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第10回 過労死問題の本質 -抑圧的空気と無関心-

1. コロナ自殺は杞憂?
 感染対策を優先すべきか、経済を優先すべきか、ここ数か月間行われてきた議論は、結局明確な結論を出されることなく、なし崩し的に各種事業が再開されるという形で進んできている。そもそも、二者択一として選択を迫る性質のものであるとは思われず、あいまいな決着は致し方ないものであろう。もっとも、私としては、そこで行われた各論者の意見には、少し興味があった。両意見を簡潔に要約すると、感染対策優先論者は、病院崩壊や高齢者への危険を加味すると、危険除去を優先すべきというものであり、経済優先論者は、このままでは企業倒産や失業者の増加が国民経済を危うくし、感染死ではなく自殺者を増やしてしまう結果をもたらすといったものであった。ワクチン開発等による事態の収束が見込めない現状において、経済をこのまま停滞させてしまうことは危ういとは思うものの、自殺者が増えてしまうという論調はやや短絡的に過ぎるように感じた。統計によると、コロナ禍以降、自殺者は減少しているという。経済悪化から自殺者増加に至るには、一定のタイムラグがあるという可能性もあり得るが、むしろ、仕事に追われることがなくなり、健康を取り戻したという人も少なからずいるのではないかと思われる。仕事がなくなる焦燥感は相当なものであると思われるが、仕事に追われて死に至るという事情とは、似て非なるものであろう。


2.自己責任論の誤謬
 過重な労働等によって脳・血管疾患を発症することや精神疾患に罹患することなどあり得るのか。過労死や過労自殺が社会問題となっているにも関わらず、自分には無縁な世界であると考えている人にとっては、そのこと自体を疑わしいと感じるかもしれない。また、「死ぬほど働くことはないだろう」、「死ぬくらいなら仕事を辞めれば良いのではないか」などといった言葉もよく聞くところである。
 もし、あなたがそうした感覚をお持ちであれば、是非、自分に問うてみていただきたい。「今日は従業員が少ないので残業してくれ」と言われても断れるか、「君に期待している」と言われたらその期待に応えて頑張ろうとはしないか、同期入社の同僚と比較して賃金が大きく下回ることになっても気にならないか。多くの人にとって、仕事は、単に生活の糧を得るだけの手段に留まらず、大なり小なり自らのアイデンティティを投影させるものとなっている。とりわけ、職場に集まって、同じ目的を持って仕事に従事するという場合には、次第に承認要求が高くなり、「苦労」が「楽しさ」になって、さらには「生きがい」になっていくことがあるようである。


3.過労死にまで追い込まれる心理状態
 過重労働によって脳・血管疾患を発症する人の多くは、「死ぬほど働いているわけではなく」、やむを得ずまたはやりがいをもって、もしくは習慣になってしまって長時間労働等に従事していたところ、突然に病に襲われることになるといった場合がほとんどである。頼られれば悪い気はしない、自分が頑張ることで同僚、上司、部下を楽にさせられる、顧客ないしは取引先からの要請に応えることは当たり前、成果が出ると自分の成長が感じられるなど、仕事は、時として思わぬ形で心身の限界を超えさせてしまう。
 過労死するほどまで働いてしまう人を批判する人は、自分のことは自分で守るしかなく、仕事であれ、遊びであれ、身体を悪くするほどの状態になるのは自己責任であると言うかもしれない。この点、確かに、自己健康管理義務などという言葉があるとすれば、心身を病むほど働き過ぎた人のなかには、少々軽率であったといえる場合もあろうが、本人が自覚できる程度に重症な状態であるか、もしくは治療を指示されていたにも関わらずこれを無視したといった場合でなければ、批判はしにくいものであろう。自分のことは、自分が一番分かっていないといったことは、普通にあることのように思われる。働き過ぎによって心身を毀損する人についてみれば、上記のような善意に基づく積極的な姿勢が病魔を呼び込むことが多いのであり、自分のことは考えていないか、もしくは考える前に他者(会社自体を含む)のことを慮るという心理状態になっている。自分の身体のことを心配すべきであったという批判は、交通事故や犯罪に遭ったことがない人がもっと注意すべきであったといった類いのコメントをするに等しく、何ら現実感のない空論である。


