人の生き死にのように詩誌の歴史も


            白島 真


 コロナウイルスが猛威をふるっている。4月1日現在で感染者数521人の東京を筆頭に大阪・愛知・北海道・千葉・兵庫・神奈川・埼玉が100人越えである。詩誌名や発行場所、詩人名を新たに覚えてきているが、都市名が出ると具体的な詩誌も浮かび、大丈夫だろうかと心配にもなる。早く収束して欲しいものだ。エイプリルフールの日に、国がマスク2枚を全家庭に配布と決めた無策とも思える政策も記録としてここに留めておく。
 詩誌の高齢化対策として若い方の誘致や活躍が望まれるが、その観点から3誌。

☆「北の詩手紙」27(秋田市・田口映)
 地元の高校文芸部の作品を4校5人も掲載したり(特別付録含む)、『歴程』『密造者』同人の寺田和子が「超入門!一行からはじまるやさしい現代詩・Mini Workshop」のリポートを寄稿している。

秋の気配が優しく交差する
まだ青い稲穂も子どもも陽に溶けて
流れる水の輝きは少年の未来
グリーンにひろがる風景に心がすくわれた
建物の影、子どもを呑む
実りの秋日差しに影も熟れて飛び立ちたがっている

 これは一人一行の短冊を書き、出来た順に短冊を繋げて一編の詩にしたものだ。同様にいくつかのグループの作品も掲載されている。田口は言う。「ささやかな企画だが、詩を軸にした全世代型交流は、地域の諸課題をクリエイティブに解決するポテンシャルを秘めた取り組みでもある」ヴェテランと若い世代の書き手の交流を地域に拡げる素晴らしい試みと考えるが(参加者は15歳~91歳)、前号でこの問いを発したところお叱りも受けたとある。前号を拝見してないので詳細は分からないが、これからも前向きに是非、取り組んで戴ければと考える。chaa「駆ける女」も良かった。

☆「月刊ココア共和国」創刊号(仙台市・発行・秋亜綺羅、編集・佐々木貴子)
 死にたいと生きたくないは違うもの午前七時のアラームが鳴る(鈴木そよか)
 ハイティーンの詩人・歌人3名の作品や、私も熱烈なファンである秋吉久美子や高階杞一などの招待詩もあり、気軽に詩を楽しむコンセプトで創刊された。次号からはより投稿詩に力を入れた編集となるようで、複数回投稿者には、YS賞(20歳未満対象)、秋吉久美子賞、いがらしみきお賞に自動的にノミネートされる。賞金は何と各20万円。秋亜綺羅とは70年代初頭、東京で彼が主宰の「ふぁず」という同人誌でご一緒したり、W大学文化祭での朗読会に参加したことがあるが、とても誠実なお人柄で多くの若い詩人の中心的存在だった。そのカリスマ性に現在の若い詩人たちが投稿を通してどんどん集結していくことを望む。

☆「anniversery」(東京・慶応義塾大学)
 この詩誌評を書いている途中で、慶応大学で詩の授業をされている笠井裕之教授よりご恵送戴いた。同大学日吉キャンパスで開講された授業(人文科学特論―詩を読み、詩を書く)の成果として編まれた詩誌。勿論、インカレポエトリに参加している学生も多い。編集に6名の学生の名が上がっており、それぞれの作品に対して評してみたい。内田美鈴「娘の顔が見たい」の娘が実は自分であったという意外性、「むかし話」は同じ語句を繰り返すことでよいリズムが生まれている。インカレ〈蟹〉の「告白」と同等に完成度が高い。金古理彩「救世主」が蒸しパンであるという面白さ。
     佐々波美月「嘔吐」




あなたの詩に登場するあなたが
すべてわたしであればいいのにと思った

月光が延命してる教室
わたしのものでない制服と
わたしのものである香水に
つつまれた
あなたがいる
美しい温度でした。
この部屋は、おそらく無菌
ふたり、机の上に
立って
一礼
背徳的ね、と微笑み
それから
手を差し出した                     
        (嘔吐 出だし3連部分引用)

 前半、無駄のない詩句で惹きつけられる。四ノ宮凛は〈蟹〉にもあった「はぁと型の垢」が確かによく纏まっているが、私は「事。事。」のような殴り書き感が好き。言葉を整理しない中から思わぬ詩的感性が覗く現場を見たい。爲金まりえ「あ、の回想」は〈蟹〉でも読んだがやはりいい。「あ、まぞら」「あ、んまりだ」「あ、あ、さひ」など。そして終連「ああそれと、あ、さがおが咲きました」。あを重ねてリズムがいい。吉永太地「ギャルの詩」ギャル語だけで書いた詩も実験詩として成立する。    
他に瀬崎結花のユーモアあふれる言語感覚、川上ゆきの「世」シリーズに、言葉と真摯に向かいあう姿勢を感じた。皆さん、社会人になっても詩を書き続けて欲しい。実力派の詩人4名が寄稿している。

