「訂正する力」は「価値づける力」でもある

東浩紀(2023)『訂正する力』(朝日新書)を読む。訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力。それは持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもある(p.76)。訂正は、日常的に誰もがやっていることであり、その本質は、「メタ意識」にある。「じつは…だった」ということも、訂正である。著者は決して「修正」ではないと注意しながら、哲学において欠かせない「時事」と「理論」と「実存」という3つの要素を含みこむようにして「訂正する力」を論じようとする。

この中で印象的だったのは、文系の学者と理系の学者の考え方の違いに関するところ(pp.111-115)。文系の知は、訂正の知であるという。理系の学者たちは、一つ一つ事実を積み上げて研究していく。それに対して文系の学者は、過去の著作を新たな視点から解釈し読み直す。過去の著作だけではない。1つの現象に対しても、様々なアプローチで探究し、解釈しようとする。人の話を聴いて、そこに意味づけをする。それが訂正する力であるとすれば、訂正する力は「価値づける力」ではないか。

文系・理系の思考様式の違いを見ると、文系は生産的でないように思えてくる。理系が直線上を右往左往しながらも推進力をもって進み続けようとするのに対し、文系は同じ位置であれこれ考えこんで、過去の著作も引き合いに出して、再解釈し、後ろへ立ち戻ることもある。とても遅く、快活とは言えないだろう。だが、そうした文系の思考様式は、些細なものに「価値づけ」を行う考え方であると捉えることもできる。「じつは…だった」というのも、価値づけだ。この考え方が非常に大切ではないか。そんなことも考えた。


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