺は誰も殺してへんで」

 「いや、さっきも僕を殺そうとした」

 「俺がクロを?」

 さっきまでの煌びやかな街の灯りが全ておちて、周りは真っ暗闇に包まれる。闇の中で吹く風はいつもより冷たく感じた。

 「人は話し合いをしようとせーへん。だからしゃーなし僕は君の夢に登場した」

 「君の正体はなんなの…?」

 「君らは僕らをこう呼ぶ。小蝿と」

 「こばえ…」

 僕は一瞬、こばえが何か分からなかった。初めて聞く単語のようにも思えた。

 「こばえって…、あの小蝿?」

 「そう、さっき君が殺そうとしてた小蝿や」

 寒いはずの暗闇で、額から一筋の汗が流れる。クロの姿が徐々に毛むくじゃらの大きな虫の姿に変わっていった。

 「うお…」

 「見覚え…あるやろ?」

 「いや、そんなキモいと思ってなかったわ」

 「めっちゃ言うやん…」

 「確かに、俺は君ら小蝿の気持ち考えなさすぎたんかな…」

 「ええねん、分かってくれたらええやで…。とりあえず君がそんな考えになってくれたことがほんまに嬉しいわ」

 小蝿は嬉しそうに、大きすぎる目を涙を拭うように擦るジェスチャーをした。

 「でも、それやったら僕の家やのーてええやん、どっか他のとこで繁栄してや。ウジムシとかめっちゃキモいねん」

 「あー、それ言うてまうかー…。それ、自分の子供キモい言われてんのと一緒やからな、もーさっきまでの感動返してくれやー、何もわかってへんやん」

 目の前の大きな小蝿は見るからにガッカリしたように俯いた。

 「そもそもな、あそこ、僕らの土地やってんで。そこに君らが無理やりあんなでかい建造物建てたんやんか。僕らは断固反対を掲げて話し合いを希望したのに、全然聞いてくれへんし」

 「僕に言われてもなぁ…」

 二人の間に刹那静寂が訪れる。二人は目を合わせたまま、その間何も言葉を発さなかった。

 「…。まぁわかった。とにかく僕らもこの土地から出ていくようにとか、色々持ち帰って会議させてもらうわ。せめてそれまでは一匹も殺さんといて。そうなったらさすがに僕らも黙ってられへんからね」

 「黙ってられへんって?」

 「それはもう武力の行使やで、戦争の始まりや」

 「わかった。とにかく今はやめとくわ。でもその間ぷんぷん飛び回るのやめてな」

 「わかった」

 小蝿は少し頷いて、真っ暗な空間の上を見て言った。

 「まぁ、今日はここにきて話せてよかったわ…。僕はもう行きます。約束は守ってね。あ、それと…」

 「ん?」

 小蝿が飛び立とうとした瞬間思い出したように振り返り、僕に言った。

 「たまには鼻毛処理しーや。ぼうぼうで入るの苦労したわ」

 「え?」

 瞬間、小蝿は飛び立ち、すぐに姿を消した。

 今まで話し合っていた空間に歪みが生じてきた。この感覚を僕は知っている。そう、これは夢だと理解してしまった瞬間に訪れる、目覚め。もうすぐ僕は…。
 
 閉じた瞼の向こう側の世界が眩しい。それは朝日のように気持ちの良い眩しさではなく、少し不快な明るさだった。

 寝返りを打つ。すこし冷えた体温をあげるように体がブルっと震える。と、同時に急に何かが湧き上がってきた。

 「ハッハッハッ…、ハックション!」

 それは、くしゃみの予兆だった。くしゃみと同時に、鼻水もでてきてしまった。こうなると起きざるを得ない。僕はだるそうに起き上がり、リビングに置いてあったティッシュボックスに手を伸ばす。そこから抜く枚数はいつも二枚だ。それで思い切り鼻をかむ。思った以上に調子が悪いのか、鼻水が何かから僕を守るように大量にでてきた。かんだ後を見ると、黒い大きなゴミのようなものがでてきた。

