鳶職から海外移住、今は保育士。
初めての仕事は「鳶職」だった。
工事現場なんかで高いところで作業している人たちが「鳶(とび)」だ。ニッカポッカと呼ばれる極太ズボンと足袋がトレードマーク。色黒のちょっとイカついお兄ちゃんたち。私からするとそんなイメージだった。
その中でも「足場鳶」というのがあって、高さのあるフェンスのような足場を組み立てる仕事をしていた。そのときは知る由もなかったけど、日本で一番過酷な肉体労働とも言われてるそうで。夏場になると毎日誰かが病院送りになる、そんな職場だった。
とにかくきつい。
そこで私のような下っ端に求められるのは体力、ただそれだけ。従業員60人以上のそこそこ大きな会社だったが、大卒だったのは自分を含めてたった2人だと聞いた。そこでは学歴なんてのは「仕事してこなかった奴のブランク」という位置付けでしかなかった。
まわりを見渡すと、
自称暴走族総長のヤンチャ高校生
刑務所あがりのホンモノ
小指を詰めてきた人
「何か」のせいで歯が抜け落ちた人
それまで出会ったことのない人たちに囲まれていた。日本にも多様性があることを実感したし、きっと私は「温室育ち」に分類されていた。
今思えばいろいろあった。
頭に鉄板を落とされて危うく死ぬところだったし、高速道路に放り出されて大型トラックに轢かれそうにもなった。毎日5リットルのポカリを飲んで、あとはファミチキとおにぎりだけで生活していた。怪我もした。
「わざわざ大学を出たのにもったいない」とまわりからはよく言われた。そりゃそうなんだけど、他にできることなんてないと思っていた。
何より、鳶って格好良い!!
そう思っていたし、今でもそう思っている。
鳶職を選んだ理由は他にもある。給料と時間だ。月給にして25万円前後、田舎にしては良い給料をもらえていたと思う。しかも日当の仕事だったので、その日の担当作業さえ終わらせてしまえば直帰できた。午前8時に出勤して午後2時に終わるなんてことも。トラックはいつも親方が運転してくれたし移動時間は自由にさせてくれた。
その時間、ずっと英語の勉強をしていた。
完全に変人だった。
トラックの中でいつも英文を読んだり、イヤホンをつけて英語を聞いたり。親方には気持ち悪がられたし「先生」というあだ名で呼ばれていた。いつしか「お前が先生か!」と見知らぬ職人さんたちにも声をかけてもらえるようになった。
鳶職にも慣れてきた頃、インターナショナルスクールでの仕事を見つけた。人生初めての英語面接で、10月なのに汗が止まらなかった。今思えば付け焼き刃の英語力で(それも完全に見抜かれてはいたけど)何とか仕事をもらうことができた。代表理事、同僚たちには感謝しかない。
さらに数年が経ち、仕事も英語も徐々にできるようになってきていた。そんなとき、ニュージーランド(英語圏の小さな島)の国立大学院から合格通知が届いた。ずっと行きたかったところだ。
それを機にニュージーランドに渡航。
大学院卒業後は仕事も決まって、トントン拍子で永住権まで取ることができた。海外生活にも慣れてきて、親友と呼べるような友だちもできたし、英語にもほとんど苦労しなくなった。
私が海外移住?自分でも驚きだった。
今ではニュージーランド現地で保育士として働いている。ちょっとだけ出世して主任にもなった。
もちろん簡単な仕事ではないけれど、こんなにやりがいのある仕事はない!と感じながら働けるのは幸せなことだと思う。
こんな未来、想像していなかった。
だけど別に何かの才能が開花したわけでもない。ただ運が良かっただけなのかもしれないし、環境に恵まれていただけなのかもしれない。
だからこそ「こんな未来」を大事にできるようになった気がする。きっと今幸せを感じられているのもまわりの人たちのおかげだから。
たまにふと、トラックの助手席でタバコの煙にまみれながら膝を抱えていたのを思い出す。「これからも想像していなかった未来に感謝できるような人生になったら良いな」なんて願ってる。