4.長時間労働そのものによって死に至る病になることがあるのか?
 過重な労働によって、脳・心臓疾患を発症することがありうることについては、労災の認定基準によってこれを認めているという事実から、もはや否定することに意味はない。もっとも、過重な労働が、脳や心臓等の循環器にどのように作用して、病気にまで至らしめるかという点について、説得力のある説明がなされているわけではない。労災の認定基準においては、一定時間以上の時間外労働をする等、過重な労働に従事した場合には、心身に影響をもたらすことが否定できないことから、業務上の事故であると認めるというものであり、医学的な基準というよりは法的な基準であると考えるべきであろう。
 では、医学的な基準から見ると、過重労働によって脳・心臓疾患に罹患するということは一般的にはないと考えるべきなのであろうか。この点、医学的な知識はなく、その病理に言及することはできないものの、多くの事案を見てきたという経験のみに依拠して意見を述べるとすれば、長時間労働等の過重労働自体が、脳・血管疾患を引き起こす契機となることは十分にありうるように感じられる。もちろん、こうした疾病を労災であると訴える被災者を見ると、脳出血について言えば、高血圧や脂質異常など何らかの既往症状を持つ人が多く、心臓疾患についても異常肥満や不整脈保持等の事情が認められる場合が多い。したがって、過重労働自体が、何らの基礎疾病もなかった人について脳・血管疾患を惹起させるという事態は少ないといえようが、急激に重篤化に導くといったことは稀ではない。特に、体力の回復機会が奪われるような勤務の連続やインターバルの短さ、生活リズムを乱す不規則な労働、緊張感の持続を求められるような職務や立場などの事情がある場合には、循環器系への負荷は否定できないような気がする。


5.職場の空気に左右される長時間労働
 長時間労働に慣れてしまうと、本人のみならず家族もそれが問題であるとは感じなくなることがあるようである。わが国においては、家族との団らんを楽しむ環境や大好きな趣味があったとしても、多くの場合日々の生活は仕事を中心に展開していく。仕事が好きでたまらないといったケースもないわけではなかろうが、ほとんどの場合、義務感ないしは使命感に突き動かされているというのが実態であるように思われる。過重労働になった人の労働実態を調べてみると、必ずしも真に仕事に追われるというケースばかりではなく、上司や同僚からの評価や視線が気になる、自分一人でやらなければならないと思い込むなど、周辺とコミュニケーションを取れないことが理由になっていることが少なくない。周囲の視線を気にするという意味では、災害発生により通勤手段がないにも関わらず無理に出社しようとする行動、年休を取得することへの罪悪感などと同じ構図であり、職場の空気が労働者の行動を決めてしまうことは極めて多いように感じられる。


6.過労死問題の本質
 もっとも、過労死の事案を見ていくと、必ずしも業務命令ないしは職場の空気といった周辺からの抑圧により長時間労働を余儀なくされたというものばかりではない。むしろ、業務の遂行や時間管理については一定程度の裁量を持っていたにもかかわらず、本人の意識においては仕事を続けざるを得なかったというケースが多い。実は、ここに過労死問題の本質があるような気がする。業務が細分化もしくは専門化され過ぎると、組織は労働者各人の業務実態について関心を持ち続けられなくなり、何らかの事故もしくは事件が発生するまで放置されることになりやすい。労働者が脳・血管疾患により倒れたケースにおいて、会社関係者はその労働者の業務実態をほとんど知らず、「さほど忙しかったとは思わない」などといった申述をすることは多い。仕事が個人に任されている状況において継続して一定の成果が上がっていると、労働者の仕事ぶりに関心が払われないこととなりやすいのである。こうした状況は、(支)店長、研究所勤務者、事業場外労働者などに多くみられるものであるが、取引先から直行直帰をすることのある通常の会社員などにおいてもみられる。つまり、労働者が過労死に至るほど仕事に没入する背景には、任されているものであり、達成しなければならないという本人の主観と、任してしまっていることによる会社関係者の無関心があるといえそうである。

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職場の実態を知り尽くした筆者による労務問題に携わる専門家向けのマガジンである。新法の解釈やトラブルの解決策など、実務に役立つ情報を提供するとともに、人材育成や危機管理についても斬新な提案を行っていく。

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