 そして、僕達の戦いは始まった。

 「ねぇ、起きて。家の中に変なものがあるんだけど…」

 日曜日の朝。異変は突如として現れた。

 「もうちょっと、寝たいねんけど」

 「いや、本当に変なモノがあってリビングに行けないの」

 この世の中には変なモノが腐るほどある。むしろ無い方がおかしいだろう?
 僕は心の中でテレパシーを伝えるように呟く。どうしても僕は僕に寝ていてほしいようだ。

 「はやく!」

 「はい!」

 彼女の声が寝室に響く。同時に僕の上に覆いかぶさっていた布団がバッと音を立てて羽ばたく。鶴の一声という単語が頭を占領する。

 「なになに、変なもんってなんなん?」

 僕は開いている寝室の扉からいつものようにリビングへ向かう廊下へと出る。

 すると、確かに変なモノはそこにあった。得体の知れない、何でできているのかも分からない、白い要塞のようなモノが。

 「あれ、なに?また何か買ったの?」

 「いや、流石の俺でもあんな変なモノ買わへん…」

 背丈は一メートルない程だろうか。腰あたりまでそびえる小さな要塞は精巧にできたミニチュアの城のようだった。

 「ん?なんか出てきたけど…」

 城に至る所にある、小さな穴から一匹の虫が飛んできた。そして僕達の目の前にピタッと止まり、ちょこまかと動き、戻っていった。

 「何が起こってるの?」

 「いや、俺も分からん…」
 ちょこまかと動いていた小蝿が要塞の中へ入る。
 そして、入れ替わるようにいくつかの黒い点が出てきた。
 僕達は今の起きている状況についていけないまま見ていると、何匹かの小蝿から一斉に何かが僕達に向かって発射された。

 「痛っ」

 突然、彼女が叫んだ。少し遅れて、僕の腕にも強烈な痛みが走った。

 「何、この痛み」

 腕を見ると一筋の赤い線が腕をながれていくのが見えた。

 「やばい、あの弾に当たったらあかん!」

 パッと横を見ると、既に彼女の額から幾つもの、血が流れ、目は虚になっていた。

 「え」

 その間にも、相手からは弾丸が放たれ続け、倒れ行く彼女を抱き抱えることも叶わず、寝室へ逃げ込んだ。

 「はぁ、あー、やばい、ほんまにやばい」

 時の流れに置いて行かれたように、この状況に頭がついて行かない。僕は今何をしているのか。今何が起こっているのか。彼女は本当に死んでしまったのか。
 鼓膜が張り裂けそうなくらいの爆音で鼓動がなり続ける。目の前に見えるのは、さっきまで二人が夢を見ていたはずのベットだ。窓から差し込むまだ新鮮な光が照らす寝室がやけに美しく見えた。
 何故、こっちの部屋に入ってこないのだろうか。僕はそのことが急に奇妙に思えてきた。隙間だらけのこの部屋だ。あれだけ小さい体なら容易にこの部屋に入り込み僕を殺せるはずだ。
 本当に殺したければ…。
 開けるとすぐに銃撃が僕を襲うかも知れない。もし、そうなると、僕はひとたまりもなく、寝室の扉と廊下の境目でこの一生を終えることになるだろう。

 「まぁ人間死ぬために生きてるみたいなもんやん?」

 過去に自分が言い放った言葉が海馬から解き放たれる。いざ死を前にすると、人は生きる為に脳をフル回転させて生きようと思うモノなのだなと思う。自分の手には、いつの間にか寝室のクローゼットの中に置いてあったアイロン台と、サーキュレーターがあった。
 頭をフル回転して手に取った二つを見て、僕は微笑む。一体自分は何をしているのだろうかと。
 扉のすぐ下にあるコンセントにサーキュレーターの線を接続する。準備は万端だ。

