アカシアの雨 最終話「さよなら、またね」
さよなら、またね
十二月、期末試験が終わった頃、苑はバタバタと周囲に挨拶を済ませて、海外に転校していった。行き先はボストンと聞いたが詳しくは語らず、最後まで苑らしく、あっけらかんとした別れだった。
終業式が終わり、生徒たちはほとんど帰宅し閑散とした夕方の校内を、波瑠は副校長室に向かって歩いて行く。
ノックをすると、「どうぞ」と声が聞こえた。
ドアを開けて入室すると、いつものように上品にスーツを着こなして、藤波が窓の近くに立っていた。波瑠は黙って近づくと、ポケットから小さな鍵を取り出して見せた。飾り気のないほうの真鍮の鍵を。
「『東京の親切なおじさん』は、藤波先生ですか?」
あえて副校長とは言わなかった。
波瑠の手にある鍵を見て、藤波はうっすら目を細めて懐かしそうな表情をした。
「先生と呼ばれるのは久しぶりですね」
質問には否定も肯定もしなかった。しかしその表情で理解する。
藤波は申し訳なさそうに続ける。
「今回、水城先生には大変面倒なことをお任せしてしまいましたね。ごめんなさい」
波瑠は首を振った。
「彼は、被害届を取り下げるようですね」
藤波が静かに付け加えた。波瑠は頷く。多分、警察に身辺を探られるのが怖くなったのだろう。
この先の彼が、どうなっていくのかはわからない。ただ、しばらくは大人しくするのだろうし、もし次に女生徒が被害に遭ったら、今度こそきちんと起訴されることを祈る。警察には履歴があるのだから。
――最初から最後まで、ずっと藤波や苑が誘導してくれたようなものだった。もしかしたら、この学校の臨時講師に選ばれたのだって、仕組まれていたのかもしれないとさえ思った。
ただそこまで期待された理由は最後までよくわからなかった。
「ヒントは全部教えて頂いたようなものですし、私でなくてもよかったのでは? 何で私だったんでしょうか」
「水城先生が《掲示版係》に選ばれたのは偶然ですよ。前任の益田先生のお手柄です。でも、そうですね。水城先生なら真相に気が付いてくれると思っていました。彼女もそれを望んでいた」
そう言って手のひらを差し出した藤波に、真鍮の鍵を返した。
藤波はゆっくりと握る。
「この鍵は、前理事長から預かった本当のオリジナルです。前理事長は私の友人でもありまして。それでこの鍵を任せていただいていました。実は、代々受け継がれている方がコピーなのですよ」
どことなくおどけたように言うと、波瑠に微笑んだ。
「ようやく戻ってきて、安心しました」
そうつぶやき、鍵付きの引き出しに入れてから別の封書を取り出すと、再びかちゃりと鍵をかけた。
「私は、これからも《掲示板係》でいいのですか?」
波瑠は問いかける。藤波は波瑠を見て、にっこりと微笑んだ。
「もちろん、引き続き水城先生が《掲示板係》です。適切に管理してくださることを期待していますよ、今回のように」
そう言うと、取り出した封書を波瑠に渡す。封書には、『波瑠先生へ』と書かれていた。
波瑠は藤波を見返し、少し伏し目がちに笑うと一礼をして、そのまま副校長室を退出した。
人気のない薄暗い校舎を、波瑠はゆっくりと美術教官室に歩いて行く。
夕陽はゆっくりと黄昏に向かい、校舎を包んでいった。
波瑠先生
バタバタとしてしまったのでこの手紙を託しました。
最後までいろいろありがとうございました。
波瑠先生は嫌がると思うけど、私にとってはちょっと
お姉さんみたいに思っていました。
またどこかで会えるといいね。
苑
<終>
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