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~私のファミリーヒストリー~父方・祖父の戦地からの無事帰還、母方・祖父の終戦直前の赤紙招集、2人の伯父の幼き死から両親の誕生、私までの紡ぎ秘話

今日は8月15日はお盆、そして終戦の日ということで、台風の影響で一部地域で中止となった地域もありますが、全国で戦没者の慰霊式典がありました。
さて、昨日のNHKのファミリーヒストリー「草刈正雄〜初めて知る米兵の父 97歳伯母が語る真実とは〜」を私も視聴しておりましたが、非常に心にグッと来るものがありました。
本番組を観て、私が生まれて来るというのは決して容易いものではないことを思い出されます。
お盆ということもあり、先祖のことを振り返りつつ、自分の誕生について考えてみます。


祖父(父方)の戦地からの帰国

私の祖父は大正3年の津島市生まれ。4人兄弟の末っ子で実家は当時、機織り屋をやっており、大層裕福な家でした。祖父の父である曾祖父が生きていた頃は天王川公園のオートバイレースに出るなど、言い方が悪いですが、ボンボンでした。

戦前の天王川公園ではバイクレースが盛んでした。
参考:【公式】ビンテージバイクラン in 津島 | 天王川公園

しかし、曾祖父の死去で家が貧しくなり、祖父も今までの生活が一変します。日中戦争の志願兵になったのは自分が生きていく上での術だったのでしょう。相当勉強したそうで、陸軍の飛行機の操縦士となり、近所のお年を召された方の逸話では、日本を離れる際は母校の蛭間尋常小学校(現・
蛭間小学校)の上空を旋回してから戦地に向かったとか。
その後、終戦となり、戦地から引き上げる人が増えてきました。ただ、祖父は待っても待っても帰らず。妻である祖母と娘である伯母は名古屋港や舞鶴港へ新聞で引き揚げの報道があるたびに出かけたそうです(祖父母は戦争前に結婚)。でも、何度足を運んでも会えることなく、祖母は祖父の死を覚悟したそうです。が、ある時、忘れかけた頃にひょっこり自宅がある最寄り駅の蟹江(現・JR)から歩いて家の近くまで帰ってきて、川のほとりで座っていたとのこと。

東舞鶴から蟹江までのルート

この時、祖父が舞鶴(東舞鶴駅)からどうやって蟹江まで帰って来たか気になるところですが、おそらく敦賀経由で帰ってきたのだろうと推測しますが、いずれ検証したいところです。
もし、祖父が無事に帰って来なければ、伯父(6歳の時に死去、後述)と伯母2人と、そして父が生まれてくることはなく、当然、私までつながることはなかったでしょう。

祖父(母方)の終戦直前の赤紙招集

終戦直前の赤紙招集。

母方の祖父。大正15年の蟹江町生まれ。
もともと舟入地区の漁村の生まれでした。もともと胃下垂で体が丈夫ではなかった祖父。しかし、終戦直後は戦地への兵士が不足し、それまで対象でなかった男性にも赤紙招集が届くようになります。そして祖父へも。
祖父もおそらく覚悟をもって戦地へ向かう気持ちになっていたと思います。
ところが戦地へ向かうその直後、日本は降伏し終戦を迎えます。
戦時中は、戦を拒むことは非国民だと言われてきましたが、祖父が戦地へ行かなかったことでその後の母へとバトンが繋がったと思います。
日本でも現在でも老若男女問わず、思想的に「国防のために戦をすべきだ」という声も少なくありません。しかし、個人的な思いですが、自分の先祖を思い浮かべ「戦とは何ぞや?」という上でその可否をしなければならないと私は考えます。

伯父(父方)の幼き急死

父の兄弟は正確に言えば5人(女・男・女・女・男)です。
しかし、先述のとおり、兄である伯父が幼くして亡くなっています。

熱中症は死に至ることも

ただ、これは父が昭和29年に誕生する1年以上も前の話。今年の夏も暑いですが、その年も暑かったようで、帽子を被らずにこそっと遊びに行くことが多かった伯父はある時、昼間、熱中症に罹り、そのまま夜に帰らぬ人となりました。その時、母である祖母は深い悲しみに。

その後、子どもが授かったのですが、私はこういった考えは嫌いですが、当時は男が家を継ぐものだという固定概念が強い時代。「また女だったら」と産むかどうか迷ったそうです。近所の人に「せっかく授かった命なので産んだらどうだ?」と。そうして生まれたのが私の父です。
伯父の急死があった上での父の誕生。命は尊いものだと感じます。

伯父(母方)の死産

母は昭和30年生まれ。早いものであと2年で70歳となりますが、まだまだ元気で地域の子育てのボランティア活動に関わる日々。
母は4歳年下の弟(叔父)と2人兄弟ですが、本来なら3人兄弟なのです。
実は母の前に兄である伯父が存在したらしいのですが、祖母が母の兄(伯父
)を妊娠中に流産してしまったそうです。

伯父を流産

この時、妊娠しながらも祖母は働きながら忙しくしており、その時無理をしてしまったそうで、私の母を身ごもった時は安静にしていたそうです。
もしも、なのかもしれませんが、この伯父が無事に産まれていたら、これも私までつながっていなかった可能性があります。やはり命は尊いものだと感じます。

こうして、両親はお互いに別々の家庭で違う学校を卒業したあと、職場で出会い結婚して、私と弟が生まれるわけですが、そこに至るまで祖父が戦地から無事に帰ってきたり、伯父の死去があったりと、いろいろある中で今の私があるのだと思いました。不幸があったりすると、悲しいことがありますが、それに対して幸せが訪れることもあります。
父のいとこがお寺の住職をしているので、このお盆の時期になると説法で「仏教には”宿縁と宿業”があり…(略」という話を聞きますが、こういった部分で人が紡いでいくのだと思いました。
私も40歳を過ぎて体力が落ちてきたこともありますが、ダラダラ生きるのではなく、1分1秒をなるべく自分で充実したものにしよう、それはこういった話が元にあったからということもあり、年齢を重ねるにつれてそれを体感することが増えてきたことで、そのように生きていこう、そう考えたからでした。

長々と書かせていただきましたが、お盆と終戦ということで自分がちゃんと覚えているうちに記しておきました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。


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