パイプの浮かんだラーメンを食べた夜
2014年の冬、わたしは鬼のように仕事をしていました。
フリーランスの性ともいえますが、次から次へと依頼をいただけることがありがたく、返事は「Yes」か「OK!」のみ。
いま考えると、仕事をすることが楽しかったというよりも、急成長中の事務所の内情を知って同情心がわいたから、だったのだと思います。「No」と言うことがつらかったし、お役に立てるなら少しでも……という思いでした。
ある日のこと。終電間際に最寄り駅まで帰ってきて、一日なにも食べていないことを思い出しました。そういえば、昨日の夜も食べてない気がする。いや、仕事しながらバナナを食べたのは、昨日だったか。一昨日だったか。
急にモーレツな空腹に襲われ、駅前のラーメン屋さんに入りました。
こんな時間にラーメンなんて、と思わないでもなかったのですが、なにか食べておいたほうがよさそうな気がしたからです。
ほどなくして運ばれてきたラーメンには、葱とチャーシューと、そして「パイプ」が浮かんでいました。正確には「ジョイント」というそうですね。塩ビ製の、こんなやつです。
湯気を立てているスープと麵、葱とチャーシューと、そして「パイプ」。しばらくその光景をじーーーっと眺めていました。
で、わたしは箸をとりました。
そのまま、「パイプ」入りラーメンを食べました。
「取り換えてください」と言ったら、また5分は待たないといけない。お腹が空いた。明日は9時に現場入りするため、7時過ぎには家を出る予定で、6時には起きないといけない。そして、家に帰ってから、まだ4時間はかかる仕事が待っている。お腹が空いた。お風呂にも入りたい。お腹が空いた。明日、まともに仕事をするためには、4時間は眠っておかないといけない。お腹が空いた。もうずっと本も読んでない。お腹が空いた。そういえば今日は、目医者さんに目薬を取りに行かないといけないんだった。お腹が空いた。
どうやっても数字の合わない計算が頭の中をグルグル回っているだけ。目の前のラーメンをどうしたらいいのか、分からなくなっていました。
「パイプ」から一番遠いところをすくい、フーフーして食べたラーメンは、何の味もしませんでした。三口だけムリヤリ飲み込み、レジに向かいました。
厨房から出てきたおじさんは、ほぼ運んできたママのラーメンを目にし、そこに「あるべきでないもの」を見たのでしょう。小さな声で、
「あ」
と言い、わたしの顔を見て、すばやく目を逸らしました。「味噌ラーメン、900円です」という言葉に従い、お金を払って店を出ました。
人間じゃなくなってしまった。
そんな言葉が、いま飲み込んだラーメンと一緒にこみ上げてきました。
急いで帰らないと、と思いつつ、タクシーには乗らずに歩いて帰りました。冬の夜空に星はなく、キンキンに冷えた夜の街を、わざと外灯のない、暗い道を選んで歩きながら、ずっと涙を流していました。
「No」といえない自分も、「あ」と言って目を逸らしたおじさんも、哀れに思えて仕方がなかった。言いたいことがあっても口にできないこと。言わないといけない言葉を失ってしまったこと。たぶんとても大事なことから目を逸らしていること。
もっと、ちゃんと、人間として生きたい。
人間として生きよう。
そう決心したとたん、すべてが変化しました。考え方次第で、ものの見方が変わるって、本当にそうなんだなと思うくらい、劇的に。
スピルバーグ監督の「ジュラシック・パーク」で、マルカム博士が口にするセリフがあります。
「生きる人生」を選べば、必ず道は見つかる。選ぶのは、自分。
「パイプ」の浮かんだラーメンを食べた夜のことは、10年近く経ったいまもよく覚えています。
星の見えない夜空。暗闇に浮かんでいた自販機の灯り。鞄が重かったこと。むくんだ足にブーツがきつかったこと。風が冷たくて、鼻が凍ったこと。涙が止まらなかったこと。
あのとき、「人間として生きよう」という選択をしたから、今も生きています。これが、わたしの原点。
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