【日本医療史】
[編集中]
野口英世1976→1928(51)
医師・細菌学者
福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がったが、後にその業績の多くが否定された。黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。
柴田方庵1800→1856(56)
(ビスケットの父)
江戸時代の蘭学者、医師。方庵は号、本名は昌敦、字は谷王。日本で牛痘の接種に尽力した。
1855年安政2年方庵日記
荻信之助にレシピ送る
北里柴三郎1853→1931(78)
細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。帰国後ペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所所長を務めたが、その東大移管に反対し、私財を投じて北里研究所を創立した。
1890ベーリングと協力し破傷風とジフテリアの血清治療(けっせいちりょう)を確立
クロフォード・サムス大佐1902→1994
GHQ公衆衛生福祉局長
(戦後日本医療の父)
→天然痘・結核の撲滅
→保健所システム構築
→伝染病予防衛生教育構築
→食料輸入・学校給食創設
→医師は薬で儲けず、薬剤師に任せる
[著書]
『DDT革命 占領期の医療福祉政策を回想する』竹前栄治・編訳、岩波書店、1986年8月
『GHQサムス准将の改革 : 戦後日本の医療福祉政策の原点』竹前栄治・編訳、桐書房、2007年11月
武見太朗1904→1983(79)
医療界・巨大利権の権化(けんか太郎)
白衣のフィクサー医師
(キャビネット(内閣)メイカー)
秘密会合
海外と比べ最大4倍で販売
吉田茂の義理の叔父
薬の利権→一億総薬漬け社会
医師会会長
厚労省の天下り先
「薬代や医療機器を外国と同じくらいの水準に数兆円の医療費が削減できる、しかし製薬業界最大の組織である東京医薬品工業協会、
大阪医薬品協会の理事長といったポストが厚労省にとって美味しい天下り先である」
太平洋戦争後の厚生行政に於いては各種審議会の委員を委嘱され、1961年(昭和36年)には全国一斉休診運動を強行するなど[1]、厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎と言われた。医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。
医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。第27代厚生労働大臣・武見敬三の父でもある。
[元医者]
手塚治虫
安部工房(東大医学部卒のみ)
養老孟司
松田昌三1964→
医師、阪神淡路大震災
トリアージ(命の選択)
https://youtu.be/7QlDVmgh16o
山口大学医学部卒業。1992(平成4)年から96年まで兵庫県立淡路病院内科に勤務。神戸大学医学部医学研究科大学院病理学講座1、神戸大学第一内科医員、兵庫県立姫路循環器病センター循環器内科を経て、
2010年より神戸百年記念病院内科に在職。
コロナワクチン利権
◎JPSikaHunter(超絶サバイバル鹿先生)
【死ぬ前に思う10の後悔】
第6位
医者の言うことを聞きすぎなければよかった。
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【日本医事史 抄】
当院初代院長 三好 勝の論文
地区医師会50周年時に寄稿、
地区医師会HPより抜粋
医療法人 寺内クリニック掲載
日本では、最古の史書である古事記(712)と日本書紀(720)に、古墳時代中期(390-500)に朝鮮から「良医(くすし)」や「医博士(くすりのはかせ)」が来て、日本に医療を伝えた事が記されている。それは、幻の邪馬台(やまたいこく)や女王卑弥呼(ひみこ)の頃、倭人が朝鮮に攻め入ったとされる遠い昔の物語である。その様に古い話は我々の日常に繋りがなく、普段の関心外のことであるが、歴史書を読んでいると知らず知らずの中に物語の中に引きこまれて仕舞っている程興趣が尽きない。それで飛鳥(あすか)の頃から江戸時代まで、1200年余りの日本の医事史を私なりにダイジェストしてみたいと考えた。廻り道をすることになるが、祖先の歴史を繙(ひもと)くことによって医師としての自分の足もとを、より一層強く踏みしめることが出来ると思うからご辛抱の上ご一読願いたい。
即ち、医師の養成は、13~16才の医師の子弟を医学生に選び、定員40名、修学期間は内科・鍼灸7年、外・児科5年、耳・目・歯4年、按摩・呪い3年、毎年厳しい試験を行い、9年で卒業出来ない者は退学させた。
卒業生は医官に任じ、従八位の官位と禄を与え、中央や地方の行政機関に配属して医療に従事させた。中央官庁は宮内省の典薬寮(くすりのつかさ)で、典薬頭(くすりのかみ)の下に医博士(くすりのはかせ)、医師(くすし)、医生(いしょう)を置いた。典薬寮は江戸幕府の終わりまでその形が残されていた。
[奈良時代]
奈良時代から平安中期の頃(710→1100)までは、この医疾令に従って国営医療が実施されていた。併し、平安中期になると諸国に武家が抬頭し、中央の威令が地方に及ばなくなり、律令制に翳りが生じ始めた。特に 保元・平治の乱(1156・1159)(註1,2) 以後は天皇政治の衰微と共に律令制も崩壊し、禄を失った官医が巷に出て自ら生計をたてる様になった。日本の 開業医の発端 である。
次に日本の医療に大きな影響を与えたものに 「仏教伝来」 がある。百済より公伝(538)の仏教は、天皇家の帰依によって忽ち日本全国に広まった。特に推古天皇が「三法興隆の詔」(三法は仏・法・僧)を発布して、仏教興隆を国の政策にすることを宜する国々に寺院の建立が競って行われ、仏教は国民的宗教になる程の発展を遂げた。仏典には病気に纏(まつわ)る示説が多い。その為に僧は、看病(祈祷)や薬の知識を自然に身につけ易く、仏教の興隆と共に多くの 僧医 を輩出し、近世に至るまで僧医が日本の医療の主流を占めるようになった。
ここで少し脱線をして、 僧医道鏡 の物語を書いておきたいと思う。道鏡は河内若江の弓作り弓削氏の出で、東大寺の別当良弁(ろうべん)に梵文(ぼんぶん)(インドバラモン教の宇宙原理)を学び、葛城山に篭って呪禁(じゅごん)力(呪いによって物怪(もののけ)を追い払う術)を修めた。下級から身を起して栄達を極め、遂には没落の道を辿る道鏡のドラマは、女帝孝謙上皇との出会いに始まる。孝謙は、聖武天皇を継承して孝謙天皇に即位した(749)。聖武、光明、孝謙の親子揃って輦(れん)を連ね、貴族、官人、僧など1万余人を集めて史上に残る壮大な大仏開眼供養(752)を催す等、孝謙にとって生涯最良の日々が続いたが、父聖武の没後(756)、母光明の甥・藤原仲麻呂が政治の実権を掌握した。
孝謙は日々の孤独を託(かこ)ちつつ譲位して上皇に退く(758)。仲麻呂は「娘婿の大炊王(おおいほう)」を擁立して淳仁(じゅんにん)天皇とし、仲麻呂態勢を固めた。孤独の孝謙は気欝に閉され、遂に呪禁師として評判の高い道鏡を看病僧に迎えることになった。二人の運命の出合いである。時に孝謙45才、道鏡はそれより少し上と推定される。白壁に朱丹の柱が映え、香木をたきこめた王宮に、金襴の袈裟を纏い、朗々と経を誦む道鏡の姿は、貴族の男をしか知らない孝謙の心を怪しい焔でつつんだことであろう。
それ以後孝謙にとって道鏡は、片時も傍から離せぬ人となり、何をするにも道鏡、何処へ行くにも道鏡と影と形の如き二人になった。淳仁と仲麻呂にとってその様な二人は目障りであり、孝謙と道鏡には仲麻呂が邪魔である。その様な両者は遂に戦争を始めた。戦いはアンチ仲麻呂派を味方につけた孝謙・道鏡方が勝ち、近江に逃げた仲麻呂をびわ湖畔で妻子とも斬殺、淳仁天皇は淡路島に流され、翌年没した。23才の若さであった。勝った孝謙上皇は重祚して称徳天皇に返り咲き(764)、道鏡を大政大臣禅師にした。更に、恋しい人を皇位に近づける為にとうとう法王の位につけるに至った(766)。道鏡は又、故郷の河内を帝都に次ぐ都にすることを企てる等、二人の所業は誰憚らずエスカレートしていった。
