日本人はフェルトセンスを活かすのが下手?:『フォーカシング』日本語版序文より
今もなお再版が続いている、ジェンドリンの名著『フォーカシング』。福村出版の邦訳版には、ジェンドリンの日本語版序文が掲載されている。
序文が執筆された日付は1981年5月15日とあり、1978年の秋に日本心理学会での講演とワークショップのため来日した際の日本の印象、そして日本で出会った人々との関わりについても記されている。
その中で、日本とアメリカでフォーカシングを学んでいる人々のセッションの特徴を対比的に語っている興味深い箇所がある。その内容は以下のとおりだ。
ざっくり言えば、アメリカでは多くの人がフェルトセンスを感じること自体が難しい場合が多いが、日本人はフェルセンスを見つけるのは容易いのにも関わらず、そのような身体的な感覚を自分の生きている状況や問題と結びつけてみること、フェルトセンスを状況の理解や問題の対処のために活かすことに時間がかかる、ということなのだろう。
引用部分には「ついて」の部分に強調があり、この部分は日本語版にしかないため元々ジェンドリンが原文でどのような記述をしていたかは不明であるが、おそらくは”about”の単語が強調されていたのではないか。
"about"という語の強調はジェンドリンの思想においては一貫して重要で、例えば2013年の論文「アラカワ+ギンズ」(論文集Saying What We Meanに再収録)では、哲学することは「〜についてということについて(about the about)」取り組むことだと述べる。
この"about"性は、ここではフェルトセンスが単に身体の中に内在する閉ざされた感覚ではなく、生きている状況とまさに関連している、状況”について”の感覚であり、だからこそ身体は、状況の意味や問題の解決の糸口を知っているという図式が成り立つ。ここはフォーカシングの中核的な部分に関連するところである。
いずれにせよ、ジェンドリンにとっては日本の人々が、いろんなことを微細に感じてはいるのにもかかわらず、それを具体的な状況の意味として捉えたり、そこから問題について取り組もうとすることに難しさがあるように映ったのであろう。
たしかに、あれやこれやのその場の”空気”を肌感覚で感じてはいるものの、それを暗黙の前提として、何らかの問題の解決や対策のほうではなくむしろ、物事の抑制的、統制的な仕方で影響を及ぼしてしまうところは、山本七平の『空気の研究』(文春文庫)を連想するまでもなく、至るところで言及される日本文化の特徴である。
かつての流行語の”KY(空気読めない)”に代表されるように、感じているのに、場にコミットしない、空気に従順であるというこの辺りの日本社会の負の側面を、ジェンドリンは看過していたのだろう。
自身の感じていること、それもまだ自分自身でも言葉になりきれてないような、微細でフラジャイルな感覚を、状況や目の前の他者と交差させ、その意味を互いに精密にしていくこと。ただ空気を読むことでも、声高に叫んで空気を壊すことでもない、「フェルトセンスを声にする」ということ自体、少なくともこの令和の時代においても、日本では多くの人にとって難しいことなのではないか。
『フォーカシング』の後半はコミュニティ形成のために多くの章を割いている。ここ何度かの選挙報道でも印象的であったSNS上の空気や異なる強いメッセージに揺さぶら続けている私たちにおいて、改めてこの本を読むことは、非常に意義があると僕は思っている。