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アカシアの雨 第三話「調査2」

調査2

 火曜日は、朝から宮下公園の事件で持ち切りだった。
 宮下公園で起こった暴行事件は、八王子駅近くの塾の男性講師が、イチョウの木の下で刺傷されるというものだった。幸い男性は命に別状はないらしい。
 その第一報は、次の日の朝七時に掛かってきた藤波からもたらされた。
 寝ていたところを着信音で起こされた波瑠は、寝起きのぼんやりした頭で発信者の名前を確認し、目を見張った。慌てて咳ばらいをしてから電話に出る。

「……もしもし」
「水城先生、朝早くにすみません。睡眠中でしたか?」
 わかっているなら指摘しないデリカシーを持ってほしいと思いつつ、答える。
「いえ、大丈夫です」
 この時間に掛けてくるということは、何かあったのだろう。
「それよりどうしましたか?」
「ええ、それが……水城先生は昨日、イチョウは宮下公園にある木だとおっしゃいましたよね」
 それを聞いた波瑠は、嫌な予感で心臓が大きく跳ねた。確かに、場所が特定されたことは伝えたばかりだった。

「……はい、それが?」
「昨日夜、十時ごろですが、パトカーがかなり北方面に向かっていたようなので、心配になって確認してみたのですが、傷害事件が発生したようだと自治体の会長から連絡がありました。……場所は宮下公園だと。念のため警察にも確認してみたのですが、あまり詳しいことは話してもらえませんでした。でも、被害者は成人男性で、場所はイチョウの木の下ということは、確かなようです」
「イチョウの木の下……」

「じきにニュースになるかもしれません。朝刊の地域版には小さくですが載っていました……。ポスターは拡散されていますし騒ぎにする生徒がいるかもしれませんので、朝早くですみませんが、先にお伝えしました」
「そうですね、聞いておいてよかったです。ありがとうございます」
「しかし、これはどういうことでしょうか……。まさか、傷害事件が起こるなんて」
 弱り切った声で藤波がつぶやいた。無理もない。波瑠も、まさか突き止めたばかりのイチョウの木で事件が起こるとは思いもしなかったのだ。せいぜい、その場所に関係がある誰かに、恋愛関係のメッセージがあるのか、くらいにしか考えていなかった。

「それは私もです。――でも、《アカシアの雨》のメッセージ自体は、恋愛に絡んだものですから、もしかしたら恋愛のもつれの可能性もあります」
「しかし、被害者の方は大人で、学校とはかかわりのない人物ですよ?」
「……事件の詳細がわからないので何とも言えませんが、今回のポスター掲示から場所を特定した流れ、事件発生までの短さを考えると、無関係と考えるのは早計と思います」
 波瑠が慎重に答えた。
 藤波は無言だった。多分、わかっているから電話をしてきたのだ。

「こうなった以上、学校としても念のため対策を取る必要があります。そのため、今朝は臨時で職員会議を開き、その上で校内集会を行うことになるでしょう。しかし、あくまで近隣の高校としての対応に留める予定です」
「はい、わかりました」
「水城先生もご出席いただきますが、今のところ、ポスターの件は、職員の中では大したことではないと考えているでしょう。該当のイチョウについても、特にオープンにはなっていません。そのため、私から校長には、簡単に伝えておきますが、ポスターとの関連はまだ推測にすぎませんから、内密に」
 藤波は直裁的に、一般職員には伏せるつもりだと伝えてきたが、ずいぶん性急に感じた。

「それは……私は構いませんが、後で揉めませんか? 遅かれ早かれ、イチョウについては場所が特定されると思いますが」
「イチョウの場所が特定されるのと、事件との関連を疑われるのは別問題です。あくまでうちの学校としては、傷害事件が近隣で起こったため、注意喚起するという方向にしたいのです。まだ詳細も犯人もわからない状態で、今の時期に、うちの学校が事件に関わっていると噂されるのは絶対に避けたいですから」

