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夢が、私の生という「パズル」の1つのピースだとしたら〜悪夢の捉え方〜

暑くて寝苦しい夜が続いているが、そういえば昔は定期的に、ずいぶんと酷い夢を見ていたことを思い出した。

もともと、リアルでしっかりと色のついた夢を見るタチだった。登場人物が動き、何か喋ったり、いろんなことが起こる。概ね論理的に破綻していた。例えば高校生の頃に見た、鮮明に覚えている夢がある。
僕はどういうわけか動物と話せるようになっていて、色んた動物たちと話をする。学校の屋上でカラスと話し込んでいると、不意にそのカラスが「自分も人間の話がわかるようになりたい、人間と喋りたい」と言う。すると僕はカラスに「人間の言葉がわかるようになったら、人間と話したいなんて思わなくなると思うよ」と言って、自分が言ったことに驚いて夢から覚めてしまった、ということがあった。

夢は、不可解さとして僕たちに到来する。10代後半から20代の終わりあたりまでだったか、特によくわからない強烈な夢のパターンがあった。自分が死ぬ夢だ。

ありとあらゆる死に方を夢で体験した。病死、事故死、溺死、手術の失敗、感電死…その度に飛び起きて、心の底から「夢でよかった」と思うことが定期的にあった。巷では自分が死ぬ夢は逆に縁起がいい、なんて言ったりもするようだけど、見るたびに「勘弁してくれ」と本気で思っていた。

最近はあまりこの手の「自分が死ぬ夢」見なくなったな気がするし(覚えていないだけかもしれないが)、30代も後半になり、ライフステージが変化して、どちらかといえば自分の親しい人や大切な人が大変な目に合う夢が、その代替をするようになったのかもしれない。いくつかそのような強烈な夢は覚えている。

ジェンドリンも夢解釈法を提案しており、1986年に刊行した"Let Your Body Interpret Your dreams"(邦題『夢とフォーカシング』)以来、いくつか論文も発表されている。ジェンドリンの夢解釈は独特で、本のタイトルを直訳すれば「あなたの夢をあなたの身体に解釈させよう」になるが、夢占いやいわゆる伝統的な夢解釈と異なり、身体が作り出した夢という”隠喩的言語”のその意味を、その隠喩を作り出した身体の感覚を通じて理解するというものだ。

例えば何らかの悪夢を見ても、ジェンドリンの夢解釈ではそこに、生きている身体が指し示そうとしている何からの意味を捉えようとする。悪夢について、ジェンドリンはこんなふうに言っている。

「悪い」夢を否定的に解釈するのは、間違っているに違いありません。その夢を見たことがあなたに何のステップも与えてくれないからです。今、作りかけのジグソーパズルがあって、床に破片が1つ落ちていたのを見つけたとします。これがプラスにならないわけがありません。しかしあなたはその破片に描かれた小さな絵のようなものだけでやっていこうとはしないでしょう。その破片を1つだけポケットの中にしまっておこうともしないでしょう。あなたはそれをパズルにはめ込んでから、絵の全体を見るでしょう。しかし、この比喩は十分ではありません。夢の破片をあなた全体の中にはめ込むと、からだを通して、全体が新しいものに変化するのです。

『夢とフォーカシング』邦訳44-45頁

夢をその夢の内容だけから理解しようと試みることは、ジグソーパズルの1つのピースだけの絵を見ているだけにすぎない。自分の生の全体にそのピースを嵌め込むことで、その夢の意味は生かされる。しかも、夢の断片を自分自身の生の全体に嵌め込むことで、生はさらに変化し、進展していく。ジェンドリンにとっての夢は、身体が有意味な次なるステップを歩むために私たちに見せる、断片的な一つのメッセージなのである。それは、身体を通じて、生きている全体につながっている。

あの当時によく見ていた「悪夢」は、確かに自分にとっては生きていくことのリアリティに立ち返らせてくれたり、翻って、今を生きることを際立たせてくれていたように今は思える。
そして、見る夢が変わっているのは、自分自身の生きている全体性が変化していっているからなのだろう。確かに10代の多感な頃は、人間にも自分の人生にもあまり期待していなかったし、随分と斜に構えていたのだった。今は当時よりもう少し、いろんな人生の複雑さの中を生きていられているような気がしている。

人間は毎晩、「夢」という断片的なピースを1つ受け取る。その夢を自分の生のパズルに当てはめてみることは、今の自分を知ること、そして今の自分の身体が指し示す、これからの何かを知ることでもあるのだろう。


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