中央政権に諂(へつら)う宇佐八幡宮の宮司習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)は「道鏡即位すれば国家安泰」との神託があったと奏上に及んだ。女帝は道鏡を皇位につけたい思いと、臣下を皇位につけることへのためらいとの間で悩んだ末、側近の尼僧法均(ほうきん)と弟の和気清麻呂に神託の確認を命じた。宇佐に赴いた清麻呂は、神託は「天日嗣(あまつひつぎ)は皇族をたてよ」とあったと奏上して女帝の怒りをうけ、和気法均は別部狭虫(わけべのさむし)、和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名され、大隈(鹿児島)に流罪になった(769)。併し、女帝没して(770)道鏡の命運も尽き、下野(しもつけ)国、安国寺の別当に左遷され、其処で寂しく生涯を閉じた。
二人の出合いから終焉まで僅か11年余の短いドラマであったが、そこに登場する支配者達の血で血を洗う権力闘争や、そのはざまに咲きこぼれる恋物語りの昔も今も変らぬ果かなさと愛しさが心に迫る。併し、僧医といわれる道鏡が、呪(まじな)いをもって女心を操(あやつ)っていたとすれば、大へん悲しい物語りである。古代の人々は罪業が病気を起し、み仏の慈悲にすがって罪業を消滅すると病気が治ると信じ、 宿曜(すくよう)の秘法(註3) 等という呪いの類に救いを求めていた。この様な迷信は延々近代にまで及び、仏教の思想や儀式が日本の医学の近代化を妨げていたことは否めないのである。
(註1)保元の乱(1155)
崇徳上皇は近衛天皇の没後、皇子重仁親王に皇位を継承させようとしたが、上皇の異母弟・雅仁親王が即位して後白河天皇になったことから崇徳上皇と後白河天皇との間に対立が生じ、上皇側に左大臣藤原頼長と源為義が、天皇側に関白藤原忠通と源義朝・平清盛がついて、保元元年7月11日未明、天皇方が上皇方に奇襲をかけ、上皇方を潰滅した。
(註2)平治の乱(1159)
保元の乱に買った天皇方の源義朝と平清盛が主導権を争って対立した。源義朝は御所を襲って後白河上皇と二条天皇を幽閉したが、平清盛がこれを救出して義朝軍を撃破した。義朝は東国に逃れる途中、尾張で謀殺され、その子頼朝は伊豆に流された。
(註3)宿曜(すくよう)
占星術の一種、28宿、12宮、7曜の運行に基づき、日時・方角の吉凶や人間の運命を占うもの。インドに発祥して中国から日本に伝わり、平安時代以降盛んとなった。(日本語大辞典)
[平安時代]
中世になって日本は、源平の争い(1180)から北条・足利の盛衰を経て秀吉の天下統一(1586)に至るまでの400年間、武家は覇権を賭けて戦さに明け暮れ、日本全土に戦火の絶える間がなかった。武士は忠義を信条としなければ、首が繋がっていなかったであろうし、民百姓は念仏を唱えて後生を願うしか仕方のない時代であった。栄西、道元の禅宗や、法然、親鸞の念仏宗が興って人々に心の在り所を与えていたのも、その時代なればこそのことであろう。
中世の日本の医学は、草根木皮の漢方や、僧医の加持祈祷が古代から格別の発展もないままひき継がれていた状態であった。
それに反し西欧では、ギリシャ医学の最高峰ヒポクラテス(BC460~370)が体液説を唱え、病気を科学的に捉えて、医療は魔法でない事を既に教えていた。アレキサンドリア医学の双璧ヘロヒロス(BC335~280)とエラシストラス(BC310~250)は、人体解剖を行って動脈と静脈、知覚神経と運動神経の違いや、神経系のセンターが大脳にあること、心臓の弁膜は血液の逆流を防ぐ装置であること等を知っていた。
ローマでは、ガレヌス(130~200)が生理学の実験を行い、反回神経の切断や、脊髄をいろいろの高さで切ったり、大脳や小脳に傷をつけたりしてその結果何が起るのかの実験に挑んでいた。そしてこれらの西洋医学の知識は、中世の終りの室町時代(1392~1573)の後半になって漸く日本に届く機会が訪れた。
[室町時代]
室町時代 天文18年(1549)、耶蘇会の
宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に上陸した。宗教革命によって失った旧教流布の新天地を東洋に求めて日本へ来たのである。薩摩藩主島津高久の許しを得て、布教活動を行い、その足跡は平戸、山口、堺、京都にまで及んだ。彼は2年3ヶ月の短い滞在で日本を去り、インドに向ったが、ザビエル以後も多くの宣教師が来日し、キリスト教の布教や、交易や、文化の交流等の役割を果した。又、彼等に同行して来た医師達は、布教の為に神への奉仕として医療活動を無償で行い、西洋医学の普及に功を成した。
1553年に来日したポルトガルの宣教師ルイ・アルメイダは、彼自身が外科医でもあり、豊後(ぶんご)(大分)の領主大友宗麟の庇護をうけて日本で初めての洋式病院を府内(ふない)に開いた(1559)。漢方と加持祈祷しか知らない当時の人々にとって西洋の科学的な治療は生れて始めて目にする驚異の出来事で、遠く京大阪方面からも患者が集まった。 その当時の日本の医学を代表する学者に、田代三喜(たしろさんき)(1465-1537)と、曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507-74)の名が高い。
田代三喜は武蔵の国に生まれ、少時僧籍に入り、医学を足利学校に学び、23才で明に渡って李朱医学を修めた。帰国して関東官領足利成氏に招かれ、下總国(しもふさのくに)(千葉)古河で医療を行い名声を博した。
曲直瀬道三は京都に生れ、少時僧籍に入り、22才で足利学校に学んだ。田代三喜に師事し、李朱医学を修めた。京都に帰って医療に専念し、医学舎「啓迪(けいてき)院」を開いて後進の育成に努め、日本医学中興の祖として名を成した。彼等が修めた李朱医学は、元の医学者李東垣と朱丹溪の学説で、儒教の陰陽五行に、宋の頃の五薀六気や五臓六腑等の思考を組み合わせたもので、儒教で説く宇宙の原理に対して、人体の生理や病気を小宇宙にみたてた観念論である。
日本の医学がこの様に果てしなく古代の瞑想論の中に埋もれているのに対して16世紀のヨーロッパでは、ルネッサンスの波が医学の分野にもうちよせ、人体をあるがままの姿で捉えようとする実証科学の研究が勃興した。ベルギーのヴェサリウスは剖検所見を極めて現実的なアトラスに纒めて、金科玉条とされてきたガレヌスの学説を覆した。フランスのアンブロアス・パレーは、動脈を結紮して四肢を切断する手術に成功し、外科の領域に新時代の扉を開いた。
17世紀の最も著名な業績は、イギリス人ウイリアム・ハーヴェイ(1578-1657)による血液循環の発見である。続いてイタリアのガスパル・アセリ(1581-1626)が淋巴管を発見し、二人の業績によって生体の循環系の実態が解明されるに至った。17世紀の後半には、オランダのレウエンフーク、スワンメルダム、イタリーのマルピギ等が顕微鏡を用い、細胞学や病理学の分野に多くの新知見をあげている。
18-19世紀のヨーロッパは産業革命が起り、産業技術が進んで、手工業から機械工業の時代に移っていった。医学の分野では、オランダのスウィーテンナーによる打診法、フランスのラエンネックによる聴診法の開発、イギリス人ジェンナーによる牛痘種痘法の成功(1796)、ウインザーリングのジギタリスの臨床応用等々、臨床医家による研究業績が注目を集めた。
[江戸時代]
日本では17世紀に入って関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康が、400年以上も続いた戦国時代の幕を閉じ、江戸幕府を開いて天下泰平を成しとげた。江戸時代(1603-1867)は、庶民の時代と評価されるほど多彩に新しい庶民文化が開花した。江戸幕府は少数の武家集団を支配階層とし、多数の百姓や町民を被支配階層とする社会の二重構造を作り、秀吉の「身分固定令」(1591)を踏襲して、侍と百姓・町民の間で身分が異動することを禁じた。そして学門、特に儒教を奨励し、武士道や道徳や倫理の高揚を第一義として国を治めた。この様な情勢の中で人々は、封建社会に於ける身分の桎梏を脱する為に、祿を難れた武士、家督を継げない二・三男、又、町人の中からも、身分的拘束のない医師を目指す者が多数に現れるようになった。
律令制が崩壊して、誰でも自由に医業を行うことが出来、名前が上るとお抱え医師として大名の祿にもつけた医師の職業は、それらの人々にとって恰好の世に出る手段であった。それらの医師の中にはわが国の医療を支えた人物も居たが、いい加減な儲け医者の類も少くなかった。
先に述べた如くフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来たのは16世紀の半ばである。