 「スゥー…ハァー…」

 大きく静かに深呼吸する。勝負は一瞬。頭の中でシュミレーションが繰り返される。定まらない視点が、脳を回転させている何よりの証拠だった。
 よし。
 心の中で呟く。
 瞬間、ドアを勢いよく少しだけ開き、サーキュレーターの風速を強にして外に向かって風を起こす。少し空いた隙間は、アイロン台で防ぎ、弾が中に入ってこないように押さえつけた。自分の身をアイロン台の後ろに隠しながらサーキュレーターを色んな方向に向けて、隈なく敵を風で飛ばすようにした。
 三十秒程経過しただろうか。あまりの手応えの無さと、静寂に違和感を感じてアイロン台とサーキュレーターの間にできた小さな隙間から先を覗く。
 そこには、先程僕達を攻撃してきた小さな忌まわしい虫達の姿はなく、あるのは白い小さな要塞だけだった。
 しかし、気を抜いてはいけない。奴らは要塞の中に立て篭もり、僕を待ち伏せている可能性がある。奴らはすでに人間と同じ程度の頭脳を持っていると考えて行動する方が良い。
 ここからは駆け引きの勝負だ…。
 コンセントに挿しっぱなしの携帯の充電器を引き抜き、扉の隙間からできる限りの力を込めて要塞に投げる。充電器は見事に要塞に命中して、一部分が崩れ落ちた。

 「ポパイのおかげやな…」

 母によく聞かされた、二歳の頃にポパイという体操教室に行っていた話を思い出す。もちろん記憶はないが、自分の運動神経の基礎はそこで培われたのだろうと、昔から信じて疑わなかった。そしてその頃の努力が今身を結び自分の身を助けようとしている。と、自分勝手に考えてる自分に少し笑う。否、それは恐怖から自分の身を守るための笑いかも知れなかったが、その真偽はどうでもよかった。

 「何も、でてこーへんな…」

 一分ほど待って要塞から何も音沙汰がないのが逆に不安になる。
 飛び出して、一気に要塞を破壊するか…?
 脳裏にそんな考えがよぎる。今のこの状況について何も分からないことが一番怖かった。その恐怖がさらに僕を後押しする。

 「よし…」

 意を決したように呟き、サーキュレーターとアイロン台をぎゅっと握りしめる。
 また、頭の中でシミュレーションが繰り返される。
 アイロン台で我が身を守りながら一気に要塞まで駆け抜けて、サーキュレーターで思い切り叩き壊す。叩き、叩き、叩き、叩き壊す。もはや繰り返す価値もないようなシミュレーションが刹那の間に何回も繰り返された。
 気が付けば、僕は扉を思い切り開けて、要塞へ向かっていた。出てすぐにアイロン台が邪魔で前が見えないことが分かり、アイロン台を要塞に向かって放り投げた。
 アイロン台の当たった要塞の一部分が崩壊すると共に、思い切り振りかぶられたサーキュレーターが要塞を粉砕した。一叩きで僕はその手を止めた。
 そこには、虫一匹いなかったのだった。さっきの出来事が嘘のように。

 「え…」

 戸惑いながら、粉砕された要塞の残った一階部分を慎重に覗き込む。やはり、そこはもぬけの殻だった。
 その時、何処からともなく、全ての終わりを告げるような爆音が一瞬この世界を支配した。

 「あ、やば…」

 驚かされるのが大嫌いな僕はとにかくその場でピタッと止まった。片方の腕が要塞の中に入ってしまっている事も気にできない程にその驚きを隠せなかった。
 一度鳴り響いた爆音の余韻が冷めやらぬままに、二度目の爆音が鳴り響く。
 何かが起きている。そしてそれは只事では無いことも。

