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【小説 神戸新聞文芸202405】豆苗育て ※落選作

 キシヤマさん、だいぶ変わっているからと介護施設の同僚から話は聞いていたが、別の介護施設でも働いたことがあるわたしはそれほど気にも留めなかった。

「豆苗ばかり育てているの。いっそ、豆苗専門の農家になればいいのにと思うくらい」

「ベランダにプランターを置いてハーブを育てているひととか結構いるけれど。アボカドを育てるひともいるし」

「いやいや、そういうレベルじゃないから。百聞は一見に如かず。キシヤマさんの家に行けば分かる。すごいんだから」

 利用者のプロフィールや直近数ヶ月分の訪問介護の記録を読む。

 キシヤママナブ。七十一歳。男性。現役時代は会社員(半導体関係の技術職)。だいぶ前に離婚して独り暮らし。子ども無し。兄弟はいない。四年前に脳梗塞で倒れて半身不随になり、リハビリも受けたが自立した生活を送れるまでは機能回復していない。今も定期的に通院して脳や血液の状態を見てもらっている。病院から処方された数種類の薬はきちんと服用できている。

 キシヤマさんの家の扉を開けると豆の匂いが鼻を打った。エンドウマメの匂いだと思った。そうか、豆苗はエンドウマメから作るのかと今さら気づいた。

 部屋の床には、整然と、しかしびっしりと水耕栽培用のガラス鉢が並べられていて、それぞれの中で豆苗が育っていた。壮観を通り越して、少し怖かった。

 窓は全開にしてあったが、これだけ多くの豆苗があると青臭い匂いは部屋からなかなか抜けないらしく、それが豆苗をいっそう青々と見せているようにも思った。

 キシヤマさんは、豆苗に囲まれ、まるで豆苗のついでに生まれてきたかのように、車椅子に腰掛たまま微笑んでいた。

「きょうから介護を担当することになったノノムライクミです。よろしくお願いします」

「イクミさん。ノノムラ・イクミ、ノノムラ・イクミ・・・・・・」

 わたしが手渡した名刺を凝視したまま、キシヤマさんはわたしの名前を繰り返し呟いた。真面目なひとだと思った。

 介護計画書に書かれていたやるべき仕事を終えた後、少し時間が余っていた。途中まででもと豆苗の水を取替えようとすると、やらなくていいです、と止められた。

「リハビリも兼ねて、自分で水を取り替えているんですよ」

「できるんですか」

「杖やら何やらを使いながらだから半日つぶれますけれどね。水をこぼさないように、ガラス鉢を割らないようにと注意するでしょう。集中力がつくんですよ」

「この豆苗を使って、お料理をされるんですか」

「もちろん。ドレッシングをかけて食べたり、炒り卵に入れたりという程度ですが。白状すると、たまに、そのまま齧ってみたりも」

「美味しそうですね」

「新鮮だから。ところで、豆苗のこと、英語で何て言うか知っていますか」

 とっさの質問にまごつくわたしにキシヤマさんは優しく教えてくれた。

「そのままです。ビーン・スプラウツ、bean sprouts。豆の苗。豆の若芽」

「何だ、考えて損した」

 お互い、自然な笑顔になった。

「こういう単語は学校で習いませんからね。わたしだって、絵本のことをピクチャー・ブック picture bookというのを知ったのは、つい最近――別れた女房が育てていてね、豆苗を」

「豆苗がお好きだったんですか?」

「好きだったのかな。そこまでは分からない」

 キシヤマさんは豆苗の緑色の向こうを見つめながら、独り言のように話し出した。

「離婚する少し前だった。もう離婚するんだと向こうは心を決めていたんだと思う。女房が、どうして赤い豆から緑色の芽が出るんだろう、不思議だね、みたいなことを言ったんです。そのときわたしは、自然の摂理とはそういうもので、不思議でも何でもないと返した。そのときの彼女の顔を、鮮明に覚えています。今まで見たことのない悲しい表情だった」

 わたしは無言で頷き、話の続きを促した。

「退職して、豆苗でも育ててみるかと始めてみたんです。豆苗って、上手に刈り取ればまた生えてくるんですね。科学的には、もちろん不思議でも何でもないんですよ。でも、あるとき気づいたんです。自然現象を不思議だと思う彼女の感性もまた自然であり、美しかったんだと」

 キシヤマさんは顔を覆って呻いた。わたしは聞こえないふりをして、緑色に光るガラス鉢を見つめた。豆苗の匂いが好ましく思えた。

「奥さんと、また会いたいですか?」

「いや……会いたくないわけではないんだけれど、向こうは会わないだろう。それに、仮に向こうが会いたいと言ってきても、断ると思う」

「素直になれないんですね」

「そうかもしれない。厳密には違うんだけれど、このへんの人情の機微をどう言い表わせばいいか、わたしには分からない。わたしの中では、これは素直な、率直な情感なんです」

「豆苗育て、いいご趣味だと思います」

「ありがとう。あなただけだ、そう言ってくれるのは。次もまた来て」 「分かりました」

「他のひとたちは気持ち悪がってね。まあ、無理もないけれど。水を取り替えようとしたの、あなただけです――ああ、時間、超過しているんじゃないかな。長く引き止めて申し訳ない、次の介護先に行ってらっしゃい」

 わたしはキシヤマさんに頭を下げ、次の訪問先に向かった。

 実務が終わって日報をつけていると、事前に忠告してくれた同僚から声をかけられた。

「どうだった?」

「人間の成長について考えさせられた」

「何、藪から棒に?」

「学生時代、ゼミの指導教授に慰められたことを思い出した。『人は長い目で見ないとあかん』。まあ、卒業論文が書けないわたしへの、諦めや慰めみたいなものだったんだけれど」

「長い目って、キシヤマさん、もうおじいちゃんだよ」

「おじいちゃんだって、人生は続くから」

 帰りがけにスーパーで豆苗を買い、茎から先をハサミで切り取って味噌汁の具にした。青い香りのする味噌汁は美味しかった。

 食事の後片付けを済ませた後、長い間使っていないラーメン鉢に茎を切り取った豆苗の根を入れた。根についている豆が浸からない程度に水を張り、窓際に置いた――切り取られても、豆苗はまた育つんだ。青々と。


※この作品の著作権は作者・本木晋平にあります。無断での引用・複製・転載を固く禁じます。

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