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【日本の城】

▶︎現存12天守
【国宝五城】
姫路城
松本城
犬山城
彦根城
松江城
【重文七城】
丸岡城
弘前城
備中松山城
丸亀城
松山城
宇和島城
高知城

【世界遺産】
①姫路城(兵庫県姫路市)
②二条城(京都府京都市)
③原城(長崎県南島原市)
④首里城(沖縄県那覇市)
⑤今帰仁(なきじん)城(沖縄県国頭郡)
⑥中城(なかぐすく)城(沖縄県中頭郡)
⑦座喜味(ざきみ)城(沖縄県中頭郡)
⑧勝連(かつれん)城(沖縄県うるま市)


【姫路城】世界遺産 国宝五城

兵庫県姫路市にそびえ立つ姫路城は、1346年(正平元年)に赤松貞範(あかまつさだのり)が前身となる姫山城を築いて以来、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や池田輝政(いけだてるまさ)、本多忠政(ほんだただまさ)など、あまたの戦国武将によって「木造建築の傑作」まで高められた、日本屈指の名城です。
江戸時代初頭の城郭建築技術を極めたとされる姫路城は、外観の美的完成度の高さはもちろん、軍事的役割を兼ね備えた独自の構造が高く評価されています。1931年(昭和6年)には天守閣が国宝に、1993年(平成5年)には、奈良県の法隆寺とともにユネスコによる日本初の世界文化遺産に指定されました。
ここでは姫路城の歴史について、詳しく見ていきましょう。

姫路城の歴史
姫路城の歴史は実に長く、14世紀までさかのぼります。
鎌倉、南北朝時代の武将である赤松則村(あかまつのりむら)は、1333年(元弘3年)姫山に砦を築きました。のちに1346年(正平元年)、彼の次男である赤松貞範により改修された城こそが、姫路城の前身となるものです。
やがて時代がくだり、1467年(応仁元年)には赤松政則(あかまつまさのり)が本丸・鶴見丸・亀居丸を築き、その後は黒田重隆(くろだしげたか)、黒田職隆(くろだもとたか)親子の手によって、小規模だった姫山城は、山の地形を活かした山城に拡張されていきます。山城とは、自然の山を削り固めて、堀や土塁、平坦地などを造成した城郭のこと。南北朝時代や戦国時代には、相当な数の山城が築かれました。
そして、1580年(天正8年)に西国統治の拠点として豊臣秀吉が入城すると、さっそく豊臣秀吉は姫山の地を中心に城を大改修。城郭を石垣で囲い、太閤丸に三層の天守を建立し、姫路城と改名します。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いののち、三河国吉田から入城して城主となった池田輝政は、入城した翌年に城の大改築に着手します。実に9年もの歳月を費やして、1609年(慶長14年)に五層の大天守を完成させました。
その後、1617年(元和3年)に城主となった本多忠政により三の丸、西の丸が増築され、現在のかたちとなったのです。
なお、姫路城の天守は、1873年(明治6年)、1935年(昭和10年)、そして2009年(平成21年)と過去3回にわたって大規模な修復が行われています。中でも5年半かけて着工された2009年(平成21年)の「平成の大修理」では、屋根瓦の噴き直しと漆喰の塗り替え、構造の補強などが見直され、より美しい姿となって、再び私たちの前に現れました。

姫路城の特徴
標高45.6mの姫山に位置する姫路城は、国宝5城の中でも最大規模の天守を持つお城です。
築城以来、大きな戦災を受けず、大天守や小天守、櫓などおおよそ100棟近くの建築物が現存していることから、「不戦・不滅の城」と呼ばれています。近世城郭の比類なき最高傑作として、1993年(平成5年)には、世界遺産にも登録されました。また、日本の城の集大成とも呼べる姫路城は、白漆喰で塗り込められた外観が、まるで羽を広げる白鷺の群れに見えることから、別名「白鷺城」とも呼ばれ、親しまれています。
これは、池田輝政が築城した際に、「白漆喰総塗籠造」(しろしっくいそうぬりごめづくり)という方法で、城壁や屋根瓦の目地を白く塗り込み、今の姿となりました。
姫路城の天守は5重6階の大天守と3つの小天守(東小天守、乾小天守、西小天守)が渡櫓(わたりやぐら)でつながった連立式天守です。いくつもの屋根や唐破風、千鳥破風が重なり、白漆喰の城壁と相まって実に美しい構成を成し遂げています。
もちろん姫路城は、ただ優美で華やかなだけではありません。

