様々なる衣装(意匠)
白島 真
毎月多くの詩誌が届けられ読んでいるが、その形状や装幀も様々である。ハッと目を引く表紙もあれば、ワード出力用紙をホチキスで止めただけのものもある。
これから詩誌を創刊される場合、やはり郵送料を考慮して制作する必要があることは言うまでもない。同人誌間の交互送付が盛んである現状を鑑みると、高額な郵送料は負担が大きい。
よく目にする形状はA4用紙を三つ折りにしたもので、「風化」45(上越市・鮮一考)、「4B」18(東京・中井ひさ子)、「詩の鍵穴」9(柏市・柏木勇一)、「ライラック」10(前橋市・房内はるみ)などが上げられる。「Rurikarakusa」(東京・青木由弥子)や「composition」(さいたま市・葉山美玖)なども同型である。A4用紙の厚みや何枚使用するかで重量感の違いが出るが、いずれにしろ送料は安価だ。
『4B』から中井ひさ子「晴天」全行。
雲一つない日は
陽ざしに境目がうすれていく
空から
黒い蝙蝠傘をさした人がおりてきた
上の世にすべて置いてきた
身一つの身軽さ
なのに
下の世ではなじめるだろうか
だなんて
迷う足の先が冷たい
つぶやく言葉が落ちてくる
傘のなかって思いがゆるむんやな
言葉を拾いながら見上げる
その人は
足が地に着くと
畳んだ蝙蝠傘で
地面を確かめるように
二度たたき
後ろ姿のまま消えた
何を思い切ったんだろう
何を見つけたいんやろ
わたしがおりてきた時の
蝙蝠傘は
納戸にしまったままだ
我々は身一つでやがて誰でも旅立っていく。ここは身一つで誕生してきたというより、逆転の発想と捉えたほうが面白い。蝙蝠傘は手術台でミシンと出会ったり、風変わりなサティの部屋に遊びに行ったりと妄想が膨らむ。
はがき大の詩誌も散見される。今、手元に届いているのは「くり屋」85(広島市・木村恭子)ゲスト山口美沙子。「月の未明」5(さいたま市・原島里枝)ゲストあおい満月。前者ははがき2枚分の用紙3枚を半分に折ってホチキスで中綴じしたもの。
後者ははがき4枚分の大きさの紙を横に並べ糊で接着して蛇腹のように折り畳んだ形状。「月の未明」と書かれたロゴが1枚目に折り返しとしてあるのが心にくい造作。原島の「内界の川辺」は3連構成の散文詩だが、その2連目を引用する。
川辺の堤防までいくと、そこはもう広い川幅と、遠くに見える対岸です。
内界で此岸に生きる私と、私から切り捨てられた私の死体がうず高く積み上げられた彼岸との、唯一存在が合間見え、死体たちが蠢き出して此岸に渡ろうとする場所でもあります。
あなたは私でもありますから、命は繋がっていて、私が生きているならあなたがたもまだ生きている死体なのです。名を剥ぎ取られ、肉を切り刻まれた、滴る赤い血は終わることを知らず、川を赤く染めていました。
原島の詩は痛い。痛いが不思議な静謐さに溢れているのは、己が修羅を見定める着眼点が固定されているからだろう。
「ハルハトラム」1・2(東京・北爪満喜)
「現代詩の会」という合評会参加メンバーで制作された詩誌。北爪を中心に小川三郎、沢木遥香、水嶋きょうこ、長尾早苗など10名以上が参加。ハルハトラムという詩誌名には特に意味はなく音がいいのでメンバー全員で決めたとのこと。私は映画ハムナプトラから創造神話ともいえるエジプト神話を連想してしまう。またトラムには路面電車の意があるので、春の電車も想起する。表紙は抑えたトーンの一色に詩誌名が白抜きされおしゃれだ。2号は時節柄、オンライン合評会だったそうだ。創刊号から北爪の「結び目」を全行引用する。
口を閉じている木々の夜
畳まれた小さな紙の
思いを開く指が
書かれた拒絶の言葉を
読ませる
混沌もしらない澄んだ泉を
湛えているから
そんなことができた
温かい泥を洗い流して
冷たい光に包もうとする
両端を切られた結び目だけを
手渡され
否と噤むそれが