その後ポルトガル、イギリス、オランダ等の国々が、キリスト教の布教と、交易と、殖民地開拓とを目的にして来航する様になった。
幕府は日本の封建制度社会に、キリスト教の自由と平等の思想が入りこむことを好ましく思わないし、又、貿易の利益を幕府で独占しようと考えていた。そこで岡本大八事件(1612)や、天草・島原の乱(1636)に口実をもうけてキリスト教の禁止と鎖国を断行した。幕府はオランダとシナ以外の国々の入国を禁じ、長崎に出島を設けて、オランダの商館を置き、出島をわが国が外国に向って開いた交易の唯一の窓口にした。それによって幕府は貿易を独占し、キリスト教の布教を防ぐ目的を達したが、世界から孤立し、世界の情報はオランダを通じてしか得られなくなった。出島のオランダ商館には、商館長(甲必丹(カピタン))、館員、通訳、医師が住み、甲必丹の交替時に江戸参府の旅をする以外には出島の外に出ることが許されなかった。併し、蘭学を志す日本の若者達が続々と長崎を訪れるようになった為に、出島の外に蘭学塾を設けて通詞や蘭館医らが、オランダ語や蘭方を教えるようになった。
新時代の学問として蘭方の人気が高まるにつれ、沈帯する漢方に新風を吹きこもうとする漢方医の一派が現れた。「古医方」と呼ばれる一派である。彼等は古来の李朱医学の観念論に飽きたりず、漢方の原点と目されている実践的学問の「傷寒論」に戻るべきであると主唱する。「古医方」を代表する山脇東洋は、日本で始めて人体解剖に挑んだ(1754)進歩派の漢方医である。東洋その時50才、かねてから解剖学に志をもち、古来の五臓六腑の真否を人体解剖を行って正したいと願っていた。当時は「身体髪膚これを父母に享(う)く・・・・・・」という儒教の訓えによって人体解剖は人道に背く行いとされていた。その様な時代に、京都所司代酒井忠用(ただもち)が東洋の願いを容れて刑死解剖の公許を与えたことは、日本の医学史上に残る画期的な大英断であった。解剖の結果は、五臓六腑の虚構が実証されて人々の漢方ばなれを促すことになった。
それに追い打ちをかけたのが、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らによる「解体新書」(1774)の出版である。杉田玄白は若狭小浜藩の蘭方医、前野良沢は豊前(福岡)中津藩々医で蘭方を青木昆陽に学ぶ。中川淳庵は江戸の生れ、山形藩安富寄碩に蘭学を学んだ。彼等は明和8年(1771)3月4日、江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を見学した。その時彼等が持参していた参考書の図鑑(ターヘル・アナトミア)と解剖の所見とが完全に一致している事に驚嘆し、「苟(いやし)くも医術を以て主君に仕える身でありながら、人体の構造も知らずにいた事は面白なき次第なりと語り合って、ターヘル・アナトミアを翻訳して世に出そうと誓い合った。時に玄白38才、良沢48才、淳庵32才、江戸の甲必丹客館に通って蘭学を学びながら4年の歳月を費してターヘル・アナトミアの邦訳「解体新書」(1774)を完成した。爾来、玄白、良沢に師事する者、漢方から蘭学に転ずる者等が続出して、蘭方志向に拍車をかけることになった。
その一人である大槻玄沢は仙台藩侍医、玄白と良沢の一字づつを合わせて玄沢と名乗る程の入れ込みで、蘭学の振興に情熱を燃やして江戸に私塾「芝蘭堂」を開いた(1781)。日本に於ける蘭学塾の始まりで、18-19世紀の日本の医学を動かした人材を多数に輩出した。大阪の橋本宗吉はその一人で、傘屋の絞書き職人から志を立て、江戸に出て大槻玄沢に蘭方を学んだ。オランダ語を4ヶ月で4万語暗記した程の努力家で、帰阪して医業を開き、又、多くの門人を育て、大阪の蘭方医の祖と称えられた。橋本宗吉の弟子、伏屋素狄(ふせやそてき)は河内日置荘(ひきのしょう)の郷士で、実証主義の大切さを悟り、漢方から蘭学に転じた。素狄は動物の腎動脈に墨汁を注入して動脈を閉じ、腎臓を圧迫すると、尿管から澄んだ水が出てくることを実験して、腎臓には尿を瀘過する機能があることを発見した。ボーマンの瀘過説(1842)より38年も以前のことである。
[江戸時代]
「古医方」に対して、漢方と蘭方の夫々の長所を併せて新しい見知を見出そうとする「漢蘭折衷派」の人達がいた。紀伊藩医外科の華岡青州達である。
青州は古医方を吉益南涯に、蘭方を大和見立に学び、自らは20年の歳月をかけて「通仙散」(マンダラゲとトリカブト)と称する麻酔剤の調合を完成し、それを用いて乳癌の手術を成功させた(1805)。麻酔剤の効果を母と妻に試しに用いて、妻加恵が失明した物語は今も人々に語り継がれている。 photo6
蘭方に追い風の中で、漢方を日本の医学の主流として伝統を守ってきたのが夛紀氏の「考証派」である。夛紀氏は「医心方」の作者、丹波康頼の後裔で、18世紀始めに京都から江戸に移り、幕府に仕えて姓を夛紀に改めた。
夛紀元孝は将軍吉宗の信任を得て医学塾「躋寿館(せいじゅかん)」を開き(1765)漢方医の育成に当った。幕府は躋寿館を官設の「医学館」とし(1791)、館長を夛紀氏の世襲にした。斯くして医学館は、進出著しい蘭方に対する漢方巻き返しの拠点として期待されたが、考証派の学問は科学性に欠ける為に医学館は後に明治新政府に接収され、廃絶する。
江戸の蘭方医達は医学館に対抗する為に神田お玉ヶ池に種痘所を構え、蘭方進出の拠点にした。幕府はこれを直轄とし、「医学所」と改称した。それによって漢方の医学館と、蘭方の医学所とが幕府公認として互に、明治に至るまで鎬(しのぎ)を削ることになったのである。
1823年、出島の蘭商館医師にフランツ・シーボルトが着任した。シーボルトは出島に着いて真先に種痘を行った。併し、持参の牛痘苗では成功せず、痘苗を新たに取りよせて試みても悉く失敗した。シーボルトに続いて出島に来た館医のリシュール(1839)や、モーニッケ(1848)も持参の牛痘苗を接種したがすべて失敗に帰した。
日本までの20日余に及ぶ長い航海で痘苗が腐敗するのである。
佐賀藩医楢林宗建は、痘漿ではなく、痘痂(痘瘡牛の皮のかさぶた)を用いることを提言し、オランダ領バタビアから届いた牛痘痂を息子の建三郎にモーニッケが接種を行って遂に善感させることに成功した。
ジエンナーから50年を経て漸く日本に種痘の花が咲いたのである。それから150年後にWHOが、地球に於ける「天然痘の根絶宣言」(1980)を行おうとは何人も思い及ばなかったことであろう。
振り返ってみると「種痘」は、わが国に近代医学の恩恵を贈り届けた一番初めの天使である。その頃、天然痘の流行期には人々は、死を待つか、無惨な痘瘡に生涯苦しむかしか仕方なかった。それを目の当りにしながらなすすべもない医師達の苦悩の日々が続く。
そこへ種痘の技術が伝えられた。医師達にとって痘苗の入手こそ、焦眉の急務である。人々は、呪(まじな)いか、祈祷にすがるしか方法を知らない。役所は「牛の糞の黒焼きを粉にしてのむのがよい」と教える。
その様な時代に、世の頑迷と敵意と戦い、私財を抛(なげう)って種痘の実施をなしとげたパイオニアの物語りが沢山ある。
私は、その中の一人である笠原良策について書いておきたいと思う。
[江戸時代]
長崎で痘瘡牛の痂皮を用いて成功した楢林宗建から、京都の日野鼎哉(ていさい)のもとに種痘成功の報せと、8粒の痘痂が届いた。
日野鼎哉はシーボルトの鳴滝(なるたき)塾で楢林宗建と同門の間柄である。鼎哉は宗建の痘痂8粒の中、7粒を7人の孫に植えつけた。併し、発痘した者は一人も居なかった。
落胆の底から気持をたて直して鼎哉は、残りの1粒を弟子の桐山元中の息子・万次郎に植えつけた。
7日目、万次郎の腕からわずかににじみ出ている膿を鼎哉の孫の3才になる朔太郎と、元中の姪にあたる8才の女児に植えつけた。そして7日目、二人の子供の腕からすくいとった液を、16才になる鼎哉の娘の腕にすりつけて種つぎをした。
笠原良策が日野鼎哉のもとを訪れたのは丁度その頃である。笠原良策は文化6年(1809)、福井の医師笠原竜斉の子に生まれた。15才で福井藩医学所済生館に入り漢方を学び、20才で江戸に出て磯野公道について古医方を学び、23才の時福井に戻って開業をした。27才の時、山中温泉で大武了玄という蘭方医と知り合い、啓発を受けて、蘭方への志を絶ち難く、京都の大蘭方医と称されている日野鼎哉の門を叩いて入門を許された。蘭方を学ぶことが出来る歓びに燃えて良策の勉学ぶりは真剣そのもので、忽ち頭角を現した。