上山里曲輪
古くから姫路という土地は、西国諸大名の動向を監視するための重要な要衝でした。城郭は「曲輪(くるわ)」と呼ばれる石垣や塀で囲い、天守曲輪を中心に二の丸、三の丸を螺旋状に配置した縄張が築かれ、さらに大小の曲輪で区切ることによって、まるで迷路のように入り組んだ構造を実現。これにより敵の侵入を防いでいたのです。同時に、石落としや矢狭間、鉄砲狭間など敵を攻撃するための軍事設備も備わり、優れた要塞としての機能も果たしていました。
姫路城は、天守が残る現存12天守のひとつとしても名高く、大天守・小天守・渡櫓などの8棟が国宝に、また渡櫓や門、塀など合わせて74棟が重要文化財に指定され、今も多くの観光客を魅了しています。

【松本城】国宝五城

長野県松本市のシンボル「松本城」は、1504年(永正元年)に前身となる「深志城」(ふかしじょう)を築城したのが始まりとされています。1582年(天正10年)小笠原貞慶(おがさわらさだよし)により、深志城から松本城へと改名。その後、小笠原氏、石川氏、戸田氏など城主が移り変わり、およそ500年以上もの歴史を持つ古城となりました。
松本城は、日本に現存する十二天守のうち、5層6階の天守を持つ最古の城として知られています。1929年(昭和4年)に制定された「国宝保存法」において敷地全体が、1936年(昭和11年)に国宝指定。その後、新たに制定された「文化財保護法」によって1952年(昭和27年)には、天守、乾子天守、渡櫓、辰巳附櫓(たつみつけやぐら)、月見櫓の5棟が国宝に指定されました。
現在も多くの観光客で賑わいを見せている松本城。ここでは、城の魅力を歴史とともに振り返ります。

松本城の歴史
松本城は、1504年(永正元年)信濃守護・小笠原貞朝(おがさわらさだとも)が、一族の家臣・島立貞永(しまだてさだなが)に命じて築城させた深志城が始まりとされています。
その後、甲斐国で勢力を拡げていた武田信玄(たけだしんげん)が、深志城から小笠原長時(おがさわらながとき)を追放し、信濃侵攻の拠点として、32年間支配下に置きました。
時は流れ、1582年(天正10年)織田信長(おだのぶなが)によって武田家が滅ぼされると、織田氏と盟約を結んでいた木曾義昌(きそよしまさ)が深志城の城主に。同年「本能寺の変」で織田信長が滅亡すると、信濃の混乱に乗じ、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の後ろ盾を得た小笠原洞雪(おがさわらどうせつ)が城主となります。
しかし、小笠原洞雪の統治も長くは続かず、翌月には、小笠原長時の嫡子であり、武田信玄に追放されていた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)が、徳川家康(とくがわいえやす)や旧臣の支援を受け、深志城を奪還。このときに、深志城から松本城へと改名されました。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原を侵攻した際、小笠原氏に代わって、移封を命じられた豊臣秀吉の家臣・石川数正(いしかわかずまさ)が松本城に入城します。そして、1593~1594年(文禄2~3年)の間に、城郭や城下町の整備工事に着手、石川数正に引き継ぐ形で息子・石川康長(いしかわやすなが)が、大天守、乾子天守、渡櫓などを手掛けました。現在、私たちが知る国宝松本城は、この時期に整備されたものです。
江戸時代に入ると、石川康長が城主の座を奪われ、飯田藩主・小笠原秀政が入国。その後、戸田氏をはじめ、松平氏や堀田氏、水野氏など、徳川家と深い関わりを持つ譜代大名たちが城主となり、城郭や城下町を整備します。またこの時代に、新たに辰巳附櫓や月見櫓の2棟が造られました。
なお、水野氏統治下の1686年(貞享3年)には「貞享騒動」(じょうきょうそうどう)と呼ばれる農民一揆が起こりました。その首謀者である多田加助(ただかすけ)を処刑した際に、城の天守が大きく傾いたと言う逸話が残っています。巷では多田加助たち農民の怨念だとする向きもありましたが、これは地盤の弱さや支柱の老朽化などが原因として考えられていました。そのため、1903年(明治36年)年から1913年(大正2年)にかけてようやく修復作業に入ります。
その後も再び天守は傾き始め、1950年(昭和25年)から5年の歳月を費やし、あらためて修復。それぞれ「明治の大修理」、「昭和の大修理」と呼ばれています。