 それは確かに、学校としてはこれから受験シーズンを迎えるため、傷害事件と関わりがあるいたずらなど、できるだけ潰しておきたい気持ちはわかる。
「ただ、それはそれとして、水城先生には調べを進めていただきたいと思っています。もし、万が一、傷害事件との関わりがあった場合は、情報が後手に回るのは避けたい。都合のいい話ではありますが、引き続き、ポスター掲示については調査をお願いいたします」
 波瑠は驚いた。てっきりこのまま幕引きになるかと思ったからだ。
「続けるんですか? こうなってくると子供たちから情報を得るのは難しくなると思いますが」
「こちらも、あくまで掲示板にいたずらをした人物に注意するという名目です。学校としてはきちんとしなくては。ただし、別に告発したい訳ではありません。関連があるのかどうかは知っておきたいのです」
 副校長らしく、抜け目がない。波瑠としては面倒だという思いはあるが、今はこの状況への好奇心が半々になっている。

「わかりました。調査を進めます」
 そう答えると、藤波はほっとしたように続けた。
「引き受けてくださってよかった。水城先生の《掲示板係》としてのお仕事に期待いたします。必要なものがあればおっしゃってください。私も、警察にもう少し詳細な情報を訊いてみます。……朝から長話をしてしまってすみません。では学校で」
 そう言うと、返事を待たずに通話を終了した。波瑠はポカンとしたが、ふと時計を見るともう八時に近かった。
 波瑠も慌てて朝の支度を始めた。

 遅刻ギリギリの時間で北八王子高校に出勤した波瑠は、そのまま臨時職員会議に出席した。普段は美術教員室から出ないため、職員室に行くのも珍しいのだが、今日だけは仕方がない。
 会議の議題は、近隣で発生した傷害事件についての対応と対策だ。内容としては、登下校時の注意を促すこと、歓楽街へむやみに立ち入らないこと、夜二十一時以降の外出はできるだけ控えることなどを、生徒に周知するよう伝えられた。とはいえ、受験を控えた三年生は塾や予備校に通っていることも多いため、保護者への注意の発信なども盛り込まれることになる。藤波が言っていたように、注意喚起の範囲だった。

 波瑠のような主要学科以外の、美術や音楽などの教科担当の生徒たちは、基本的に十八時以降の活動は許可制なため、遅くとも十九時半までとする、という従来のルールは変わらない。授業外時間の練習や課題取り組みは多いため、必ず教員が最後まで見守るという点は、必須となった。また、見回りや登下校時の立ち番の強化と増員も実施される。
 臨時会議が終わり、特別棟の美術教官室の自席に着くと、隣の席の瀬田祐樹せた ゆうきに声を掛けられた。瀬田は三十代の正規職員で、主に二年生の造形デザインを担当している。今日は瀬田も朝一の授業がないのだろう。
「おはようございます。何だか物騒な感じの事件ですねえ」
 と、さっそく傷害事件について振られた。

 結局、波瑠も事件については、朝に大慌てで支度した合間にウェブの小さな記事しか見ていない。
「おはようございます、瀬田先生。事件はネットの記事しか見ていないので、まだよく知らないんですが、結構ここから近くの公園らしいですね」
 そう無難に答えた。
「ニュースでも放送されていましたか?」
「僕は見ていないですが、他の先生が朝のニュースで見たって言ってましたね。でもほんとに短かったみたいで。宮下公園の入り口付近は映っていたようですが、イチョウの木の周辺は規制線が見えました」
「そうですか……」
 扱いは大きくないようだが、やはりイチョウということは公開された情報のようだ。

「襲われた二十代の男性も命に別状はない、ということらしいですね」
「とりあえず、それはよかったですね」
 波瑠も相槌を打つ。ポスターとの関連はまだ不明だが、被害者が死亡してしまった事件と関連があるとなると、また状況が一層深刻になるため、その点はよかった。
 しかし、それなりに事件が拡散していることを考えると、かなり慎重に対応する必要がある。
「放課後はできる限り残らないようにするんですよね? もうすぐ十二月だし、課題も調整しなくちゃかなあ」
 と、瀬田がぼやいた。