日本の全土に天然痘が焼結猖厥し、人々の悲惨な姿を目(ま)の当りにしてきた鼎哉と良策師弟は、外国では種痘を行って天然痘の悲劇を防いでいることを知り、日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。それには第一の難関が痘苗の入手である。長い間、思い悩み、そして遂に長崎の宗建から届いた痘痂を用いて鼎哉の16才になる娘の腕に種痘の花を咲かせることに成功したのである。彼等は手をとり合い、肩を震わせ、「花が開き申したぞ、遂に花が開き申した」と歓喜した。鼎哉と良策は役所の許可を得て、京都新町三条北に種痘所を構え、種痘をひろめる態勢を整えた。
長崎から京都の鼎哉のもとへ痘痂が届いた報せは国内に届いていた。大阪の緒方洪庵 もそのことを知り、自宅に近い道修町4丁目で開業している日野葛民(鼎哉の弟)に同行を願って鼎哉を訪れ、分苗を懇請した。嘉永2年(1849)11月1日のことである。鼎哉と良策は、11月6日、分苗のために一人の種痘をおえた子供を連れて大阪に赴いた。良策は大阪に於ける「分苗の儀式」を「白神記」に克明に記している。
"白神"は、当時"Vaccine"を"はくしん"と読んだことによるもので、良策は自らを「白翁」と号している。白神記には当時の世間や医師の様子がよく描かれているので、一部を写記してみる。文章は自分流の現代文に書き改めた。
良策から福井藩医半井元冲(なからいげんちゅう)への書簡より「―(略)―折節、日野葛民、緒方洪庵が、伝苗致し下さる様、懇々と願って大阪から来ました。葛民も洪庵も不凡の人であるが、白神の経験は少いので、万一にも絶苗することがない様に要愼をして、師の鼎哉と共々、その門人の西村啓蔵の子供(1才)と其母、其婢を連れて下阪しました。鼎哉は弟の葛民宅に止宿し、自分は心斎橋筋の備前屋に宿をとりました。翌朝、迎駕にて道修町5丁目の除痘館に集まりました。「分苗の儀式」は、全員礼服を着用、正座に新薦(しんせん)(新しいむしろ)を敷き、神座を設け、神酒、鏡餅、洗米を供え、その前に良策、其次鼎哉、次洪庵、次葛民、次医輩並に門人等が着座しました。自分の席が師より上位にあるので辞退しましたが、君命を受けた伝苗の儀式であるから、師弟の礼に及ばないとのことで赦汗(たんかん)致しました。種痘は、西村啓藏小児市太郎、母藏子、洪庵二児、葛民一児、良策二児、緒方一児の8人に行い、4日後の11月10日に検べたら、全員善感しており、安心仕り候」と詳細な報告をしたためている。
京大阪での大役を果した良策は、故郷福井への痘苗を持って帰路につくことになる。その痘苗は、種痘がうまくついている幼児(2名)と、種痘をしていない幼児(2名)を連れて、道中で植えついでゆく方法で運ぶのである。周到な日程の計画をたてねばならない。拒む親たちを説得して、同行してくれる幼児を探さねばならない。冬の北陸路への旅である。誰もが旅だちをおし留めたが、種痘に命をかけた良策の決意を動かすことは出来なかった。
嘉永2年(1849)11月19日、良策は京都を発った。幼児4名、両親8名を併せた13人が言いつくせぬ困難を凌いで、京都―大津―米原―長浜―木之本―朽ノ木峠を越えて福井まで6日間の旅をする。その状況は吉村昭著"雪の花″(新潮社)に見事に描かれている。
殊に最大の難所とされる朽ノ木峠は、木ノ本から上り六里(24キロ)、下り虎杖(いたどり)まで二里(8キロ)の道程を、六尺(2メートル)以上の雪が埋めている。笠と蓑(みの)と雪靴を身に纏い、提灯をかざして、倒れてはならないという気力だけで這う様に進む一行の有様は、とても人間業とは思えない。その件(くだ)りを描く吉村昭の筆致は、大舞台の夢幻を見る様である。
11月24日に福井の町に帰りついた良策は、翌25日旅の疲れを休めもせず直ちに福井城下で種痘を始めた。その良策のもとに大阪の洪庵から次の礼状が届いた。
「先頃は痘分苗の儀、寒冷の時節態々のご下向、ご苦労千万に存じ奉り候。ご下命の通り、子供を集め、痘苗を絶やさぬ様に種継ぎをしていますからご安心下さい。お陰様で万民救助の基を開くことが出来て、如何許りか有り難く存じ奉り候。大兄も近々ご帰国の趣、寒天のご旅行、別してご苦労の御事と存じ奉り候。軽微の至ですが、御銭別の印迄に「沙列布(サレップ)」(註15)三ヶ呈上仕り候。(略)」
その後大阪では洪庵の奔走により、日本で初めての官許の除痘館が北浜に設立された(1858)。
新除痘館の壁に洪庵は次の一文を掲げている。「寒暑を顧みず、雨雪を厭わず、身を砕き心を労し、究苦の時には自ら米銭を費やせることありと誰も、一銭の利を私せしことなく、孜々沒々として勉強せしこと十有二年、勲功積んで今日の大成を得るに至れり、願わくば後耒の諸子、越前候の恩徳と、良策、鼎哉の厚恵を忘れることなく、寡欲を旨として仁術の本意を失わず、その良志を嗣ぎ玉え」。
以て往時の医師達が天職を全うするために身命をなげうつ気概に心打たれて、種痘の記述に頁を費やした次第である。
その頃日本は、アメリカ使節ペリーの浦賀来航(1853)を契機に、米、英、仏、露、蘭の諸国と和親条約を結び、続いてアメリカ総領事ハリスが下田に着任して、アメリカ及びその他の諸国と通商条約の調印を行い、遂に220年に及ぶ鎖国を終結した。
日本を巡る国際情勢が急展開する中、かねてから幕府が医学講師に招聘していたオランダ海軍二等軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが長崎に着任した(1857)。その時ポンペ28才、彼が行った医学教育は、それまでの出島の蘭学塾と異なり、基礎医学から臨床医学に亘る分野のカリキュラムに基づいた系統的な教育であった。そして医学教育には必ず臨床実習の場が必要であることを幕府に説得し、長崎に洋式病院を建てさせた。
「長崎養生所」である。養生所は明治2年に長崎医学校になり、後に長崎大学医学部に発展した。又、大阪に於ける緒方洪庵の適々斉塾(1838)、千葉・佐倉に於ける順天堂(現、東京お茶の水順天堂病院・1839)等々から幕末から明治維新にかけて日本の政治や医学を大きくリードする人材が多数に輩出した。
(註15)沙列布(サレップ)
ハクサンチドリ、サイハイラン等のらん科植物の球根を乾燥したもの。煎剤として胃カタル等に用いる。
[明治時代]
そして時代は一挙に近世から近代に進み、武家政治が崩壊し、王政復古が成り、鎖国が終り、開国が始まり、漢方が追われ、洋方が興り、古い日本の封建的身分社会を打破して、明治維新(1868)の幕が開いたのである。
明治維新以後をふり返ると、その10年前までは世界に向って鎖国を断行していた東洋の島国日本が、日清戦争(明治27、1894)、日露戦争(明治37、1904)を経て第一次世界大戦後(大正7、1920)のパリ講和会議で国際連盟常任理事国 になり、米、英、仏、伊に肩を並べ世界の五大強国に仲間入りを果した。 明治新政府が如何に渾身の力を振るって国家の近代化に向って邁進したかが窮えるのである。
そして「帝国の繁栄、衝生の外なし」「国家第一の資本は国民の健康」との認識のもとに社会保障制度、特に医療制度の充実に取り組みを進めた。
今、その轍(わだち)を振り返ってみる。
明治元年4月17日、政府は横浜に軍陣病院を設置し、鳥羽・伏見の役等の負傷者の治療を行わせた。
同年7月20日、これを東京に移し「医学所」に合併して「東京大病院」を設立した。
緒方洪庵の子、緒方惟準(これよし)がその初代院長である。
東京大病院は明治2年2月「医学校兼病院」に改称され、相良知安と岩佐純が大学権大亟(ごんのだいじょう)に任ぜられ、知安が医学校、純が病院を主掌した。
二人は共に32才、長崎で蘭方を学び、佐倉順天堂の出身で、牛痘種痘の普及に功績があった。相良知安はこれからの日本はドイツ医学を採用すべきであると主張した。
知安の意見は、日本ではこれまで蘭書が読まれてきたが、オランダの医書は、西洋諸国特にドイツの医学をオランダ語に飜訳したもので、今、世界で最も優れているのはドイツの医学であるとするものである。佐賀出身の知安は、同郷の政府重鎮、副島種臣や大隈重信の後押しを得て政府にドイツ医学採用を決定させることに成功した。
政府は直ちにドイツ連邦とドイツ人医学教師雇用の契約を進め、日本人医師にドイツ留学を命じ、それ以後、太平洋戦争が終るまで日本の医学教育はドイツ医学を主にして行われてきたのである。「医学校兼病院」は明治19年に東京帝国大学医学部になり、明治政府はその卒業生に医学教育制度を築くに当っての主導的役割を担わせていた。