 「とりあえず、外に…」

 僕は不安を隠せないまま、四つん這いで外に出た。手に要塞の破片が幾つか刺さっていたが、その痛みを感じる余裕すらなかった。
 家の扉をそっと開ける。目の前に迫る壁のせいで外の景色が一部分しか見えない。しかし、その一部分で全てが分かった。この世界はもう終焉を迎えていることが。
 壁の上を見ると空は赤黒く、不自然な形の雲が見えた。焦った僕は勢いよく立ち上がり、壁の先の外の世界を見る。
 その世界は、今まで僕が暮らしてきたはずのこの国の姿は無く、赤黒く、そして重くのしかかる空と、瓦礫まみれの大地がその空間を占領していた。

 「何が起こってんねん…」

 遠くの方を見ると、とてつもない爆発が起きているが見えた。そして、その後に爆風と爆音が遅れて、僕を襲った。
 爆風は、僕を家の扉へと叩きつけた。衝撃に痛み感じる暇もなく、また立ち上がり、外を見た。
 目の前には紅に染まる美しい一本の三角錐の建造物が見える。何かの転換期が訪れているこの時に、悠然とそこに聳え立つその塔は内包する美を抑えきれないようで、ただただ美しく見えた。どうしても、その塔から目を離すことができなかった。遠くの方で、また光が迸るのが見えた。
 塔をじっと見つめていると、視界の隅で何かが動くのが見えた。まるで、突然目の前に現れる小蝿のように。
 やっと塔から目を離すことのできた僕は、空を舞うその物体をじっと見つめる。そして、その正体は海馬に衝撃をもたらした。
 あ、そういえば…。僕は心の中で呟く。

 「でも、なんで?」

 そこには、さっき死んだはずの彼女が空を舞いながらこの惨劇を楽しんでいるかのように見えた。

 「おいおいおい、どーゆことやねん」 

 僕は意味が分からないまま、彼女を見つめる。何故さっき、彼女の死体が廊下に居ないことに気が付かなかったのだろうか。
 彼女の舞に呼応する様に世界が崩壊していく。微笑みながら踊る彼女はまるで終末の世界の天女のように、この世界の紅一点となっていた。
 目の前の赤い塔と、このマンションだけは何故か潰れない。まるで自分都合に世界が進んでいるように。

 「そうだよ」

 突如目の前に現れた天女が僕に言う。世界が回る。ぐるぐるぐると回る。何かに吸い込まれるように。彼方へ舞い込むように。







 
 
「やっと気付いたか!ほら、くるで!」
 気がつくと、目の前には巨人が僕らに向かい両腕を振り上げていた。
 「ぐ、巨人のくせにほんま動きが早いわ…」
 瞬間、爆音が鳴り響く。僕は意味がわからないまま、ぼーっと目の前を眺めていた。
 腕と脚がこの生き物の毛で固定されている。きっと、僕を落とさないよう縛ってくれていたのだろう。
 巨人の合わされた両手の下に入り込み、巨人の視界に入らないように巨人の方に向かう。

 「自分、あいつの振り上げた腕の風で飛ばされて頭打って気絶しとったんやで」

 そうや…。

 「思い出した。ごめん、戦い中に。迷惑かけたわ」

 「そんなんええ。はよ、片付けるで」

 「おう」

 僕は慣れた手つきで腰にある剣を取り出し、その腕をだらんと垂らしながら目を閉じた。

 「いくで」

 「うん」

 生きるためには戦い続けるしかない。この世界は非情で残酷で…、とても美しい。
 巨人の手は幾度となく自分達に目掛けて飛んでくる。向けってくる腕の風圧に何度も吹き飛ばされながらも、僕たちは迫り来る巨人に立ち向かった。

 「僕たちが生きていることに何の意味があるのだろうか」

 ふと、僕は小さく呟く。

 答えなんてないよ。どこか遠くで誰かがそう答えた。
 そう、分かっている。それでも僕達は進み続けるしかない。きっと待つ、希望の光に満ちたみらっ…。



 「殺したで!ほら、片手で」
 「おー、さすがだね!」
 「ほんま、しつこい小蝿やったわ」
 

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