イタズラに細分化された領域は、統合することも考えた方が良いんじゃないか

どの分野においても、異なる専門領域を横断して協働する取り組みは、考えられている。医療分野においては「チーム医療」を、教育分野においては「チーム学校」を挙げることができるだろう。また、そうした特定の概念を指し示すものでなくても、異なる分野を横断した協働は、それぞれの専門分野が細分化し、それぞれで深まりを見せている現在において、求められるのは必然だろう。もはや、複数の分野を横断的に研究することなど、不可能なようにも思える。

一つの分野を取り上げても、その分野の全体を十分に理解することは難しい。もはや、その分野の内側にあるものでさえ、全体を十分に理解することの意味すら、問い直されてしまう。その分野の全体を包括的に理解することに、どこまで意味があるのか、と。人文社会科学では、分野全体の理解を学部レベルで良いとして、その後はより細かな領域を中心に深めがちであるように思う。当然、必要があれば他の領域を調べることもあるが、分野全体の理解に時間をかけようとはしない。以前、数学科の大学院生と話をしたが、大学院に入ってもテキストを読み進めるのだという。もちろん、数学という分野全体を理解するというよりかは、ある領域の理解を深めるためにテキストを読むのだと思うが、体系化されたテキストがあって、それを読み進めることで理解ができるというのは、人文社会科学とは大きく違う。その違いはどこから来るのか。

東浩紀は『訂正する力』(朝日新書, 2023年)の中で「文系の知」とは本質的に「訂正の知」であると述べる(東2023, p.113)。文系の学者は、過去の著作を引っ張り出し、新たな視点から解釈して読み直すということをやっている。一方で理系の学者は、一つ一つの事実を積み上げるようにして研究する。「1+1=2」という計算式の論理性を問うことはあっても、それを新たな視点から読み直すと「1+1」が5になったり159になったり、あるいは「ゴリラ」になったりすることはない。こうした学問の性質上の違いによって、以上のような違いが生じているのかもしれない。

そうした些細なことがあっても、分野がそれぞれ細分化しているのは確かだ。各分野が横断的に協働することが求められている。「学習する組織」(ピーター・センゲ)や「ティール組織」(フレデリック・ラルー)、「恐れのない組織」(エイミー・エドモンドソン)などの理論が広く読まれるのも、そうした背景に基づくのだろう。

ただ、ここで大きな問題がある。どのような領域でも、協働することができるのだろうか、というものだ。ある領域が「在る」ということは、どんな領域であれ、その領域特有の「論理」がある。その領域における論理によって、他の領域との棲み分けを行っており、歴史的展開についても、特有の論理によって整理がなされる。

このあたりから、具体的な問題を取り上げたい。私がこの文章を書いている背景には、教育と福祉、教育と心理における考え方の違いは、どのように解決すべきか、という問題意識がある。それこそ協働すればよいと考えるかもしれないが、協働それ自体に対して、具体的な場面において意見が大きく違ってくるところがある。教育と福祉では、同じような歴史を歩んでいるはずなのに、そこでの歴史的経緯の記述には大きな乖離があり、結びつかないところも多い。むしろ、互いに反発し合う中で、それぞれの専門性を高めてきたのではないかとすら思えるような部分がある。

もっと具体的に言えば、教育経営学における「生徒の声」(student voice)研究と、子どもアドボカシー(advocacy)研究は、同じイギリスを起源とした理論であり、子どもの声を大切に聴き取るという営みであるにも関わらず、参照される文献は全く異なる。時代も同時期である。協働の必要性はどこにあるのかと思うかもしれないが、独立アドボカシーの広がりを踏まえ、学校現場にアドボケイトが入り込む可能性を踏まえてのものである。また、臨床教育学という分野も存在するが、これも独自の言葉を使いながら発展してきたところがあり、考え方が似通っているのに、根本原理において相いれない部分が所々見られる。どれも大切にして、それぞれに関心を寄せてきた私だからこそ、その違いに違和感を覚える。教育分野の内部においても、学習指導と生徒指導は、想像以上に一体的に行われないし、別々の存在としての認識が広まっている。これについては、互いに「学習指導こそ教師の仕事だ」「生徒指導も大切な教師の仕事だ」といった対立によって、それぞれが独立して研究を蓄積してきたのではないかとすら思えてくる。

それでも、複数の領域を横断的に協働することは可能かもしれない。それらを統合していくことは難しい。ただ、少なくとも上にあげたものについては、統合していくところまで持っていく必要性を感じる。イタズラに細分化していくことが正しいとは到底思えない。研究者の悪いところで、自らの研究の独自性を主張するあまり、それによって細分化してきたところもあるのではないか。特に教育学においてはそういうところがある。目指している大枠は同じなのに、その説明や文脈に差異が生じていることによって、協働を難しくさせているし、その違いにそれぞれの研究者が誇りを持っているところがある。「これが私たちの独自性だ」と。

こういうことを考えてしまうのは、私が複数の領域にまたがって研究を行っているからかもしれない。しかし、そうした研究ですら、1人の人間では限界がある。特に具体的な現状に影響を与えうるような分野については、そろそろ、イタズラに細分化された研究領域に関しては統合をしていくことが求められるように思う。

もちろん、政策動向の影響によって、研究内容の一部が似通っているように見えるだけで、根本的な思想には大きな違いがあるのかもしれない。政策動向によって統合することが良いことだとも思えない。ただ、それにしてもイタズラに細分化されすぎ。

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