松本城の特徴
標高約590mの松本盆地に築城された松本城は、現存する12天守のうち、5層6階の天守を持つ最古の城として有名です。
なお、現存12天守の中でも、5層の天守を持つ城は、日本では松本城と姫路城しかありません。
城壁を覆う壁の上部は白漆喰、下部の下見板は黒漆で塗られました。この白黒の対比が、白い天守が多い日本城の中では珍しく、一説では、豊臣秀吉に忠誠を誓った石川数正が、黒や金を好む豊臣秀吉に忠誠心を示すために漆黒の天守を築いたとも言われています。
松本城の外観は一見5層で、上へ向かうにつれ、建物が細くなる層塔型のような造りです。しかし、建物の内部には、屋根裏部屋のような中3階が存在するため、実際には6層で構成されています。これは、望楼型とよばれる構造で、外観は層塔型でありながら、実際は望楼型という造りも、この城の大きな特徴のひとつです。
また、松本城は、「連結複合式」の天守を持つお城。戦国時代末期に造られた大天守、乾子天守は渡櫓で連結され、後の江戸時代初期には、新たに辰巳附櫓と月見櫓を複合させた、他に類を見ない構造となっています。

【彦根城】国宝五城

滋賀県彦根市のシンボル・彦根城は、井伊直継(いいなおつぐ)、井伊直孝(いいなおたか)により、20年に亘って築かれた名城です。重要文化財の櫓や、国指定の名勝・玄宮園などを有しており、1年を通して多くの人々が訪れる観光スポット。幕末の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を生み出した井伊家が、14代にわたって藩主を務めていました。
彦根城の別名は「金亀城」(こんきじょう)。築城以前、彦根山にあった寺に、金の亀に乗った観音様が安置されていたと伝わっており、これが由来だと考えられています。また、月明りに照らされた彦根城の美しさは、「琵琶湖八景」にも選定されるほどです。
こちらでは、彦根城の歴史や特徴、見どころについて、詳しく説明します。

彦根城の歴史
「彦根城」は1604年(慶長9年)から、天守は約2年、城郭全体は約20年かけて築城されました。元々、彦根の地を治めていた佐和山城をはじめとする複数の城や、寺院の材木・石垣が使用されています。
佐和山城は1590年(天正18年)より「石田三成」の城でしたが、「関ヶ原の戦い」で石田三成が敗れたことにより、城主は戦いの勝者「徳川家康」の家臣「井伊直政」へ。その後、徳川家と対立していた豊臣家と、豊臣家の恩顧を受けていた西国大名を監視するため、徳川家康の命令によって彦根城の築城が開始されました。このときに佐和山城は廃城となり、石垣や多くの建造物が彦根城へと運ばれます。すでに井伊直政は亡くなっており、息子・井伊直継と、その弟・井伊直孝が築城を引継ぎました。
1614~1615年(慶長19~20年)、井伊直孝は「大坂冬の陣・夏の陣」に参加。冬の陣後には手柄を上げたことで家督が譲られ、城主となりました。井伊直孝は江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」から4代将軍・徳川家綱に至るまで幕政に貢献し、この間に30万石を所領することとなります。これは譜代大名としては珍しいことでした。そして、彦根藩は幕府領と合わせて35万石を有する藩となったのです。
明治時代に入ると、廃城令により彦根城は解体の危機を迎えました。しかし1878年(明治11年)、明治天皇は巡幸の帰りに彦根を訪れ、そのときに彦根城の保存を勅命。保存を願い出たのは天皇の従妹だという説と、随行していた大隈重信だという説があります。
こうして解体をまぬがれた彦根城は、その天守が1952年(昭和27年)、国宝に指定されました。国宝に指定されている現存天守を持つ城は、彦根城の他に「松本城」「犬山城」「姫路城」「松江城」で、国内に5城のみとなっています。

