アカシアの雨 第五話「屋上で」
屋上で
次の日の授業が終わり、波瑠は特別棟の美術フロアの廊下を歩いていた。薄暗い廊下は、個人ロッカーから画板、イーゼルなどの画材、静物デッサンで使う石膏のミケランジェロや聖ジョルジョなどの胸像、半身のトルソー、球や角柱などの幾何学体など、両脇にある棚や台座に所狭しと置かれていて、雑多でカオスな状態だ。
その奥にある、生徒の作品が飾ってある一角で足を止めた。
秋の文化祭で展示された、いくつかの作品がまだ残っていた。そこには美術コースの多嶋たち生徒の名前もあり、選択授業の生徒の絵もある。
『上倉苑』が描いたものは、静物画だ。リンゴや洋ナシ、木製の箱と台に掛けた布、手前にはほんのり黄色に色づいたイチョウの葉が置かれている。奥にあるリンゴや洋ナシにくらべると、手前にあるイチョウはハッとするほど鮮やかな色彩だった。
しばらくそれを眺めていると、後ろから軽い足音が近づき足を止めた。ゆっくり振り向くと、コートを着た苑が立っている。
「波瑠せんせー、こんにちは」
いつもの調子で苑が挨拶してきた。波瑠は、苑が来る予感がしていた。
「こんにちは。――上倉さん、ちょっと話そうか」
そう言って返事を待たずに歩き出す。後ろから足音が付いてくるのを確認すると、階段を上り、美術教官室を通り過ぎて屋上に向かった。
特別棟の最上階は美術教官室だが、ドアを通り過ぎて左手に、屋上に出られるドアがある。ここは波瑠も知らない間に植木の鉢が増えていて、小型の窯まで設置されるようになり、簡単な陶芸作品も作れるようになっていた。普段は出られないが、教師の立ち合いがあれば生徒も出入りできる名目になっていた。
十一月末の午後、吹きっさらしの屋上に来る人物はおらず、ここなら誰かに邪魔をされることもないだろう。しかし、それでも寒い。
屋上の壁の一角にサンシェードが設置されている。その壁側にある小型の屋外物置に、焼き網やトング、着火剤などとともに、キャンプ用の小型ストーブがあるのを知っていた波瑠は持ち出してきて火を点けた。
「……何でストーブあるの?」
心底不思議そうに苑が言う。
「冬の屋上は寒いじゃない。……私じゃないわよ。授業で使うこともあるからって、いつの間にか増えていったのよ」
しかし無理もない。波瑠が在学中の十年前は確かここまで充実していなかった。何人かの教師が徐々に好きなようにしていった結果だろう。
「美術コースって基本やりたい放題だよね……」
呆れたように苑がつぶやいてから、火に当たってしゃがむ。それに関しては波瑠も同意見だった。
「――さて、暖まってきた」
そう切り替えるように言って、波瑠は苑を見下ろした。黒髪の頭頂と鼻先だけで、表情は伺えない。
「……被害者の落合弘幸のことを調べたわ。彼はこの学校の卒業生だった」
「……そうなんだ」
「私は顔も名前も覚えてなかったけど、在学中の一つ上の先輩だった。落合は普通科理数コース、私は美術コースでまったく接点はなかったから。でも、この先輩が関わった事件はうっすら覚えてた」
波瑠は記憶を探るように宙を見上げた。
「当時、女の先輩が宮下公園で襲われた事件があってね。その女の先輩は弓っていう、私の前任の益田先生の友達だった。美術コースじゃなかったけど、美術が好きで、選択教科で選んでいた……上倉さんみたいに」
無表情に見上げた苑の目と、見下ろした波瑠の目が合った。
波瑠は遠くに目をそらし、続けた。
「――事件は宮下公園のイチョウの木の下で起こっていて、学校からは戒厳令も敷かれたけれど、ほとんど意味がなかった。弓先輩が襲われた事件の犯人は、落合弘幸じゃないかっていうのはほとんどの生徒が知っていたと思う。でも証拠がなかったらしいのと、確か親がすごい反発を学校にねじ込んで……いたたまれなくなった弓先輩は、転校していった。ご両親の田舎に引っ越したって話だった」
「……」
「……でも、落合弘幸は、特にお咎めもなく数週間ほど休んで、復帰した。元々成績がよくて人気もあったから、学校もあまり強く出られなかったのかも。そしてそのまま卒業して曹慶大に進学。――でも、曹慶大まで行ったのに就職はしなかった。地元に戻ってきて現在まで塾講師をしている……表向きは」
「……表向き?」
苑が小さな声で呟いた。波瑠は頷く。
「落合弘幸には大学時代に性犯罪で検挙された経歴があったわ。でも不起訴処分になっていた。親が示談で金を積んだという話ね。不起訴だけど、外聞が悪いから地元に戻ってきているんじゃないか、という話もある。いずれにしても、こっちではそれなりに人気の塾講師らしいわ。――でも、それが良くなかったんでしょうね」
祐の報告書には、表沙汰にはなっていないが、現在も何人かの女生徒が被害に遭っているという内容が書かれていた。しかし、女生徒の方が将来を考えて大事にしたくないため、泣き寝入りし、ひっそりと塾を退校、または高校を転校した子もいるようだった。落合弘幸にとっては、願ったり叶ったりの状況だ。
「性犯罪については、裁判をして罪を罰するだけでなく、根本的にはカウンセリングや専門機関での治療が必要といわれているけれど、日本では軽視されがちよね。同意があった、拒否されているとは思わなかった、そんな言い訳もよく聞くわ。性犯罪は再犯率も高いのに……。そして、落合弘幸は法律上は罰せられていないし、多分本人も親も、病気だと認識してはいない」
波瑠は、再び苑を見下ろして聞いた。
「……あなたは、その転校した弓先輩の妹ね」
苑はしばらく無言で火を見つめていた。
やがて、ゆっくりと小さな声を出す。