凍っているのに
温かい
作中主体と対象の人称が意図的に伏せられているので、詩誌名同様に想像が膨らむ。満ち満ちた暗喩の中でたたずむ少女を連想する。思春期の少女は残酷だ。そして酷薄の美を携え、遠い木々の夜を抜けてやってくる。2号から参加の長尾早苗「春の波」、一部引用。
(・・・)どんな感情だってみんな持っている一面だから
人間はとても汚くて美しい
毎日生きるということは毎日死ぬことに似ているから
怖くなって目をつむった瞬間に
唇に唇が重ね合わされることもある
私、生きてる
私、生きてる
冬から春へ
命をほころばせて笑う花のように
私、生きてる
私
生きてる
終わりを見なくてもいい
ただ私に遺されたのは
母の胎にあった宝の地図と
父から渡された望遠鏡だけ
さあ船出だ
出航の日だ
春の波が押し寄せてくるとき
私は口笛を吹きながら菜の花の海の上にいよう
何度恐ろしい悲しみが私を襲っても、菜の花は黄色く私を包む
いくつもの別れと
いくつもの出会いに
すべてに恋をしながら
有無を言わさず力でぐいぐい生の明るみに連れていかれる。谷川俊太郎は「生きる」、友川かずきは「生きてるって言ってみろ」で絶叫したが、長尾もまた。
「極微」5(東京・佐野豊)
佐野豊、小田原慎治、篠田翔平、森田直の4人誌で、東京の古書店などに置くフリーペーパーであるが、有料でも見合うくらい詩のグレードは高い。しかも分担して一軒一軒足で書店を回っている。詩が普及していく意味でも大いに意義深い。今号はホチキス止めされておらず、どうしたんだろうと思ったら、A3用紙2枚をうまく折って佐野、小田原、森田は通常の頁(A5)、篠田はA3を全面に使っての長編詩2篇。表紙はその展開の仕方をデザイン化していて、発想が柔軟だ。最近独自の世界を構築しつつある佐野の「電話」を全行引用する。
ボートが揺れて
こわくて乗れなかった
あのまま乗っていれば
たぶん落ちていた
はじめて親友と呼べたきみと
遊んだふゆの日
もう
とっくにきみはいないし
まして僕だって
ほとんどきみを忘れて
毎日を過ごしているというのに
十二月
一年がおわる頃になると
きみとの電話がはじまってしまう
最近はね
不思議な人と知り会ったよ
おかしなことだけど
そのひとがきみのような気がして
拒んだ電話は
もうとりにいけない
相変わらず
職場で
あたふた電話対応して
束の間の昼休み
一本電話したくなる
なぜか
まだ間に合うような気がしている
ぼくが今度はコールする
日常の何気ない一瞬をじつにうまく捉えている。この詩を読んだ誰もが作者あるいは作中主体が元友人に電話したとは思わないだろう。主体も親交は既に終わったことはよくよく承知しているのだ。しかし、ふっと似た人をおそらく実際に見て、懐かしい気持ちになることは誰しもが経験することではないだろうか。そこに詩が一瞬生成される。佐野はそれをうまく表現している。
「表象」173~176(山形県鶴岡市・万里小路 譲)
一番取り上げたいのは176号。
1947年、山形県天童市生まれの赤塚豊子という詩人はまったく知らなかった。以下は万里小路の文章からの概要。1歳のとき小児麻痺(ポリオ)と診断。歩行不能、発声機能麻痺、左半身麻痺で就学を断念。彼女の視野に入るのは両親に負ぶわれた時の景色のみだが、ポリオは脳性麻痺とはちがうので、詩作などはできた。しかし、自分で書き留めることは無理で、22歳のとき、カタカナタイプライターを買ってもらい、全身をあずけるようにして体重をかけ一文字、一文字を休み休み打ち込んだ。1972年25歳で病状悪化のため他界。撮影された写真はことごとく破棄されており、自分の存在をこの世から消したかったのではないかという。1973年菅野仁編集でカタカナ横書きの『アカツカトヨコ詩集』刊行。その後、1987年、永岡昭企画でほぼ全作品が詩集になる。この詩集はカタカナの一部を漢字に直してあるとのこと。そして2017年版では再び永岡によって、カタカナが、ひらがなと漢字に変換され、横書きから縦書きに編まれ直している。