彦根城の特徴
彦根城は本丸とその他の曲輪が連なっている「連郭式」の平山城です。軍事的に発達していて、本丸前後に大堀切があり、正面から来る敵と裏手から来る敵、両方の侵入を防いでいます。
また彦根城は、西国大名の勢力を抑える目的があり、急いで築城される必要がありました。そのため、廃城となった周辺の佐和山城や安土城、大津城、長浜城などの石材や木材が利用されたのです。天守は大津城、「佐和口多聞櫓」(さわぐちたもんやぐら)は佐和山城、「天秤櫓」は「長浜城」から移築されたと言われています。
現在、本丸に残る建造物は天守のみですが、かつては藩主の御殿「御広間」をはじめ、「宝蔵」や「着見櫓」(つきみやぐら)がありました。
天守は3階3重で、附櫓(つけやぐら)と多聞櫓が連なる構造。櫓とは、見張り台や攻撃拠点となる建造物のことを指します。また天守の載る石垣は「牛蒡積み」(ごぼうづみ)と呼ばれ、自然石を使用した、堅固な石垣です。
屋根には入母屋破風(いりもやはふ)、「へ」の字型の切妻破風(きりづまはふ)、曲線的な唐破風(からはふ)と多彩な破風が見られ、唐破風には飾り金具が施されています。また2階・3階両方に取り付けられている寺社建築が由来の華頭窓(かとうまど)。連続した階にこの窓があるのは大変珍しく、貴重です。さらに三階には格式を示すと言われる、ベランダのような廻縁(まわりえん)※と、その手すりにあたる高欄(こうらん)もあり、外観を重視した造りとなっています。(※彦根城の廻縁はデザイン上のものであり、利用することはできません。)
天守内部は実戦仕様。狭間(さま)や隠し部屋があります。狭間とは、鉄砲や矢で攻撃するための隙間のこと。彦根城には外側から見えない「隠狭間」があります。外側を漆喰で塗り固めて塞いであり、戦いのときには突き破って攻撃するのです。
このように美しさを重視するだけでなく、戦いのための設備もあった彦根城ですが、一度も戦いの舞台となることはありませんでした。彦根藩のシンボルとしての役割が強かったと言われています。


【日本100名城®
(各県1城以上 5城以内)】
[北海道・東北地方]
北海道
根室半島チャシ跡群
五稜郭
松前城
青森県
弘前城【重文七城】
根城
岩手県
盛岡城
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仙台城
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山形城
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会津若松城
白河小峰城

【関東・甲信越地方】
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水戸城(弘道館)
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足利氏館(鑁阿寺)
群馬県
箕輪城
金山城
埼玉県
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千葉県
佐倉城
東京都
江戸城
八王子城
神奈川県
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山梨県
武田氏館(武田神社)
甲府城
長野県
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上田城
小諸城
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高遠城
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高岡城
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七尾城
金沢城
福井県
丸岡城【重文七城】
一乗谷城
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岩村城
岐阜城
静岡県
山中城
駿府城
掛川城
愛知県
犬山城【国宝五城】
名古屋城
岡崎城
長篠城
三重県
伊賀上野城
松阪城

[近畿地方]
滋賀県
小谷城
●彦根城【国宝五城】
安土城
観音寺城
京都府
◯二条城
大阪府
●大阪城
千早城
兵庫県
竹田城
篠山城
明石城
●姫路城 世界遺産 【国宝五城】
赤穂城
奈良県
高取城
和歌山県
和歌山城

[中国・四国地方]
鳥取県
鳥取城
島根県
松江城 【国宝五城】
月山富田城
津和野城
岡山県
津山城
備中松山城【重文七城】
鬼ノ城
岡山城
広島県
福山城
郡山城
広島城
山口県
岩国城
萩城
徳島県
徳島城
香川県
高松城
丸亀城【重文七城】
愛媛県
今治城
湯築城
◎松山城【重文七城】
大洲城
宇和島城【重文七城】
高知県
高知城【重文七城】

[九州・沖縄地方]
福岡県
福岡城
大野城
佐賀県
名護屋城
吉野ヶ里(吉野ヶ里歴史公園)
佐賀城
長崎県
平戸城
島原城
熊本県
◎熊本城
人吉城
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大分府内城
岡城
宮崎県
飫肥城
鹿児島県
鹿児島城
沖縄県
今帰仁城
中城城
首里城

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