「――お姉ちゃんとはだいぶ歳が離れてて、私は小さかったけれど、あの時のことは覚えている。家の中がまるで嵐で蹂躙されたようにめちゃくちゃになった後、今度は静かに、暗く、重くなっていった……」
ふーっと大きく息を吐いた苑は、立ち上がって波瑠を見た。今まで見たこともないような、強くて暗い老成した目をしていた。
「本当に何があったか理解したのは、私がもう少し大きくなってからだった。ショックだったよ。そしてその時には、もう家族は昔の家族には戻れなくなっていた。田舎に帰っても名字がそのままだと、いつ何を言われるかわからないから、名目上離婚して、お姉ちゃんはお母さんの名字、私はお父さんの名字のままで、何とか生活を立て直そうとして。……でも、親はお姉ちゃんを支えようとしていたし、おばあちゃんも優しかった。親戚はクソだったけれど」
だんだんと、挑むような顔つきになり、続ける。
「それでも、年月が少しずつ解決していくと思ってたの。私が中学くらいになって、お姉ちゃんも少しだけ元気になって普通に生活できるようになっていた。――でもあの男が……落合が、」
そう言って、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出すと低い声で続けた。
「――何でそんなことをしたかわからないけど、お姉ちゃんの昔のアドレスに、写真を……」
「写真?」
「……写真を、送ってきたの、暴行した時に撮った、その時の写真を」
波瑠は絶句した。
「ただの気まぐれなのか、面白がってなのか、まったくわからない。何でそんなことできるのか理解できなかった。私たちもお姉ちゃんのアドレスが知られていたなんて思わなかったし……それで、もう、どうしようもないくらいお姉ちゃんの心が、壊れてしまった」
苑は怒りに震えながら、両手のこぶしを握って、炎を見つめていた。
「私たちは、昔、東京でお世話になった人を頼って、あいつの情報収集をしたわ」
また大きく息を吸って、震えながら吐く。
「……そうしたら案の定、落合はまったく相変わらず、のうのうと生きている。塾講師なんかして人気の先生だってちやほやされて。私のお姉ちゃんだけでなく、他の女の子たちの心も体も踏みにじっているのに! 私たち家族もボロボロにしたのに!
――何で‼」
激高し肩で大きく息をした後、苑は目を閉じて震える手を胸に置いた。波瑠は見守ることしかできなかった。
少し息を落ち着けて続ける。
「……私は、お世話になった人の勧めで、この因縁の学校に入学したの。一年いろいろな情報を集めて、仲間を作った。被害者の子にも会ったわ。だから――今回のことは、多分波瑠せんせーが思っているよりも、いっぱい人が関わっている」
苑は、波瑠と目を合わせた。
「ポスターの写真を撮って作成した人、そのポスターを貼った人。写真を撮りSNSに投稿した人。他にも前段階から細かく行動を分けた。落合を呼びだした子はもう関東にはいないし、当日はアリバイがある。落合を襲った人も、今は日本にはいないわ」
そこで少し言葉を区切った。
「私のお姉ちゃんだけど」
波瑠はゆっくり頷いた。過去の被害者だった弓の動向は、祐の報告書にも書かれていた。そこから様々な推察ができたのだ。
「――それは、知ってる。あなたのお姉さんはもうここにはいないってこと」
苑は、視線を逸らして遠くを見る。
「今回、関わった人同士は横のつながりがないようにして、できるだけ交流がばれないように気を付けた。一つの出来事があったら、それが合図。まったく関係ない赤の他人が行動を起こしたように見えるように。でも本気で警察が捜査すればばれちゃうかもしれないよね。でもね、落合の悪事もばれるようになっている。今までの証拠が週刊誌に告発されるようになっているの。どこまで有効かわからないけど、あいつの親には効果はあるでしょ」
ひと息つき、苑は笑った。泣きそうな笑い方だった。
「私も、もうすぐ海外に行くよ」
波瑠は目を見張った。
「どうして?」
「お父さんの仕事で、元々行くことは決まっていたの。だからこのタイミングを計ってたってこともある。そして、もう多分戻ってこない」
苑は、大きく伸びをしながら数歩進んだ。風でスカートが翻る。
「波瑠せんせーが気付いてくれてよかった。多分わかってくれると思ってたから」
波瑠は苑の後姿を見つめる。苑は続けた。
「お姉ちゃんはさ、多分、あんな最低最悪の落合のこと、昔は好きだったんだと思うの。だけど、気持ちが踏みにじられただけでなく、物みたいに扱われて。……憧れだった気持ちとかが怒りや絶望でどんどんおかしくなっちゃったんじゃないかなって。――でもそんなこと、家族にも言えやしないよね」
そして振り向いた。
「だから、『秘密の恋』。――せめてそれだけは、覚えていてあげてね」
波瑠を見つめる目が、水を張ったように揺れているように見えた。しかし、瞬きすると幻のように消えた。
「……この話はこれでおしまい!」
そう言ってドアに行こうとする苑に、波瑠は慌てて声を掛けた。
「ねえ! ……掲示板の鍵は、誰にもらったの?」
「そうだった! これは返すね!」
そうポケットから鍵を取り出すと、波瑠に一瞬見せてから、すくい上げるように放り投げた。慌てて波瑠が両手でキャッチすると、苑はドアに手を掛けていた。
「東京の親切なおじさんに返しておいてね!」
そう言うと、いつものような笑顔で手を振ってドアの向こうに消えていった。
一人残された波瑠は、手の中にある飾り気のない真鍮の鍵を見つめる。
「――東京の、親切なおじさん……か」