☆「銀河詩手帖」298(大阪市・近藤摩耶)
 発行創始者(1968年)である東淵修が亡くなって12年の13回忌だそうだ。近藤のエッセイ「お母さんへ贈る想い(「銀河・詩のいえ」設立構想)を読んで、一つの詩誌の歴史の重さ、深さを知る。創刊時の編集スタッフに村田修、支路遺耕治、山内清とあるが、つい先日、先輩詩人から戴いた『幻のビート詩人、支路遺耕治・川井清澄読本』を紐解いていたところである。(ちなみに支路遺と川井は同一人物である)1999年発行のものだが、奥付の協力の項目に東淵修の名が見える。近藤のエッセイには村田修の「おかあちゃん忌のこと」全文が引用され、興味深く読んだ。

☆「豹樹Ⅲ」31(神戸市・松本俊治)
 瀧神雅子の「白い花」が良かった。全篇。

みんな若く
ポップコーンのように
跳ねていた
陽気に?
もう一度会いましょうの
君の言葉は
約束ではない
磨りガラスの向こう
白い花が咲いていたと
言っているのだ

 終行の「言っているのだ」がなかなか出ないフレーズだ。言葉を突き放したような距離の取り方が、不思議な詩空間を生み出している。

☆「千年樹」81(長崎諫早市・岡耕秋)
 創刊20周年(20年輪)記念号である。
2000年2月22日に岡の個人誌としてスタート。たくさんの同人が20年輪記念エッセイを書いているが、創刊からのメンバーである鷹取美保子の「木から樹へ そして」に目が留まる。岡の更なる歩みを思って生まれたという詩篇「不意の贈り物」が創刊号に発表されたとある。抜粋する。
 

「待つことも大切な進化だ」と言ったのは、確かに私であった。
(・・・)死をかかえこんで生き続ける老樹。萌芽し、更新するもの。赤い裸身をさらし、皮を脱ぎ棄てては、再生を繰り返す裸の木。孤立樹。着生樹。陰樹。陽樹。若木。巨樹。
樹が、誇り高い働き者であるなら、私も異形の樹となろう。百年。いや千年。待つ。(・・・)


 20年も前に発表されたとは思えない現在性を秘めた詩篇である。
 記念エッセイの最後に岡自身がここ20年の歩みを書いている。51歳の脳腫瘍発病から病魔と闘い、壮絶な生きざまが胸を打ち、引揚詩の記録へのこだわりの理由がよく分かる。その強い精神力が80代半ばの現在まで、総計82名の優れた執筆陣の形成に繋がったことは論を俟たない。
☆「交野が原」88(大阪交野市・金堀則夫)
 何を今さらだが交野は「かたの」と読む。ここに収録されている詩(詩・書評)の作品が、現在の現代詩の水準を決定する要素を多分にもっていると言っても過言ではないだろう。どの詩も独自性が強く素晴らしく1篇を引用するのが非常に難しいが、岩佐なをの詩を全行引用する。
           

          寂寞
『たんぽぽ』と書かれた
一冊を暗い机に咲かせて
彼は出て行ってしまった
庭にはかれを慰める風がふいているか
こころぼそくなりながら
まぶたを閉じた
くらがりで
花を下から読む
ぽぽんた
子狸の愛称のようだよ
「くすっ」と言って目が覚めたうしみつ
このうしみつとはいまや親しい
幼年のころはうしみつどきが怖かった
ひとつふたつほうらうしみつ
横臥をといて正座それから
ゆっくり立って小用をたしに
毎夜中出かける
いつまでいつまでこんなことを
うしみつの廊下を歩めば
あとから小さいぽぽんたがついてくる
扉を開き
便器に向かってかまえれば
ぽぽんたの影は背後でうすれ
けはいも消える
ぽぽんた
いない
蒲団へのかえりみちは
ひとり
じゃくまく