 冬休みに入る前は、期末テストや課題の提出が重なり、残っている生徒も多い。また、芸術系大学を目指す生徒が普段から自主的に残って練習や制作をしているため、教員としても心苦しい部分があるのだ。
「早く犯人が捕まってくれるといいですね」
 そう続けて、波瑠もため息をついた。こんなに大事になった事件と、ポスターのいたずらが本当に無関係ならいいのに、と。

 担当の授業が午後からのため、午前中はかなり時間に余裕がある。
 校内にいると人目が気になることもあり、波瑠は同僚に一声掛けて、外出し情報収集に努めることにした。
 藤波からは、いたずらについて調査を進めてほしい、という話だった。しかし、ポスターに写っていたイチョウの木の下で事件が起こったことから、犯行の予告か、または事件に関する何らかの強いメッセージなのではないか、と考えていた。
 ポスターの意図を知るには、事件の背景を調べたほうが早いのではないだろうか。あくまで根拠のない勘のようなものでしかないが。

 まずは、朝にチェックしきれなかった記事の情報を整理することにした。
 学校から駅方面に歩き、Wi-Fiが繋がるカフェに入ってコーヒーを注文すると、さっそくパソコンを立ち上げた。
 いくつかの媒体を平行で確認してみると、媒体によって多少精度が違っており、被害者の年齢が二十八歳であることがわかった。
 次に八王子駅近くの塾がどこか、という点だ。
 八王子駅で塾を検索すると、およそ八十数店舗あることがわかった。ここからさらに家庭教師などの形態を除外すると六十数件に絞られた。もう少し限定したい。

 思い切って、小中学生を除外し、高校に絞ることにした。理由としては、北八王子高校の掲示板が使われたことと、北八王子高校の過去の《おまじない》を使ったことから、あまり低年齢の学生は関係がないのではないかと推測したからだ。
 高校を選択すると四十件まで絞られた。そこから、大学受験に特化した塾や予備校のみにすると、二十九件になった。もう少しだ。
 そこからは、地道に地図と住所を照らし合わせて、駅前のみにすると十八件にまで絞ることができた。

 そこで、高校から近い駅北の大手から電話をかけてみて、事件で心配した保護者の振りをして情報を引き出す作戦を立てた。保護者であれば無下にもできないだろうし、関係なければすぐに通話を終了させるはずだろう。
 少し年嵩を演出するために、低めの声色を心掛けて話す。
「もしもし、〇×教室ですか? ちょっとお伺いしたいのですが……」
「あの、すみません、娘が通っているのですが今朝のニュースを見て……」
「新聞を見たのですが、そちらの△〇学習塾の先生かと思いまして、心配になって電話したのですが……」

 七件目で、疲れた声の女性が出た。
「はい、ハヤシ個別指導学院八王子駅前校です」
 声の雰囲気から、今までと違うものを感じる。
「もしもし、そちらに娘が通っている鈴木と申します。あの、今朝の新聞の事件を見てご連絡したのですが、そちらの……」
 波瑠がそこまで話すと、電話口の女性は少し言い淀み、
「……オチアイ先生のことでしょうか?」
 と言った。ビンゴ、波瑠は口元だけで笑った。
「はい。お怪我をされたようで心配になりまして。大丈夫なのでしょうか?」
「……はい、ご心配をお掛けいたしまして申し訳ございません。大きな怪我ではないと伺っております。授業についても、代わりの先生にお願いいたしますのでご安心ください」

 多分、今朝から何度も問い合わせがあったのだろう、困惑した調子で女性は答えた。本来は個人情報である名前が出てきたのも、慣れない対応に追われてつい出てしまったように思われた。
「そうですか……。それにしても何があったんですかね? あんな時間にあんな公園で」
「あの、申し訳ございません。詳細は私どももまだ知らされておりませんので、お答えすることはできないんです」
「あ、そうなんですね……。わかりました。ちょっと不安だったもので。娘にも気を付けるように言いますね」
「そうですね。また詳細がわかりましたら皆様宛にご連絡いたしますので」
「はい、承知いたしました。ではこれで」
 あまり突っ込んでもボロが出そうだったので、波瑠はそこで通話を終えた。とりあえず、先生の名前はオチアイだということは判明した。