カタカナ表記はより怨念のような叫びを感じさせるだろう。しかし、赤塚が現代に生きていればカナタイプライターではなくパソコンを使用し、ひらがな漢字交じりで詩作しただろうと推察した上での新版である。3通りの表記が遺稿集にあるわけで、読者が自由に書式を変奏できる世界初の詩集と位置付けている。
私は歩く
わたしは歩く 幻の足で
そう 幻の足で歩くのだ どこまでも
田舎道のようなでこぼこした人生の道を
たとえわたしの肉体が燃える炎のなかへ消えても
わたしによってつくられた幻の足は
歩きつづけるだろう
わたしはよじ登るのだ 力のあるかぎり
曲がりくねった山道のような人生の道を
たとえ私の遺骨が黒い土のなかへ消えても
わたしの魂は幻の足の動きを止めないだろう。
「人の存在とはこの世に生きた履歴である以上、肉体ではなく霊性による存在は永遠を生きる。」と万里小路は記す。父が豊子に買い与えた手乗り文鳥ポピーの詩も掲載されている。「わびしい人生を おまえとわたしで 負っていこうね」とかわいがられたポピー。しかし22歳の夏、赤塚家に守り神のように棲みついた大きな蛇に、手も足も動かせず、声すら思うように出せず蛇に呑み込まれるポピーを凝視するだけ・・・。最新詩集を探して注文。現在、発送待ちである。
「御貴洛(おきらく)」(大分市・河野俊一)
当誌で詩集評を書いている河野の個人誌である。「五月の夜」全行。。
五月祭は
ヨーロッパのあちこちで行われるという
明るくなると
そんなに人は楽しいか
あちこちの国で
メイポールは切り出され
人々は
踊りを踊るほどまで
詩は夜作られる
夜を待って
降りてくるミューズもいる
窓の外には静寂が広がり
景色さえも帳が静寂にしてしまう
その時を見計らって
私は一枚の静けさの皿になる
滑らかな世界をなぞる夜には
闇の表面にも無数の傷があることを知る
日が長いことをたたえる言葉が
いくつも通り過ぎていく五月に
いくつもの木の枝が切られる五月に
「時刻表」7(神戸市・たかとう匡子)
新たに加わった内田正美の巻頭詩「生きとし生けるもの」が良かった。畑の日常的な事実を淡々と積み上げていく詩行。
最後に
すべてのものが埋葬される
音のない世界に ときおり
青空に白い航跡を残して舟がわたる
見事だ。前述の詩集評でも最新詩集『野の館』が取り上げられていた。
「OUTSIDER」5(諏訪市・宮坂新)
Twitterで詩を書くメンバーに編集の宮坂が声をかけ参集。各詩誌での投稿入選者も多く、読み応えのある詩誌となった。
キドコロアツシ、西村エリ、白島真、あさとよしや、石村利勝、宮坂新、高嶋樹壱、クヮン・アイ・ユウ、吉岡卓、村田麻衣子(フランス在住)、北上郷夏、牧村燈、早乙女ボブ、武田地球、日疋士郎、鈴木系、ひだり手枕、加勢健一、藪下明博、伊藤大樹が参加。アマゾンのオンデマンドという新方式をいち早く採用。西村エリ「遺失」を全行引用する。実兄への挽歌だ。
扉(ドア)を開けると
行方不明の友人が立っている
鳩羽色のシャツの裾から
かすかに水のにおいがする
「どこにいたの」
・・・・・・・・・・・
「ずっとそこに」
目を上げると
時計の針は
十二時を指している
解剖されたあの路の家の屋号を
誰もおぼえていない
教えてくれ
愛しいものほどたやすく
滅び去るのはなぜか
*文中、敬称は省略させていただきました。
*『詩と思想』2020年7月号詩誌評のアーカイブです。
*掲載時、詩引用の「/」や「//」は改行形式に直してあります。
*8月号アーカイブUPは11月20日ころとなります。
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