明治元年8月15日、新政府は夛紀氏の「医学館」を接収し、夛紀氏を罷免した。政府の「智識を広く世界に求める」とする方針により漢方は、その拠点を失うことになった。
[明治時代]
同年12月7日、医学振興に関する「太政官布告」を発布する。
「医師の義、人之性命に関係し、実に容易ならざる職に候。然るに近世、不学無術の徒、猥りに方薬を弄し、生命を誤る者少なからず、聖朝仁慈のご趣旨に背き、甚だ以って相済まざる事に候。 今般医学所お取り立て相成り候については、規則を設け、学の成否、術の功拙を篤と試して免許を得た者でなければ医業を行う事が許されなくなるから、その様に覚悟して益々学術に励むべき事」
という政府の厳しい方針を示したものである。
それまでは、誰でも自由に医業を開くことが出来たので、碌に勉強もしないでいい加減な施術をしたり、薬を売りつけたりするインチキ医者が現れて世間の頻蹙(ひんしゅく)を買っていた。太政官布告はこの様な旧弊を正し、新政府の施政をアピールする為に布告を発したものである。
併し、当時はまだ医師の主力を占めるのは漢方医で、洋方医の数が少く、開業免許試験を受ける該当者が不足していた。そこで政府は、明治2~4年に亘って医学教育態勢を整える為に、長崎精得館を長崎大学に、東京大を医学校兼病院に、大阪に仮病院及び医学校を設ける等して準備を整え、明治7年に至って「医制」を定め、東京、大阪、京都の3府に通達した。
「医制」はわが国の医師法と医療制度の根源をなすもので、總則、医学校令、教員並外国教員職制、医師の開業制度、産婆、鍼灸、薬舗及売薬規定の76ヶ条より成り、明治39年に「医師法」が規定する迄の間、医師の身分について法的根據を付与していたものである。
医師の開業免許は、医制の第37条に規定し「医学校の卒業証書及び内科、外科、眼科、産科等専門の科目を2ヶ年以上修得した証書の所持者を対象に試験を行い、その合格者に免許を与える」とした。
明治7年頃はまだ漢方医8人に対し洋方医2人の割合で受験該当者が少なく、当分の間は既開業者に仮免許を与えることで混乱を回避した。その後、東京、大阪、京都以外の県でも開業試験を実施する様になり、明治11年来の開業試験合格者は1811名に達する程になった。
又、医制の第41条に「医師たる者は、自ら薬を鬻(ひさ)ぐ(売る)ことを禁ず、医師は処方書を病家に附与し、相当の診察料を受くべし」との条文を掲げた。これが医師会と薬剤師会との間に今も尚綿々と続いている医薬分業の抗争の起点である。
本来医の道は、貧者に薬を与えることを本旨とするが、何時の頃からか薬で暴利を貧る悪徳医師がはびこる様になった。「医制」の起草者・長与専斉(註16)は比の弊風を除く為に、医制の第41条に、欧州の医療制度を倣った医薬分業の理念をとり入れたのであるが、その当時は薬剤師の側に分業に対する態勢が整っておらず、又、患者の側も医師以外から薬を受けとることに関心を示さなかった為に、「医薬分業はわが国の国情に合わない猿真似」と医師の起草者である長与自らが述懐する様な結果に終った。
その後、飽迄分業実現を目指す薬剤師会と、現状維持を守る医師会とが各々激しい政治活動を展開して延々今日に及んでいる。
大阪府医師会に於ても昭和29年に「医薬分業対策委員会」が設置され、南区医師会から大島会長の父君・大島時雄先生と政山副会長の父君・政山龍隣先生のお二人が選ばれて委員になり、国会陳情等に奔走された記録が残っている。
現在、時を経て再び、「薬漬け」や「薬価差」を口実に、医薬分業の火の手が激しさを増している。「物と技術の分離」という理屈の前に医師会の声もトーンダウンしがちであるが、医薬分業が実現すると一番迷惑を蒙るのは患者である。患者にとって「くすり」は、命をあずけた主治医との間の心と心とを繋ぐ繋け橋であって、単なる品ものではない筈である。日本医師会坪井会長が敢然と「院内薬局を調剤薬局に」する法改正を提案していることは、医療の現場を代表する者の見識であり、明治以来、医薬分業に反対を貫いてきた医師会人の気骨というべきであろう。
(註16)長与専斉(1838~1902)
備前大村藩医長与中庵の子、1854大阪の適塾、-61長崎でポンペに学ぶ、-68長崎医学校々長、-71文部省に入り遣欧使節団に加わり、医療を視察、文部省医務局長、東京大学々長、内務省衛生局を歴任、医学者・長与又郎、作家・長与善郎は専斉の子である。
[医師法成立以前]
扨、医師会の発祥であるが、大正14年3月31日発行の内務省衛生局資料によると、
「医師会並に医学会の起源は明治8年、松山棟庵、佐々木東洋、佐藤尚中、石黒忠悳(ただのり)、三宅秀、隈川宗悦等数十名の発起に由りて成立せる"医学会社"なるべし。次で明治15年、高木兼寛、松山棟庵等の"成医会"及び田口和美(かずよし)、樫村清徳等の"興医会"が起り、明治16年に佐野常民、長与専斉、高木兼寛、長谷川泰、後藤新平等が"大日本私立衛生会(註17)"を、明治19年には北里柴三郎が"東京医会"を設立した。その後、明治39年5月2日に"医師法"が発布されて法定の府県郡市区医師会が誕生し、更に大正12年3月に至って医師法が改正され、法定の日本医師会が設立した」
と記されている。
又、大阪に於いても、明治10年に緒方惟準が"医事合同社"(会員192名)を、明治13年に町田天梁が"堺医事共同社"を、明治16年には吉田顕三が"大阪興医学社"(会員162名)を設立している。
これらは何れも、明治になって洋方医が増えるに伴って互に団結をし、研修や情報交換等を目的に設立された洋方医による任意の業種団体である。それらの医会設立者の顔ぶれの中には、医師であって軍医總監、満鉄総裁、日本赤十字社長、医学会々頭、内務省衛生局長、軍医本部長等々、錚々たる人物が名を連ねており、国を挙げ新国家建設に取り組んだ明治維新の国民の気魄がそこにも感じられるのである。
明治の文明開化の波に乗って西洋医学が勃興し、漢方は明治28年の帝国議会に於て漢方医学存続法案が否決されて、漢方では医師免許を獲る事が出来ないことが決った。それに至るまでに漢方と蘭方は、いろいろの所で歴史に対立の跡を残している。 ユーモラスな話の一つ二つを拾ってみよう。
(註17)大日本私立衛生会
医会というよりも、政府の衛生促進政策にそった半官半民の協力団体である。初代会頭の佐野常民は日赤の創設者で、「人民の資力薄少なるは、その身体の薄弱なるに由らずして何ぞ」と述べ、衛生向上の必要を力説した。
緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉の「福翁自伝」によると、適塾に近い中之島に、華岡塾「合水塾」(華岡青洲の末弟、華岡鹿城が開き、その末子良平が嗣いでいる)があり、数百人に及ぶ門人は裕福で、服装も立派で、中々以て蘭学生の類ではない。
適塾の門人達が華岡塾の門人達と往来で出合うと、ものも言わずに互いに睨み合って行き違った後で、「あの様は何だい、着もの許り綺麗で何をしているんだ、空々寂々チンプンカンプンの講釈を聞いて、その中で古い手垢をつけている奴が塾長だ。こんな奴らが2千年来の垢じみた傷寒論土産にして、国に帰って人を殺すとは恐ろしいじゃないか」と云って気焔を吐いたのは毎度のことで、適塾の生徒は粗衣粗食の貧書生であっても智力思想の活溌高尚なることは、王侯貴人をも眼下に見下すという気位で蘭学修業に没入したものであるという件りがある。漢方に対する蘭方医の心の中がよく窮える。
これに対して江戸最後の国手といわれた浅田宗伯の逸話は漢方医の胸中をよく現している。浅田宗伯は信州信濃の生れ(1815)で、18才の時、京に出て中西熊治郎の門に入り傷寒論を学び、頼山陽から儒教を学んだ。いろいろの苦節を経て、将軍家茂の御目見医師となり(1861)、遂に法眼に叙せられた。明治4年(1871)に待医を辞して牛込で医業を開いた。最後の徳川医師といわれた様に死ぬまで「医は仁術」を貫いた人で毎日の患者数は数百人に及んだが、その半数は施療患者であった。彼の居宅の玄関には大きな張り紙に「家規」として次の文言が綴られていた。
一、 華族新に請診の向は謝絶すべし、近来西洋に心酔し、其余唾を舐る者多ければなり。
一、 薬価を問う者は拒絶すべし、医は仁術を旨とす、薬価を貧り、診料を掠(かすめ)る者は商賈(商人)に劣るゆえなり、但、志を以て謝礼を致す者は敢て拒まず。
一、 塾生、洋書を読み、洋服を着する者は遽(にわか)に放遂をすべし、当家族十年間、此職を奉じ、漢の術を行へばなり。
漢方、蘭方の双極から似た様な話を拾い上げてみたが、明治の頃とはいへ、トップの学問を修めた者同志、まるで餓鬼と頑固爺(じじい)が唾かけ合って喧嘩している様で、両者の反目は相当に根の深いものであったと思える。
