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無職になるまで日記(寄り道)


友人の内藤氏のnoteに対する感想

美味しい料理を提供する料理人
とは別に
文化としての料理を出す人がいる

明確な区別をするようになったのは、ここてらすで間借りカレー屋さんが営業するようになり、内藤さんと関係性が深まる中でのこと。

つまりは、内藤さん自身が、東南アジアの文化に寄与することを、活動の軸にしていたからに他ならず、そうした熱を、幸運にも感じられる距離にいた。

食文化としての料理を提供するタイプの人は、異国料理に限った話ではなく。
いわゆるオフクロの味や、ご当地グルメの中にも、そうした、『文化』としての食事。言い換えれば、そこに暮らす人にとっての『当たり前』『日常』の食事のことだと思う。

ただ、当たり前や、日常は、時代によって変化に晒される。

いわゆる和食にしたって、家庭料理にしたって、その在り方は、常に変化している。

それはあまりに日常的だからこそ、『守る』や『維持する』からは遠く、気付かぬうちに失われていってしまう。

だからこそ、内藤さんがやろうとしていることもまた、ある特定の時代における、そこに暮らす人々の営みによって生み出された『文化』を切り取り、伝えていくことになるんだとすれば、内藤さんの視点によって切り取られたそうした文化は普遍的なものでありながらも、唯一無二のものになると思う。

なにより、内藤さんが、自らの過去を掘り下げ、文脈を見出す作業には、興味がつきない。

はよ書いて欲しい。

待ってる。

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