新たな言葉は、裸で生まれてくる
詩人・彫刻家の高村光太郎は、「詩について」という短いエッセイの中で、詩の特徴をこのように記している。
詩として用いられた言葉は、たとれそれが日常生活の中でも使われているものであったとしても、その言葉そのものが生まれ出でたその原初の古い層での意味で用いられることである。日常場面では、私たち自身がそうであるように、言葉はその使用場面に相応のさまざまな衣を着ている。しかし、詩の言葉は「裸」なのだ。剥き出しの意味が、そこにある。
同様のことを、哲学者で心理療法家のユージン・ジェンドリンも述べている。彼の考案したフォーカシング(focusing)という実践では、身体的に漠然と感じられる意味感覚、フェルトセンス(felt sense)を手がかりに、自身の問題や状況の意味や、新たな理解を探求する。
フェルトセンスの実例として、ジェンドリンがたびたび用いるのが、詩人の詩作場面である。詩人が次のフレーズを書こうとして、そのペン先が止まる。何かを書こうとするが、その言葉が上手く出てこない。詩人は、何かそこに書かれようとしていること、まだうまく表現されていないが、確かに感じられているその「実感」に注視しながら、その言葉がやってくるのを、実感と共に待っている。詩人とは、「言葉そのものの生まれなければならなかったその原初の要求」に耐えうる全ての人のことである。なお、キーツはこれを「ネガティブ・ケイパビリティ」と言ったのだった。
ジェンドリンは、詩人のそれのように、まだ曰く言い難いものの、確かに感じられているその「実感」のことを、ある論文で"naked saying"と表現している。ありふれた表現を見つけられてていない剥き出しの表現、「裸のことば」である。
これまでの既存の発想が通用しないとき、新たなアイデアを生み出そうとするとき、人はみな詩人のように、「はだかの言葉」で語る必要がある。詩人とは、「言葉そのものの生まれなければならなかったその原初の要求」に耐えうる人のことである。なお、キーツはこれを「ネガティブ・ケイパビリティ」と言ったのだった。そしてこれは、詩人だけでなく、新しい「何か」を産み出そうとするあらゆる人が直面することである。
曰く言い難い、適切な表現が見つからない、まだ言葉にならないもの。ありきたりの、よく意味を知っている表現よりも、その実感には、他にはない確かな「質量」が感じられる。そういう、まだ何も着ていない、なまの、確かな感覚として、詩の言葉はやってくる。そこには、存在しなければならない意味の「質量」がある。
人は、裸で生まれてくる。言葉もまた、新たに生まれてくるときは裸である。生まれたての子どもを抱いている時のように、か弱く、頼りなく、それでいて「質量」や「温度」というような、確かな実感を伴って、紛れもなく存在している。言葉の深層には、いつまでのこの産まれでた時の裸の意味が存在し続けている。
詩人は、そして新たな意味の誕生に立ち会っている人は誰でも、裸のことばの産声を待っている。
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