初めに記した内務省衛生局資料にあるように、明治39年に医師法及び医師会規則が発布されて、医師の身分と医師会の社会的位置付けが法律によって定められたのであるがそれ以前は、前記の如く医学の新知識や情報を求めて任意の「医会」を作っていた。その「医会」なるものを、大阪の「医事合同社」を例にとって探ってみよう。
医事合同社は、明治10年10月、大阪鎭台病院長緒方惟準が有志の医師を集めて結成した大阪の医会第1号である。会員数は192名(大阪市内88、堺県38、その他66)、例会を毎月第2日曜日に開き、機関誌「刀圭雑誌」を月3回発行した。入会金は1円、会費月額30銭、雑誌代金1部3銭5厘である。
[医師法成立以前]
この医事合同社の様な医会は、既に全国各地に大小さまざま任意につくられている。会が大きくなり、又、医師の使命感が膨らむに従って会の中から、組織の法定化を促す声が大きくなってくるのも自然のなりゆきである。
その発端をつくったのが、明治30年3月、第10回帝国議会に「医師法案」を提出した大日本医師会である。大日本医師会は明治26年につくられた医術開業免状を持つ開業医の団体で、理事長に高木兼寛、理事に長谷川泰、長与専斉、佐藤進ら、いわゆる東大設立以前の医師達が集まっている。
大日本医師会が提出した医師法案は、衆議員の解散によって審議未了になった。大日本医師会は翌年の第13回帝国議会に、これを「医師会法案」に名を変えて再提出した。これは、翌32年1月衆議院を通過したが、貴族院で明治医会の反対によって否決された。
明治医会というのは東大卒の医師の集まりで、塾あがりの医師と同列に取り扱われたことへの不満が反対の理由であった。その後、全国の医会の離合集散を経て、明治39年に漸く、明治医会と、全国の医会を集めた帝国連合医会から、夫々が起草の医師法案を衆議院に提出した。
明治医会案は全文18ヶ条からなり、正規の医学校卒業生の特権を守ることに主眼をおき、帝国連合医会案は全文20条からなり、在野の開業医の医権養護に重点をおいた。
両者の法案の相違点は
(1) 医術開業試験を認める期間:明治案5年、帝国案10年。
(2) 医師会の設立:明治案任意設立、帝国案強制設立。
(3) 免許取消しと営業停止:明治案司法処分、帝国案行政処分。
の3点である。衆議院では両案を調整し、(1)は8年、(2)は任意設立、(3)は行政処分とするという折衷案を採り、大日本医会が法案を提出してより10年を経て遂に「医師法」が明治39年3月19日に衆議院、同26日に貴族院で可決をみるに至ったのである。
次いで同年11月、内務省令による「医師会規則」が規定された。医師会規則は、医師会設立の手順や運営、会員の資格、義務を等を定めたもので、全18ヶ条よりなる。
その要点は、
(1) 医師会を郡市区医師会及び道府県医師会の2種類とする。
(2) 前者は、当該都市及び東京、京都、大阪の三市に居住する医師の2/3以上が総会に出席し、出席者の2/3以上の賛成があったとき、後者については、当該道府県にある都市の2/3以上に医師会が成立しているとき、地方長官の許可を受けて成立することが出来る。
(3) 合法的に都市区医師会が出来ると、官公立病院以外の医療施設で医業に従事する医師はすべてその所在地の都市区医師会員になり、又、道府県医師会が設立されると管内の都市区医師会員は、自動的にその会員になるというものである。
医師法成立以前
医師法の成立に基づき大阪では、明治40年3月に「大阪市医師会」を設立した。事務所を東区淡路町の興医倶楽部に置き、会長に清野勇、議長に吉田顕三を選び、11月21日大阪ホテルに於て盛大な発会式を挙げた。
次いで大正2年7月21日、医師法に基ずく「大阪府医師会」を設立した。初代会長・緒方正清、副会長・竹内茂、議長・石上亨、副議長・高安道成である。
日本医師会の誕生:以上の様に全国各地に府県医師会が設立されるに従い、組織活動強化の為に、地域連合体としてのブロック医師会を結成しようとする動きが起った。中部、近畿、中・四国を合わせた「関西連合医師会」、関東甲信越と東北を合わせた「関東東北連合医師会」そして「九州連合医師会」が結成され、更にこれらの連合医師会を統一する全国組織結成の機運が高まり、大正3年3月「日本連合医師会」が設立された。併し、「日本連合医師会」は名のみで、全国医師会の期待を裏切り、大阪府医師会に於ても大正4年2月27日に臨時総会を開き、日本連合医師会脱退を決議した。
丁度この頃、暫く鳴りをひそめていた医業分業問題が、「分業期成同盟」を掲げる急進派薬剤師によって再燃し、政界やマスコミに医業分業実現を働きかけてきた。これを阻止する為に医師会は、「日本連合医師会」に変わる強力な全国組織をつくって対抗しようとする気運が高まってきた。
医師会はかねてから、世界的な細菌学者で男爵、貴族院議員北里柴三郎を医師会長に擁立しようとしてきたが、内務省伝染病研究所々長の氏は、官職を理由に医師会の要請を拒んできた。
併し、大正2年に伝研の管理が、内務省から文部省に移ったことを理由に所長の官職を辞した北里は、心機一転、医師会の要請に應え、全国医師の陣頭にたつ決意を固めた。直ちに全国道府県医師会会長に檄を飛ばし、大正5年11月11日「大日本医師会」創立大会を開き、「医業分業は、本邦の民族習慣に適合せざるのみならず、公衆衛生上に危害あるものなれば、法律を以て強制すべからず、本会は深く国情に鑑み、極力之に反対する」との決議を採択し、政府に建議して急進薬剤師の動きを封じた。
斯くして「大日本医師会」が発進したのである。
明治39年制定の医師法はその後、実施経験や時代の推移により、明治42年に第1次改正、大正3年に第2次改正、大正8年には医師会の強制設立と医師の強制加入を骨子とする第3次改正を行った。
それは、医師法を制定した頃は、全国の医師数35511人の中、医学校卒業者が8657人(24.4%)であったが、大正7年には、全国医師数46107人の中、医学校卒業者が21826人(47.3%)と半数を占める様になり、医師の質が格段に向上したことと、国の医療行政遂行上、医師会は重要な役割を担う公共機関であることが認められる様になった結果である。
第3次医師法改正に伴い、従来の「医師会規則」は廃止され、新たに「医師会令」(勅令)が公布された。それは
(第1条)医師は都市区医師会を設立すべし、都市区医師会は道府県医師会を設立すべし
(第3条)本令に依り設立したものに非ざれば、郡、市、区、道、府又は県の文字を冠する医師会の名称を附することを得ず
以下26条よりなる。
又、「医師法施行規則」の一部を改正し、従来、「警察犯処罰令」で取り締まられていた医師の應招義務に関する規定が「医師法施行規則」に移されることになった。
[医師法成立以後]
この様に、地方医師会が着々と法的整備を遂げてゆく中で、その上部機構である大日本医師会も法定化を急ぐべきであるとの意見が高まって、大正10年11月、大日本医師会第6次定時総会に於て「本会を法定医師会となすことを内務大臣に建議する件」を提案、可決した。
これを受けた内務大臣水野練太郎は、「道府県医師会は日本医師会を設立すべし」という医師法改正案を中央衛生会に諮問した。中央衛生会は同意を与えたが、法案提出に当たり内務省と内閣法政局との間に法解釈の相違が生じ、第45回帝国議会に提出の法案は、「道府県医師会は日本医師会を設立することを得」という任意設立のものに修正された。
同時に「医師会令」も改正され、
「日本医師会は、五道府県以上の医師会長が設立委員になって会則案を作成し、道府県医師会の3分の2以上の同意を得た上で設立総会を開き、その議決を経て設立することが出来る」(第32条)
「日本医師会の総会は、道府県医師会がその会員である都市区医師会の会員中より選んだ日本医師会議員を以て組織する」(第34条)
等が規定された。
この規定に従い日本医師会設立の手続きを行い、大正12年11月25日、東京丸の内生命保険協会に於て日本医師会創立総会が開催され、ここに法定の「日本医師会」が誕生した。会長・北里柴三郎、副会長・行徳健男(熊本)、山本次郎平(兵庫)、理事・松本需一郎(大阪府医議長・東区)他10名で、役員14名の中、9名が東大卒であった。
斯くして明治維新以来50年、官と民が力を合わせて築き上げてきた努力が実って、近代日本の医療態勢の礎(いしずえ)が固まったのである。
大阪府医師会・南医師会の誕生:
