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気功はなぜとっつきにくいのか〜その2

総論 気功のとっつきにくさ


気功のとっつきにくさには大きく分けて2つの流れがあるように感じる。

⒈歴史的な経緯
⒉体感的な敎育
ざっくり言ってしまうとこれに尽きる。
ここでは⒉について考察してみたい。

2体感的な敎育

①気功の特色

私が練習している「新医学気功」の創始者 楊峰老師の言を借りると、「気功とは全身の細胞に正しく酸素を届けること」ということになる。酸素が隈なく正しく届けられることで、正しい代謝状態にし、鬱滞による活性酸素や炎症を避け、全身の生命力を賦活することにある。
無論、中国の思想的な気の概念は「酸素」ではないが、西洋医学的に説明をするならばそうなるとのことだった。
老師が、「新医学気功」を創始したのもの、中医師として西洋医と連携して治療や健康増進にあたるときに、中国の伝統医療をどのように解釈したら接点になりうるのかという発想にある部分もあるのでこのような説明になっている。当然これは中国の伝統的な気の概念を否定しているのではなく、解釈を改めているだけなのである。しかしながら、この全身というのが極めて難しい。ややこしい言い回しにはなるが、全身は全身でありまた細部の集積でもあるということなのだ。細部とは皮膚であり、肉であり、筋(腱や筋膜の類)であり、血管であり、神経であり、臓器であり、血液であり、体液であり、粘膜やそれによって形成される部位であり、骨でもあるのだ。それらに酸素が行き渡るためには十二正経や奇経八脈やそれらから縦横に走る絡がわからねばならないし、ツボと言われるスポットも実感として理解しないとならない。さらには賦活された生命力と、そうでないものとを全身と細部とで感じることが必要になり、外部からの影響や外部にある賦活された生命力との関係も自覚しないとならない。
ここまで逆算的に辿ると、老師の言われることが伝統的な気功の上に立っていることがわかる。
こう書くと、極めてとっつきの悪いもののように思うが、実際には実に簡便である。シンプルな動功と静功によって構成されていて、どれも立位・坐位・仰臥位で行うことができる。身体的な要諦も「人を倒す」目的がない分、武術よりもシンプルである。
特に動功は実に簡単な構成になっていて、持続可能な有酸素運動と気の感覚、イメージによって出来上がっている。従来の気功自体も動功はこの構成になっているものが多く(一部、息を詰めたり、強い意識的な呼吸を求める流派もある)、この点も伝統的な手法を継承している。
でも実は、この伝統的な手法こそが難しいのだ。
なぜなら、私たちは「持続的な有酸素運動」ができない。

②持続的な有酸素運動

例えば、初級動功の一式目(霊気開宮)の動作は手のひらを向かい合わせた状態(労宮を向かい合わせた状態)で、上の手を平円を描くように回すだけである。
でも、これができない。
何かしらの物語が入り込んで、いらないポーズや力みが生じるのだ。
ただ自分の手をシンプルに動かすだけなのだが、息を詰めてしまったり、踏ん張ってしまったり、肩や腕に力が入ったり、太極拳のモノマネのモノマネのような必要以上にゆっくりで勿体のある動作がやめられなかったりする。
当然これらの「余計なこと」は運動の持続の妨げになるし、効果的なイメージを保持できなくなるもとになる。
※太極拳がゆっくり動く(慢架・慢練)のには意味があって勿体なわけではない。放鬆(ふぁんそん)した状態で、要諦を満たして動けばああなるのだと思う。

③なぜ持続できないか

私たちは運動というと一定の先入観がある。例えば次のようなものである。
A 目に見えて新しいことをクリアしたい
B 疲れたい・息を上げたい
C 筋肉をパンプさせたい・ 強い負荷を実感したい
これはあくまで思いついた例だが、これらの習性は私たちの生活の中で刷り込まれたものだ。