 ハヤシ個別指導学院は、塾ごとにホームページがわかれていて、講師の紹介まで載っていた。ありがたい。
 オチアイ先生は落合弘幸おちあい ひろゆき。曹慶大学出身で社会全般担当というところまでわかった。年齢までは掲載していなかったが、このご時世に顔写真の掲載まであった。二十代後半のやせ型で眼鏡をかけている。切れ長の目はいかにも頭のよさそうな雰囲気で、顔は整った方だ。もしかしたら、女子に人気の先生なのかもしれない、と頭の片隅に置いておく。波瑠はまだ、恋愛のもつれという線も捨てきれていない。
 ふと、腕時計を見るともう昼近いことに気が付く。そろそろ戻らなくては。
 パソコンを閉じ、コーヒーカップの冷めたコーヒーを一気に空けて、席を立つ。店を出て学校に向けて歩きながら、もう一件電話を掛ける。
――南町田探偵事務所。

 コール二回で出たのは女性だ。
「あら、波瑠ちゃん久しぶり。どうしたの?」
 少し低めのしっとりした声の持ち主は、この事務所の事務と経理を受け持っている三田静香みたしずかという美女だ。三十代に見えるがよくわからないし、本名かどうかも不明である。
「お久しぶりです。静香さん。ちょっと相談があって。ボス、近くにいますか?」
「ラッキーね。ボスはちょうど書類仕事中で腐ってるから待ってて。――ボス、波瑠ちゃんが用事だって」
 しばらく保留音が鳴り、南町田探偵事務所のボス、祐仁たすくひとしが電話口に出た。
「もしもし? 珍しいな、事務所に掛けてきて」
 祐は眠そうな声をしている。声だけは低めで相変わらずいい声だ、と思う。外見は三十代後半で中肉中背、冴えないおっさんの見本みたいなのだが。冴えない癖にいい声な分、雰囲気イケメンに見えるという特技がある。

「――お久しぶりです、ボス。ちょっとご相談がありまして」
 波瑠は一度目を閉じ、話し始めた。
 北八王子高校に臨時職員として勤める前、波瑠はこの南町田探偵事務所に勤めていた。
 大学を卒業後、ふらふらしていたところを事務員として祐に拾ってもらったが、その実は調査補助のような業務だった。
 この探偵事務所は変わっていて、一般的な探偵に抱くようなイメージの仕事――浮気調査や人探しはあまりしておらず(たまに一見さんが依頼することはあったが)、知人の伝手で持ち込まれるペット探しや物探し、古文献の探索に図書館や郷土資料館をめぐるなど、何でも屋のようなことが大半だった。
 ここのモットーは『失せ物探しから幽霊退治まで』。
 祐の学生時代の悪友兼先輩が、頻繁に持ち込む仕事を請け負って成り立っていた。なぜ成り立っていたのかは、今でも不明だけれど。

 しかし、前職の調査手法が、まさか普通の仕事になった現在、役立つとは思ってもいなかった。波瑠はざっと現在の状況を話す。
「――それで、被害者の男性の年齢と名前はわかったんですが、詳細の経歴を調べていただけないかと思いまして。私だけでも探れるとは思いますが、なかなか自由には動きづらいので」
「ふーん……なるほどなあ」
 そうつぶやくと、祐は無言になった。
 波瑠は沈黙に少し不安になる。
「……何かまずいでしょうか? ほかの依頼が立て込んでいたりとか」
 波瑠が居た頃には、依頼が立て込むなどほとんどなかったが、あえて訊いた。
「いや、別にまずくないし、うちの仕事はご存じのとおりだ。で、これは依頼ってことでいいんだよな?」
 楽しそうな声で祐が答えた。電話の向こうでニヤついている気配がしている。
「……はい」
 まさか波瑠も元職場に依頼する立場になろうとは思わなかったが、背に腹には代えられない。そして、少し忌々しい声が出たのは仕方がない。料金は身内値引きしてくれないだろうか。
「それにしてもお前、教員かたぎになったと思ったのに、また面白いことに巻き込まれてるなあ」
 祐はきっと満面の笑みだろう、と波瑠はため息が出た。

<第四話へ続く>

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