さて、わが南医師会の起源であるが、大阪府医師会の年表に、明治30年12月、大阪市内東、西、南、3区の医師が団結して「大阪医師組合」を結成、事務所を東区淡路町の興医倶楽部に置く。明治32年2月、大阪医師組合は北区の医師の加入により、全市結合の目的を達し、新たに「大阪医会」と改称し、規約を改訂するとある。これが最も古い記録であろうと思う。その後明治40年に設立の法定大阪市医師会は、大阪医会がそのまま移されたものであろう。
明治21年に誕生した大阪市には大正14年まで東西南北の4区しかなかった。その後、大正14年に13区になり、昭和7年には15区に市域を拡大した。大阪市医師会もそれと共に会員が増加しているが、夫々の区に於いて医師会がどの様に組織化されていたのかは明らかでない。大阪府医師会の年表に、大正13年10月10日 北区医師会発会式、大正14年7月17日、住吉区医師会発会式、昭和3年2月12日 東区医師会設立などの記録を見るが、おそらくそれ等は、任意につくられた親睦団体で、所謂組織的な医師会活動は、大阪市医師会が全区を統括して行っていたものと思われる。
併し、会員の区医師会設立の気持は止み難く、昭和10年頃に原玄一郎ら29名を発起人とする「区医師会設立期成同盟」が生れた。彼らは大阪市医師会に区医師会の設立を求め、大阪市医師会は臨時総会を開いて「区医師会設立案」を可決した。時の大阪市医師会長は南区医師会の大先輩・高須謙一郎先生であった。この様にして念願の区医師会設立のレールが敷かれたが、その後間もなく日支事変が勃発し(昭和12年7月7日)、翌年4月1日には国家総動員法が公布されて、日本国民は一挙に臨戦態勢に向って総動員される所となった。それから
昭和14年 第2次欧州戦争勃発。
昭和15年 大政翼賛大阪医師大会。
昭和16年 医薬品の生産及び配給の統制。
島之内署管内医師救護団結成。
昭和17年 日本医療団令公布。
改正医師会令公布。
と事態が進転し、改正医師会令により、大正12年創立の日本医師会を解散、日本医療団総裁稲田龍吉を官選会長とする「新正日本医師会」がつくられた(昭和18年1月22日)。
大阪府に於ても改正医師会令により「改正大阪府医師会」が強制設立され、大阪市医師会を解散し、改正大阪府医師会の下に支部をおき、支部長28名を大阪府知事が発令した。改正大阪府医師会々長には菊地米太郎を厚生省が任命した。この様にして医師会も国家の「戦時非常態勢」の中に組み込まれたのである。
昭和17年に入ると日本軍は、国外各地の戦場で米軍の反撃をうけて敗退し、4月18日には日本本土(東京、名古屋、四日市、神戸)が始めて米軍機の空襲を受けた。昭和18年9月には日本と同盟国のイタリアが無条件降伏、昭和19年7月7日、日本軍サイパン島で全滅、8月10日、グワム島で全滅、そして遂に昭和20年3月13日、大阪市の中心部が米軍機の大空襲を受けた。ボーイング29が次から次へと果てしなく翼を列ねて飛来して、雨霰の様に爆弾を降らせる。屍を滅多切りにする様な悪鬼の仕業であった。一夜明けて 大阪市内は、見渡す限りの焼野原になっていた。空襲はその後も、6月1日、7日、15日、25日と波状に続く。8月6日、広島に原爆投下、8月9日、長崎にも原爆投下、そして8月15日突然、ラジオの電波を通じて日本全国に「終戦の詔勅」を読む天皇の玉音が伝わった。日本帝国無条件降伏の日である。それは日本国民が建国以来且て何人も体験したことのない屈辱と苦難の日々の始まりであった。
新制医師会
日本医師会は、会館や施設や資料を消失し、会員は、戦死や未帰還や疎開等によって消息が確認出来ない、連絡ネットも不完全である等々、戦後の大混乱に見舞われたが、その中から態勢を整え、眞っ先に医師会の再建に取り組んだ。
日本医療団総裁兼日本医師会々長稲田竜吉氏の辞任により、昭和21年2月1日、中山寿彦会長以下新役員を選出し、9月18日、「日本医師会改組審議会」を発足させた。改組審議会は「医師会改組要綱」を作成し、占領軍GHQ(GENERAL HEADQUARTERS)の意見を質しながら改組作業を進めた。審議会は、医師会の法的位置付けについて、医師会が本来の使命を遂行し、学術専門団体としての権威を保持するために、特殊法人とすることを求めたが、GHQの同意が得られず、「医師会は社団法人」を前提とする設立要綱や会則や設立の手続き要領等を作製してその任務を終了した。
新制医師会設立要綱(抜粋)
一 新生医師会は、医師の自由な意志と自覚によって設立されるものである。
一 新制医師会は、医道の昂揚、医学医術の発達普及と公衆衛生の向上とを図り、社会福祉を増進するを以て目的とする。
一 新制医師会は、社団法人とする。
一 新制医師会は、日本医師会、都道府県医師会、郡市区医師会の三種とする。
一 郡市区医師会の会員は、同時に都道府県医師会及び日本医師会の会員とする。
一 郡市区医師会、都道府県医師会、日本医師会は凡て、連合体の形の下に運営されるものとする。
一 凡ての医師会員は同時に日本医学会員たるものとする。
以上は新制医師会設立要綱の一部である。
そして、要綱の他、設立の手続き、会則案等を都道府県医師会に提示して、全国の医師会が歩調を合せて新制医師会を設立するように、昭和22年8月13日、日本医師会に「設立準備委員会」(委員長 榊原亨以下7名)を設けた。
ところがいよいよ着手の時になって突然、8月29日、中山日医会長ら13名がGHQから呼び出され、戦争協力者に対する公職追放を医師会役員にも適用するという通告を受けた。公職追放が、まさか医師会に及ぶとは誰も思っていなかったので、大へんショックを受けたが、設立準備委員会・榊原委員長名を以て「昭和17年国民医療法施行後、昭和22年までの日本医師会の会則上の役員、及び都道府県医師会の支部長(副支部長以下は非該当)は、新制医師会の役員たることを自発的に辞退すべきこと」という要望を都道府県医師会に伝え、全医師会がそれをうけ容れ夫々、新制医師会設立に向って作業を進めた。
斯くして昭和22年11月1日、新制「社団法人、日本医師会」が、戦後の民主国家の黎明の中に生れ出たのである。
新制日本医師会初代役員 (会員数 54,767名)
会 長 高橋 明 (学会)
副会長 井関 健夫 (大阪)
河北真太郎 (東京)
理 事 大里 俊吾 (仙台)
熊谷千代丸 (東京)
古畑 積善 (東京)
佐々 貫之 (東京)
竹内 一 (東京)
吉村 良雄 (岐阜)
藤沢 幹二 (九州)
岡 治道 (学会)
東龍 太郎 (厚生省)
監 事 三田 弘 (埼玉)
児玉 桂三 (学会)
小林 六造 (学会)
議 長 渡辺 信吾 (福岡)
木下 良順 (学会)
日本医学会々長 田宮 猛雄
新制医師会2
大阪府医師会は、昭和21年11月19日臨時総会を開き、支部毎に会員50名に1人の割で「医師会改組準備委員会」を設けた。委員の数は183名で、南区医師会からは藤原哲先生らが委員になった。協議を重ね、翌年1月24日には準備委員の中から、吉津渡、藤原哲、水野広、野中幸夫、井関健夫、桜根太郎、岩井弼次、西起三郎の8名を実行委員に選び、日本医師会と連携しながら新制医師会設立の歩みを進めた。つづいて昭和22年5月29日の臨時代議員会に於て、会則と新役員を定め、全国医師会のトップをきって新制大阪府医師会が発進することになった。併し、その後GHQの公職追放の通知が届いた為に、改めて新役員を選出して、昭和22年11月1日、新制「社団法人・大阪府医師会」の設立が許可されたのである。
新制大阪府医師会初代役員 (会員数 2,190名)
会 長 菊池米太郎
副会長
吉津 渡
理 事 山川強四郎 野中幸夫 刀山万造
藤野久三郎 宮田 訂 三羽 兼義
桜根 太郎 景山 万治 島田 吾一
議 長 西起 三郎
副議長
藤原 哲
南区医師会は、大阪府医師会と同じ時期に、府医改組準備委員会草案の「郡市区医師会々則準則案」を参考にして、定款、諸規定、役員等を定めて、昭和22年11月15日に「社団法人 大阪市南区医師会」を設立した。
新制大阪市南区医師会初代役員 (会員数 60名)
会 長 北川義太郎
副会長
三井 欣蔵
理 事 宇野菊三郎 宇野菊三郎
富永 文次 堀江 貞彦 飯島 近治
監 事 長谷川信男 田中彦太郎
議 長 藤原 哲
副議長
南 義忠
その当時の様子を、南区医師会25年記念誌の特集"創立当時の思い出"に長老方が書いておられるので、その幾つかをここに転載せて頂き、当時を偲びたいと思う。
"昭和22年ごろの思い出" 1班 三井 欣蔵
昭和22年と言えば自由民主主義の新風が澎湃して日本の津々浦々に浸透してきた近代医師会の黎明期であるが、わが南区医師会に於ても初めて民主的に会長公選を実施することになり、それへ公明正大な方法でFさんを担ぎ出して成功した思い出がある。