A「目に見えて新しいことをクリアしたい」について

例えばピアノを習うとしよう。ピアノという楽器は大変便利な楽器で、どんな初心者でも指を乗せればその音がする。トランペットのように息しか出ないこともなければ、バイオリンのようにどこが「ド」なのかわからないということはない。
その楽器で、バッハの「メヌエット(ト長調)」を弾いたとしよう。右手で音が押さえられるようになり、左手もとりあえず音符どおり(楽譜どおりではない)弾けたとして、これは曲が弾けたことになるのだろうか。
さらに、これでよしとしてシューベルトの「楽興の時 第3番」に行って同じことを繰り返し、モーツァルトの「子犬のワルツ」に進み、ベートーヴェンの「熱情」を弾き、ショパンの「ノクターン」を弾きと進むと、その人は名ピアニストにはならないと思う。
音楽史的な位置取りや、バッハであれば内声的な表現にまで気がつき、自分の内発的な音楽とその曲の兼ね合いを自覚し、再び譜面の注記の細部まで理解し、曲自体に戻り、楽器の個々の特性や演奏会場や観客の要請を読んで、曲を崩すことなく、自身の内発性も表現しきるようなところまで行けたのをおそらくは「弾ける」というのだ。
ただ、指導上の問題(人間の向上は持続しない。飛躍的向上には断続的時間が必要になるなど)によって新しい課題に移っているということが気づけなければ、上達はない。名ピアニストはおそらく、幼児期に弾いたメヌエットに青年期にも、壮年となっても立ちはだかられるのだと思う。

中国武術に意拳という武術がある。王向斉という天才(王老師の存在は近代の気功の編纂にとって重要)によって創始された武術であるが、站樁(たんとう)功を中心とした(誤解を含んで言えば站樁功だけが必須である)武術で、分かりよく言えばひたすらに要諦を守って立っているだけである。站樁功で得たものを動作として練り、発力として試し、スパーリングし、また站樁功に戻る。
ここにスパイラルな円環(同じ点に帰ったときに微妙に上方に帰える)を見出さないと、この武術は理解できないし上達もない。
旧来の武術や芸事はひたすらに同じことの繰り返しで、基本の基本をひたすらに繰り返すものだという真理は、新しい課題をクリアすることをよしとする刷り込みの中で忘れられている。

B「疲れたい・息を上げたい」について

疲労というのは、確かに達成感を生む。他人から見ても、額に汗してふうふう言っている状態は「ああ、あの人頑張っている」という評価につながりやすいが、自分だけの感覚に返ると一つの仕事が終わったときに、まだみなぎっていてどこからともなくやってくる活力を実感しているときの方が、あとからみて正確で上出来な仕事だったということは往々にしてある。
成果の評価ではなく、疲労度の評価をそれに代替させるというのは実際には生産性や向上とは無関係である。
他人の視線を借用するか、自分を極めて近視眼的に客観視すれば、キラキラとひかる汗を流し、疲労困憊している自分は美しいといえる。
また、息が上がる状態とは、必ず無酸素運動の部分を経由するので、有酸素運動の継続という課題にそぐわない。
以前ご指導いただいた中国武術の先生も「型が崩れるのであれば休みなさい」と言っていたし、そのことがさらに切実になるトランポリン競技(あの高さから事故を起こすと選手生命どころか実際の生命に関わる)の指導者の方が「集中がいるので練習は2時間」と仰っていたが、実際気功も、特に熟練すると実感できることだが、極めて危険(やり方を間違うと偏差に陥って、健康や精神を害したり、場合によっては死に至ることがある)な部分がある。そうだからこそ効果も大きいのだが、だからこそベースのフォームを崩すのは極力避けなければならない。
さらに言えば、実際の健康スポーツの世界でも、ジョギングからウォーキングへとシフトしているのは、急激に心拍数を上げたり、非常に脈拍の高い状態を保ったりすることは健康に益がなくむしろ危険(ジョギングの教祖ジム・フィックスはジョギング中の心臓発作で他界している)だからだということも述べておく。