 たんぽぽをひっくり返した「ぽぽんた」でこれだけの詩が書けてしまう。吃驚だ。

☆「no-no-me」29(岐阜市・早矢仕典子)
 早矢仕と篠原憲二の二人誌。篠原は論考「ヘルダーリンの鼓動」を連載中。早矢仕のあとがきを引用する。「こうして病と付き合っていると(・・・)時には言葉によって昇華しようなどという悪あがきもしていた。(・・・)いよいよ死というものの影を傍らに色濃く意識しながら、それでも、次号の発行へ向けてそろそろと動きはじめる生の欠片の(「奇跡」のように)この場にうまれること。それをただ、息をするように繰り返す。」早矢仕の言葉は重い。体調が心配にもなるが、この生のギリギリの際で発する詩の言葉は深い。彼女の2冊の詩集『水と交差するスピード』『空、ノーシーズン』は以前に購入して愛読しているが、生活から詩を掬い取ることに長けている。


            百舌鳥
石の階段の下には
色鮮やかな自転車が 四台
階段の先の
見えない果ての小さな公園から
子供たちの声が響き
そろそろ 桜花も近いこのあたりに
短いスカートをはいた女の子が
人工の小高い丘の上に 立っている
声が はるか高いところから降って来て
この世界に
うまれてきたときのことは憶えていないけれど
もしかすると
こんなふうに 声のように空気をふるわせて降りてきたのかもしれない
ふ ふ
ふう けきょ
今年初の下手の声が聞こえる
うぐいす?
いいえ あれは百舌鳥
昨日たぶんこの雑木林に帰ってきた
一羽の      (全行引用)

☆「穂」35(島田市・井上尚美)
 井上他8名はすべて女性で、読ませる詩の書き手が多い印象。鈴木和子「尋ね人」、室井かずみ「くえちゃん」、岩崎和子「沈丁花」の「私」と「わたし」の使い分け、井上の「蛙かえらず」では蛇にのみ込まれる蛙のリアルな描写に自分を重ねる。先に共同墓地を購入した友人の誘いで、同墓地を続いて購入。「あちらでもご近所友達でいられるわね、嬉しい」とは友人の言。井上のエッセイがほほえましい。

☆「ガーネット」90(神戸市・高階杞一)

 毎号、真っ先に読むのが主宰の高階杞一の詩と、数号前から同人に加わった萩野なつみの詩。萩野の「彼岸」全篇引用。


どこにいるのかと問われて
ここにいると言えなかった
街が
すべての喉をゆっくりと洗っていく
うつくしく あるように
抱き寄せる
うたう
悲願、彼岸
絶たれる、という救いを
あなたの虹彩に見た

日照雨にけぶる路地に
やわらかく血が滲み
 (ここだよ、)
光ることに飽いて
背をなぜる
あらかじめ 遠いものとして

 タナトスへの憧れが昂じて、人は時として彼岸の眼をもつことがある。親しい友人や恋人、近親者を亡くしたときなどがそうだ。永劫の炎で肉体が焼き尽くされたとき、その人の喉から発したことばたちは、言霊となって街を彷徨っている。

☆「ネビューラ」71(岡山市・壺阪輝代)
 ネビューラは英語で「星雲」を意味し、SFファンには馴染んだ言葉だろう。壺阪、そして編集に携わる下田チマリ、中尾一郎、日笠芙美子の詩が、どれも簡潔な言葉遣いで印象に残った。中尾の「どこかで春が」の終連「ぽっ ぽっ/どこかで春が生まれているようだ/風の匂いがしている」は少女の聲に喚起された青春の回想であろう。回想こそは人間だけがもつ特権である。壺阪が長期間にわたる文学活動を通して、地域文化への貢献者に与えられる「第35回 聖良寛文学賞」を受賞したと日笠の編集後記にある。新潟の良寛が何故、岡山?と思ったが良寛は若い時代、岡山の曹洞宗円通寺で修業を積んだようだ。おめでとうございます。
☆「イリプス」30(奈良・松尾省三、澪標)
 詩とエッセイ、書評、小説を掲載した詩誌である。今号はたかとう匡子「蜂飼耳―「ラ・メール」以後・新世紀へ」と題された詩人論や松尾真由美「生み出すことの危機の相―アナイス・ニン「誕生」に寄せて」、倉橋健一の連載「龍生逝く・補遺」が読み応えがあった。詩は野沢啓、高橋冨子、渡辺めぐみ、今野和代、松村信人に注目した。
☆「Down Beat」15(神奈川・柴田千晶)
 廿楽順治、金井雄二、中島悦子、小川三郎の詩。近況報告では廿楽の「レム睡眠(浅い眠り)で記憶が消去される仕組みが解明されたことや、中島の詩集「暗号という」の表紙画にした画家、三上誠についての話に引き込まれた。

*文中、敬称は省略させていただきました。

*『詩と思想』2020年6月号のアーカイブです。
*詩篇はスラッシュを使わず、行替をしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?