Fさんは誰に推薦されなくても自分の力で現在の地位につかれた人であるが、彼の才能を一般会員がまだ知らなかった時期に、先づ最初に南区医師会長に当選する様な発起し工作したのは、当時共産党員として高名のTさんであった。既に将来の大物の片鱗を覗かせていても、まだ一般会員の認識がなかったFさんを、南医師会長に押し上げ、磨きのかかってないダイアモンドを玉石混交の中から識別して掘り出した。
保守党のコチコチであるFさんと、共産党シンパの大物Tさんとの結びつきが何となく面白くて、私にとっては何時までも忘れられない思い出の一つになるであろう。
"日記から抜粋"創立当時を偲ぶ" 2班 薄 政太
昭和22年1月1日 54才の齢を重ねる。家族づれで生国魂神社に初詣で、彼は職員達を招いて新年会を催す。
1月18日
文化会館で南支部総会開催、医師会改組に就て支部長の説明あり。又、新設の気運に向いつつある南区医師会設立準備委員の選挙あり。藤原、荒木、高洲、宇野、河村の五氏当選。
1月20日
苦味丁幾を燗して飲む。
2月11日
紀元節、国旗を掲揚する。それも進駐軍の許可の下にである。ところが、国旗を出している家は稀である。日本人は国旗を忘れたのか。
4月 9日
南区医師会長に推されたが辞退した。
4月29日
天長節、国旗を掲揚する。町内を見渡すも何処にも国旗は見えず。酒精が手に入ったから「ヨントリー」を作る。酒精を水で割って、大豆の煎ったのを入れて臭気を抜く。これが「サントリー」に非ずして「ヨントリー」である。
8月27日
京橋で闇煙草を買う。コロナが45円である。50円渡し、5円釣銭を受け取ろうとした途端、警官が来たので闇屋の女の子は一目散に逃げ出し、僕は釣銭を取り損ねた。
10月30日
煙草の値上げを前にして何処にも煙草を売っていない。それに段々高値になるので禁煙しようかと考える。
11月28日
新機構配給医薬品査定委員なるものに選出され、少々迷惑。
12月10日
裁定委員に選出される。
12月31日
来年から煙草を止めようと思う。今日が最後と思って盛んに吹かす。
"私の会長時代の想い出あれこれ" 5班 藤原 哲
戦後天王寺、南、東区が合併して府医師会の一単位として運営されたが間もなく各区毎に分割され、大阪府医師会南区支部が出来た。その初代支部長に私が仰せつかった。そして土佐堀のキリスト教会堂の中の府医師会に度々通い、西起三郎議長の下で副議長をつとめたが、これが私の医政への縁の始まりで、間もなく支部長をパージで追放となり、翌年追放解除になって南区医師会長に就任したというまことに複雑な占領下時代の医師会運営であった。当時の医師会長は占領軍司令部から呼びつけられ、麻薬取締の厳格な指令と指導を受けたりで、今日の自由な医師会の姿を見ると当時が嘘のように想えるのである。
"偶感" 10班 下村 忠亀
昭和22年9月6日は南区医師会員としては最も記念すべき日である。この日大宝小学校講堂で新制南区医師会創立総会が開かれ、席上社団法人南区医師会定款が、北川先生司会の下に遂条審議されて、満場一致決定した。これにより会長北川幾太郎先生以下の役員が決定し、同年11月15日法人登記を完了してここに「社団法人大阪市南区医師会」が発足したのである。初期の会員数は60名前後であったが、昭和40年代には200名を越す盛況になった。
"回顧"10班 宇野 菊三郎
南区医師会が発足した当初の模様を書こう。当時上町地区は戦災から免れたので、多士済々であった。その中でも前から雄弁家で知られていた人が立候補するので、下町の方からも誰かを立てようとしたが、仲々勇気のある者がいない。突然長谷川耳鼻科氏が来て対抗馬として誠に恰好の人がある。大宝寺町で開業している北川幾太郎君で、医政も分るし雄弁家だということだ。当日選挙場の桃谷小学校で、名刺を配って熱心に北川推薦の先鋒を担いでいるのが何と木崎正美君だったのには驚いた。選挙の結果は初代北川会長に決定した。副会長は三井君で、理事には飯島君という名理事が誕生する。
まとめ
以上の医師会の発祥と変遷を纒めると、わが国の医療は、有史以来漢方の独り舞台であったが徳川の終わり頃から蘭学が興り、明治維新以後は、文明開化を目指す新政府が漢方を排し、西洋医学の採用を決定した。医学医術を家伝にして閉鎖社会を築いていた漢方の時代には、医師会を必要としなかったが、明治以後洋方医が増加するにつれ、医学医術の研鑽や情報の交換や、人類に対する医師の使命を遂行する為に医師の組織作りがなされる様になった。
その結果明治39年に「医師法」と「医師会規則」が制定され、それに基づいて明治40年に大阪市医師会が、大正2年に大阪府医師会が、そして大正12年に日本医師会が設立された。
その後、太平洋戦争に突入した日本は、戦時非常態勢の下に、昭和17年「日本医療団令」を公布し、従来の医師会を解散し、強制の日本医師会と大阪府医師会を設立して、医師を戦時態勢協力医療隊員としてその下に配したのである。そして敗戦、国家の激変の中で医師会も昭和22年、全国一斉に社団法人新制医師会として再出発した。
社団法人大阪市南区医師会の誕生日は、大阪府知事の設立許可がおりた昭和22年11月15日である。そして、昭和63年2月13日に南区と東区が合併して中央区になり、南区が消えた為に南区医師会の名称を「大阪市南医師会」に改めた。
今や日本の医療政策は、地域医師会の協力がなければ成り立たない時代になっている。昔は、永田町天皇とお茶の水天皇が話し合って事を決めた時代がないでもなかったが、今はそんな幻を追っかけている時ではあるまい。今や、地域の医師と地域住民の信頼関係の中から湧いてくるパワーで、国民医療の進路を選ばねばならない時であり、地域医師会の社会的使命は非常に大きい。
おわりに
「医師会の古い頃のことを書いてください」と言われて、何気なく肯いてからもう1年が過ぎた。昔話は話すのと書くのとは大違いで、話すのは朧気ながらでも記憶を頼りに辻褄を合わすことが出来るが、書く方は、人の名、ものの名、年月日、場所、数字、関わり、繋がりなぞの記憶が正確でなければ、そこでペンが止って仕舞う。私はもの覚えが特別悪い上に、近頃脳みそが老化して、古いレモンを搾っても種か滓かしか出ないように、一行書いてはひっかかり、資料を繰ってはまた進むという具合で、どうやらこうやらゴールインして、責任を果した解放感に一先づホッと一息した所である。
原稿を書き上げて考えさせられたことであるが、「医師会」の歴史は、明治の始めからとしてもたかだか120-30年位のもの、それに較べて「医師」は、始まりを仮に古事記や日本書記の記す所に求めたとしても1500年の歴史を積んでいる。その歴史の底に脈々と流れて変わらないものがある。それは「医は聖職」なりとする医師の自覚である。神は人類を病いの苦しみから救い出す任務を医師に託された。その名誉と誇りにかけて医師は学び、自らを磨き、人の信頼の上にたたねばならないとするヒポクラテスの誓いを今も心に受け継いでいる。歴史をふり返ってみると、「医師会」とは、その誓いのもとに集った医師達の集団であることが、よく肯けるのである。医師がその誓いを見失った時には医師会は、ただの業種組合でしかなくなる。
原稿を書き終って私の心に残ったものは、その様な思いであった。
はじめに書いた様に、今、未曽有の高令・少子化の時代を迎えて、日本の医療保険制度は経済破綻の危機に直面している。こういう時にこそ医師会が、而も地区の医師会が、住民と共に声をあげねばならないと思う。
最後に資料の収穫にご協力下さった方々、特に、日本医師会図書館の従業員の方々にお礼を申し上げ、責を果すこととする。
(平成9年9月11日)
[文献]
医制八十年史 厚生省医務局
医制百年史 厚生省医務局
医師会・医学会 内務省衛生局
日本医師会 北里研究所
大阪府医師会25年史 大阪府医師会年表
20・30・40周年
南区医師会創立記念号誌
25・30・35・40周年
医師会法案事件顛末 入澤達吉
南区医師会人国記 友田 博
船場の医者 東区医師会
白神記 福井県医師会
日本の医療史 酒井シヅ
診療報酬の歴史 青柳精一
医学の歴史 小川鼎三
病気の社会史 立川昭二
雪の花 吉村 昭
日本の歴史 社会思想社
日本史 自由国民社
日本史年表 岩波書店
東洋医学 大塚恭男
東洋医学を知っていますか 三浦於莵
日本人名事典 三省堂
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