C「筋肉をパンプさせたい・ 強い負荷を実感したい」について

以前、八卦掌を習っていたときに、老師から「日本人でまだ下盤(低い姿勢)ができる者はいない」と言われたことがある。普通そう言われると挑発かと思うのが普通であろう。実際に姿勢を低くするだけなら容易だからだ。しかし武術には守るべき要諦がある。その要諦を全て守ったら、おそらく普通の人(ある程度、運動歴はある)なら通常の高さで立っていても一歩も動けないはずで、動けたとしたら守れてないのだとわかれば、ただ闇雲に姿勢を下げることが無意味なのはわかると思う。
姿勢を下げたときに、太ももにくる、膝をやられるというのは正しくない。脛と脹脛(下腿)や足(脚ではないし、指でもない)の筋にくるのが正しい。
私は時折、山に出かけたりするが、山で猿に出くわすことが多い。彼らの体幹は実によく脱力していて、ちんまりと座って木の実やらを食べているのだが、人間である私が彼らの警戒ゾーンに入るとその鮮やかな腰と背中の力で飛び上がり、駆け出し、姿を隠す。彼らの胸筋はパンプしていないし、腹筋も割れていない。
また、よく蛇を見るが、彼らの動きも驚くほど速い。当然彼らには胴体しかない。
いわゆる筋肉美の概念(aesthetic)によって、スリムな健康美やパンプした偉容を誇ることを否定しない。それは一つの達成だと思うが、猿の動きを自分の身体で再現したい、熊の破壊力を会得したい、鶴のように優美でありたいという思いはaestheticが異なるので、そこには重ならない。
極めて語釈的な話だが、中国文化における筋骨の筋とは「腱や筋膜」を指す。いわゆる筋肉は肌肉となるので概念的にも異なる。

③ここまでのまとめ

私はいわゆる西洋的なトレーニングを否定はしていない。一定の制限の中で速く走る、高く飛ぶ、重いものを持ち上げる、速く泳ぐ、遠くにものを投げる、ルールに従って球技を行うなどの上達にはその競技に従った訓練が必要なのは言うまでもない。
気功には硬気功や軽身功のようなものもある(習ったことはない)が、それはそのまま現代の格闘技や高跳び他のスポーツに活かせるとも思っていない。
たとえば、知能指数や作業能力が数値上向上しても、知能指数が180を超えても、有益な教材や学習内容に出会わなければ、またそれを習得しようと取り組まなければ、学業成績は向上しないのと同じである。
気功を練習して、気感を得て、気脈や経絡の意味を熟知したとしても、正しいコーチについて練習をしてしなければ、スポーツには活かせない。
ただ、知能指数が高くなれば学習能力も向上するので、より早く、より深く物事を理解することが可能なように、高まったベースの身体能力によって競技力の向上は早まるし、練習も効率的に行うことができる。
潜在的なポテンシャルを活用することで、実際のポテンシャルの向上と競技力の向上が両立する。また、気の運行や状態を自覚できるという第2の視点から自己評価できるので、振り返りとしても有効である。
これらは、今回運動についての視点で書いたので運動に特化しているが、実際には、知能、技能などさまざまなパフォーマンスで同じ効果がある。このことは練習者として実感がある。
さらには微感覚の自覚などが起こるので、意識していただけでば、自分の変身をかなり楽しむことができるのである。

追記

人間、自分の体の実感(感覚)を得られるといいことは重要なことだが、実際には自身の実感よりも他者の言説が優先させることが多い。「科学者の発言を信じる」教(科学を理解するとは別の極北)の方が、言われるとおり1日1万歩歩いたが健康にならないとか、○○サプリメントを定量飲み続けたが改善しないとかはよくある話だ。
歩くより踊る方が向く人もいれば○○より☆☆の方がその人の体質には合うということは本当によくある。でもある種の原理主義的「信じ込み」が実感を打ち消すことも本当に多い。
気功は生命力を賦活させるが、それは一面「気感を理解する」からであり、もう一面は自身の問題を的確に把握するからである。
より多くの方が、全身の全ての細胞に生き生きとした酸素を送る生活をされることを望む。


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